第3話 シグナル
パートナーの浮気疑惑を相談する内容から、男女の浮気の違いを
なかには浮気を隠すアプリの紹介まであって、ここまでして浮気したいものなのかと呆れてしまう。
紗英は画面をスクロールしていき、探偵事務所のホームページが出てきたところでクリックした。
「なになに……スマホを手放さない。服装に気を遣う。体型を気にする。下着を買い替える。スケジュールによく分からないマーク? なにそれ。ええっと、匂いに敏感になる。相手の予定を詳しく聞く……て、どれだけあるの! 全然隠す気ないじゃない」
思わず声を上げる。気を静めるため、すっかり冷めたコーヒーをひと口飲んでから、箇条書きになった「浮気のシグナル」をもういちど眺める。
浮気相手に良く見られたいのと、パートナーに隠すための、二種類があるようだ。
「どうして、パートナーに良く見られたいって方向にいかないのかな」
紗英には浮気したいと思ったことも、そういうシチュエーションになった経験もない。だから、浮気する人の気持ちはまったく理解できない。後ろめたさや面倒を抱えて生活するくらいなら、さっさと別れてから次に行けばいいのに、と思ってしまう。
根が真面目なのだ。
しかし、もう他人事ではなくなってしまった。この箇条書きが、航太郎のパンドラの箱を開ける
紗英はもうひと口コーヒーを含んで、パソコンの電源を入れた。どうせなら記録をつけたほうが後々役に立つのではないか、と思い立ったのだ。
頭に日付を入力して、今朝のできごとをメモに残した。
その下に、探偵事務所のホームページから「浮気のシグナル」を書き写し、横に航太郎の行動を書き加えた。
といっても、服を買ったり、ダイエットをはじめたりすることくらい誰にでもある。すべてが浮気に
航太郎のばあい、買い物に行けばかならず紗英の意見を聞きたがった。自分自身で選ぶのは仕事用のワイシャツくらいだ。
ところがいつだったか、航太郎が外出用の服をやけに気にしていた時期があった。普段はあまり着ないジャケットやスラックスを何着も買っていた記憶がある。
「たしかあれは三年くらい前だったかしら。『会社の先輩からゴルフに誘われてる』と言って出かけてたわね」
紗英はゴルフをやらないから「クラブハウスでのルール」と言われれば、「そんなものか」と思っていた。
ひとつ思い出したあとは、小さな違和感だったものが次から次へと浮かんでくるから不思議だ。
いきなりバランスボールが家に増えたり、ひとりでジムに通いはじめたりしたのもそのころだ。ジム通いは半年くらいで終わってしまったが。
紗英は記憶にあるかぎり航太郎の行動を書き記した。
書いていて情けなくなってきた。
「わたし……シグナル見落とし過ぎじゃない!?」
いよいよ最後の項目になったとき、その一文を読んで目を疑った。
「うわ、最悪だ。『イベントの前後に外出が増える』かあ……」
紗英の頭には、封印していた苦い記憶が鮮明に
*
今でこそ、二人がそれぞれ自分専用のパソコンを持っているが、結婚当初は一台しかなかった。アカウントを分けることもせず、航太郎のアカウントを二人で使っていた。
結婚からしばらくして生活も落ち着くと、趣味の時間が増えはじめた。そうなると、パソコンの共有に不便さを感じるようになり、紗英は思い切って自分のパソコンを買ったのだった。
その日は二月の
紗英はデータを移そうと、航太郎のパソコンを開いた。連絡先として、航太郎のメールアドレスを登録していたネット通販を洗い出し、新しいメールアドレスへ変更手続きをするためである。
そして過去に
『また食事にでも行きませんか? クリスマスイブなんてどうでしょう?』
『それはちょっと、奥さん大丈夫じゃないですよね?』
航太郎と、取引先の担当者と思われる女性とのあいだのやり取りである。
残されていたのはこの二通のみ。航太郎が誘って相手に断られた。それだけのことだと思った。実際、二か月前のクリスマスイブは紗英とともに家で過ごしていた。
けれどはっきりと覚えていた。クリスマス前、航太郎は休日出勤と忘年会と言って出かけていた。
*
「ほんと、嫌なこと思い出しちゃった」
こうして考えてみると、やはりスマホを手放さなくなったころから、浮気しているように思える。
これまで、紗英は浮気を疑うことを極力
信頼している、といえば聞こえはいいが、ようは諦めているのだ。
スマホやSNSがこれだけ普及していれば、浮気はもはや「悪魔の証明」だ。あることよりも、ないことを証明するほうが不可能に近い。
ならば。
浮気を疑って時間と労力と費やし、精神的ダメージを食らうよりも、離婚する気がないなら
己の性格くらい
だからこそ、航太郎の行動もスマホも深く追求せず、パンドラの箱を遠ざけてきた。
しかし、もう遅い。航太郎の
「どうせなら、もうちょっと早くボロを出してくれればよかったのに」
紗英は、長いあいだ勤めていた会社を三か月前に辞めたばかりだ。無職で離婚はあまりに痛い。
だからこそ、紗英は冷静に考える。
たしかに、昔の紗英だったら「離婚だ」と
今は?
心は多少モヤモヤするけれど、生活にはおおむね満足している。
仕事を辞めて自由にさせてもらい、趣味の時間も増えた。夫婦二人の生活で、航太郎が協力的だから家事の負担も少ない。それに完熟フルーツのお取り寄せというご褒美もある。
今すぐ、この生活を投げ出すのは
離婚する気がないなら、知らないフリをしてもいいのではないかと思えてくる。
「これが情というものかしら」
だからといって、浮気を許せるかといったら答えはノーである。
ずっと航太郎に
しかし今日からは違う。少なくとも、何も知らなかった今までよりは現実を見て生活できるだろう。
自分なりの結論を出すと、紗英の気持ちは少しだけ回復した。
すると、はかったようにスマホに通知がきた。しばらくして、つづけざまにスマホが
『同窓会行く人?』
『みんなが行くなら行く』
『行くよー』
『出席しまーす!』
『ごめん、ムリだわ』
『何着てく?』
今朝届いた「同窓会のお知らせ」について、グループチャットが盛り上がっている。
紗英としては、クラス委員の名残でグループに参加こそすれ、仲が良かったのはクラスより部活のメンバーだ。出席したとしても、居心地の悪い思いをするのがお決まりの案件である。
それに、幹事のひとりに名前を連ねている、元カレと顔を合わせづらいのもある。
紗英は少し考えてから慎重に入力した。
『都合が悪くて行けないと思います』
窓の外を見ると雨が上がって
「やっぱり洗濯だけでもしておこう」
紗英は深く沈みこんだソファから思い切って体を起こした。
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