第2話 違和感

 はじまりは、なんでもない朝だった。

 いつもと違うことといえば、中学の「同窓会のお知らせ」メールが届いたことと、結婚して九州に引っ越した友人から宅配が届いたことくらいだった。


 段ボールを開けると、フルーツ専門店で見るような立派な化粧箱が出てきた。ふたを開けたら真っ赤にれたマンゴーが二つ入っていた。

 蜜を塗ったように艶やかで、独特の甘酸っぱい香りがキッチンに広がった。


 自分たちでは決して手の出ない贈答用の完熟マンゴーは、すぐさま冷蔵庫に入れられ、その日の夜に食べることになった。

 どうせなら、店で出てくるような(さいの目に切って皮を裏返しにし、花がいているような)アレンジをやってみたいね、と話していた矢先のことである。


 出勤の準備をするために立ち上がった航太郎こうたろうが、スマホの画面を見せながら言った。


「これ、マンゴーをきれいに切る方法だって」

「どれ?」

「ん、俺もう準備するから」


 そう言って、航太郎は自分のスマホを紗英さえに渡すと、そのままリビングを出て行ってしまった。

 スマホを手にした紗英はというと、マンゴーの記事を読むどころではなかった。もう何年も、航太郎は自分のスマホをかたわらに置いて手放てばなすことがなかったからである。


「え、どういう風の吹き回し?」


 あまりの衝撃に、紗英はそのままスマホをテーブルに置いてしまった。当たり前だが、時間がつと画面はロックされてしまう。


「あ……ッ」


 あわてて指を伸ばしたがすでに手遅れ。顔認証でしか解除できない画面になっている。

 申し訳ないが航太郎にもういちど解除してもらうしかない。そう諦めたとき、ふたたび画面が明るくなった。


 カレンダーのアイコンにつづいて通知が表示された。



『七月四日 十時全体会議』



 今日のスケジュールのリマインドだ。

 しかし、紗英の目を釘付けにしたのはそのひとつ前の通知だった。


 メッセージアプリのアイコンとともに表示された相手の写真は女。



『サト 二件のメッセージ』



 連続して届いたためメッセージのプレビューはない。

 紗英の心臓はどくどくと音を立てていた。頭はかっと熱いのに、指先は冷えていく感覚がして息苦しくなった。


 画面がふたたびくらになったとき、洗面台から勢いよく流れる水の音が聞こえてきた。

 紗英はリビングの入り口にちらりと視線を投げたあと、意を決した。


 もういちど、航太郎のスマホの画面をタップして通知を表示させると、自分のスマホで手早く写真を撮った。




「どうだった、これならできそう?」

「うーん、たねさえ上手うまく取れればね。種を取ろうとして力入れると、実がつぶれちゃうのよね」

「そこは上手く包丁を入れるしかない」


 紗英は残念な有りさまになった、去年の桃を思い出して渋面を作った。かたや航太郎は、踊り出しそうなテンションでネクタイをめている。


「夜が楽しみだな。桃もシャインマスカットも注文してあるし、今年はフルーツ三昧ざんまいだぜッ!」


 紗英は酸っぱい食べ物を苦手としている。フルーツは美味しければ食べたいと思うけれど、食べるまで美味しいかどうか分からないから、積極的に買いたいとは思わない。

 だからこの家の食卓にフルーツが上がることはめったにない。


 五年の結婚生活で航太郎も学習したのだろう。

 はじめは食べたいとリスエストしていた。しかし紗英はなかなか買わない。今度はスーパーにくっついてきては、カゴの中に梨やらみかんやらをこっそり入れるようになった。


 それが最近では世間のお取り寄せブームに便乗している。旬に合わせて届くお取り寄せフルーツは、とにかくハズレがない。


 紗英はこれを贅沢品だと思っている。紗英なら食後のデザートにこの値段は出せない。

 だから食費に響くようなら紗英も黙っていないが、航太郎のお小遣いの中でやっていることなので好きにさせている。むしろご相伴しょうばんにあずかっている。


 つまり、紗英も少なからずフルーツを楽しみにしているのである。

 そのはしゃぐ気分も、航太郎のスマホのせいで台無しになってしまった。


「こんな時間に業務連絡ってこともないわよね? 遅刻にはまだ早いし……でも、病院ならあり得るか」


 相手が同僚ならば、の話だが。


「行ってきます。――あ、今日の晩ごはん何?」

「今日はハンバーグの予定です」

「うん、じゃあ昼はそれ以外にするよ」


 航太郎は昼食をコンビニか、会社近くの喫茶店ですますことがほとんどだという。


 結婚してしばらくは、昼食と夕食のメニューがかぶってしまうことがよくあった。

 そういうとき、航太郎はいつも「また気が合った」と笑った。申告をしない日でも「あ」という顔をするので、紗英は「またか」と心苦しく思ったものだ。


 なかでも気が引けたのは、パスタを食べた日にボロネーゼやカルボナーラといった、ソースまで完全一致してしまったときだ。


 すべては、料理を作る紗英のレパートリー不足がまねいた拷問ごうもんである。


 それ以来、紗英は航太郎が出かける前に晩ごはんのメニューを伝えることにしている。航太郎もそれが分かっているから、紗英が伝え忘れたときには自ら確認するようになった。




 航太郎を送り出すと、紗英はコーヒーを入れ、勢いよくソファにたおれ込んだ。


 今日は朝から小雨こさめが降っている。そのせいか、蒸し暑さが尋常じゃない。メッセージの件もあって、不快指数は二〇〇パーセントだ。


「今日はもう開店休業にしてやるッ!」


 天井に向かって叫ぶと、スマホを手に取った。先ほど撮った写真を穴のあくほど見つめる。


 年齢不詳の長いストレートの髪に、上品な菫色すみれいろのカーディガンを肩からけた女。口元はハートマークで分からないようにしているが、目には強い意志を感じる。

 手にはシャンパンだろうか、泡のグラスがいかにもという写真だ。


「コタの周りには、いないタイプだけどな」


 表示されている「サト」という名前にも心当たりはなかった。しかし実際にメッセージが届いているのだから、存在しているのは間違いない。

 メッセージの内容が気になる。どうしてさっき確認しようとしなかったのか。臆病風おくびょうかぜに吹かれたことを後悔したところでもう遅い。




 航太郎とは結婚して五年になる。夜のほうは遠ざかっているが、仲は悪くない。二人とも漫画やアニメが好きなこともあって、お互いの趣味に理解もある。


 紗英は自分から見た、夫としての航太郎を思い浮かべてみる。



 紗英に対して滅多なことで怒らない。

 家事に協力的。

 毎朝同じ時間に出勤し、同じ時間に帰ってくる。

 残業や出張はほぼない。

 仕事終わりの飲み会もない。

 毎晩家でごはんを食べる。

 残業しても家でごはんを食べる。

 家ではずっとアニメを見ている。

 休日は買い出しにつき合ってくれる。



 客観的に見て「いい旦那さん」に見えなくもない。

 顔はイケメンというほどではないが、性格はおだやかで、人から好かれる能力スキルは紗英よりずっと高い。

 航太郎を知る人からは「優しい旦那さん」の称号を獲得していて、本人もそれを自負している。


 けれど、紗英にはずっと気になっていることがあった。



 航太郎はスマホをかたときも手放てばなさない。



 浮気のシグナルとしては、いちばん最初にあがるやつだ。しかも、グレーじゃなくて真っ黒なやつ。

 紗英が覚えているかぎり、ここ数年はずっとそんな感じである。最初は気になってさぐりを入れていた紗英も、それが当たり前になると何も言わなくなった。


 理由をあげるならば、「武士の情け」だろうか。

 オタク趣味というのは、突きつめれば性癖のようなものだ。そう簡単に他人にはさらせない。それは紗英も同じだ。

 だからスマホはそっとしておく。気になっても、「オタクの流儀」だからとあえて触れずにこれまできた。


 しかし、それも昨日までの話。

 一端いったんを知ってしまったら、すべての秘密をあばいてしまいたい。そんなゲスな気持ちでいっぱいになった。

 紗英は昔から、いちど気になったら好奇心には勝てない性分しょうぶんである。それで失敗したことも一度や二度ではない。


「さすがに、今回はパンドラの箱よね」


 そう思いつつも、紗英の指はスマホ画面をすべる。

「浮気のシグナル」で検索をかけた。

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