浮気のフリしてるだけの主婦ですが

木野結実

第1話 真夜中のミッション

 足音を消して廊下を歩いた木村きむら紗英さえは、寝室の前に立つと、息を殺して中のようすをうかがった。ドアの向こうからは、怪獣のようないびきが聞こえてくる。


「大丈夫そうね」


 夫の航太郎こうたろうが寝ていることを確認して、紗英は寝室の向かいにある部屋へ静かに足を踏み入れた。


 マンションを購入する際に「子ども部屋」と案内された五畳の部屋を、夫婦のクローゼットとして使っていた。しかし、いつの間にか航太郎の私物であふれかえっている。

 おかげで少しくらい物を動かしても気づかれる心配はない。今の紗英には都合がよかった。


 紗英はざっと部屋を見渡した。

 奥の壁側にはポールが上下に二本通っていて、上はジャケットとウインドブレーカーが、下にはワイシャツがかけられている。

 手前側には三段のスチールラックが置いてあり、アニメのDVDセットが隙間なく並べられていた。


「また、増えてる……」


 見覚えのないフィギュアにあきれ返る。

 パソコンとヘッドセットの置かれたテーブルの下は、工具箱がきれいに収まっている。部屋のすみには釣り竿とゴルフクラブが立ててあるが、うっすらとほこりをかぶっていた。


「まったく男っていうのは」


 大事なモノなら自分で掃除して欲しい。

 知らぬに増えていくお宝も、すべて紗英が綺麗にして当たり前だと思っている。


 紗英はスチールラックのポールに引っ掛けてある、航太郎のリュックサックに近づいた。

 外側についているポケットのファスナーを引くと、ジジジと音が部屋に響いた。


 いや、実際には紗英にしか聞こえない小さな音だ。しかし、今の紗英には工事現場の騒音にように聞こえる。


 いちど手を止めて耳をすました。廊下の向こうからは規則正しいいびきがつづいている。紗英はごくりとつばを飲み込んでから作業を再開した。


 ファスナーが半分を超えるころ、息苦しさを感じた。いつの間にか息を止めていたらしい。ふうっと息を吐きだすと、もういちど大きく息を吸い最後までファスナーを引いた。


 中から鍵をゆっくりと取り出した。紗英のこぶしはあろうかという鍵束は、ひとつのリングに家も車も会社も関係なくつながっている。


 航太郎いわく「バラバラにすると忘れる」らしいが、不用心すぎやしないか。だからこうして紗英に都合よく使われる。


「ご愁傷様しゅうしょうさま


 黒いTシャツとスキニーパンツに身をつつみ、鍵束を握りしめて玄関から外に出た。

 冷たい風が肌をなで、紗英は顔をしかめた。


それでも、上着うわぎを取ってくる気にはなれなかった。とにかく今は時間がしい。


 エレベーターを待つあいだも寝室が気になって仕方がない。物音では決して目覚めない航太郎もトイレには起きる。それが今でないことを祈った。


 やっぱり今夜は止めようか。

 そんな気になりかけたとき、ピンと音がしてエレベーターが着いた。中には防犯カメラがある。何くわぬ顔をよそおい、壁の汚れをひたすら見つめながら一階まで降りた。


 扉が開く寸前にもういちど願掛がんかけする。


「どうか誰にも会いませんように」


 紗英たちの住むマンションは大通りに面していて、夜中でも車の往来が途切とぎれることはない。

 しかし駐車場はマンションの裏手にあって、驚くほど静かだ。


 駐車場の操作盤に鍵をさして番号を入力する。ボタンひとつで車を出庫してくれるのはありがたいが、地上の音は想像以上に上へ上へと響く。

 いつもは航太郎の帰宅を知らせる機械音が、今ばかりはうらめしい。


 紗英は四角い空を見上げた。

 どの建物からもいくつか明かりが漏れている。今の時代、この時間に起きていることも、外に出ることも、たいして珍しいことではないのかもしれない。

 響き渡るこの機械音も、マンションの住人にとってはもはや生活の一部なのかもしれない。


 後ろめたいことをしている自覚があるからいちいち気になるのだ、と自分に言い聞かせた。


 ガコッという音とともに機械が止まって扉が開いた。ようやく安心したところで、近くに人の声がした。紗英はびくりと反応し振り返った。


 いい訳は考えてある。「車に忘れ物をして」と頭の中で反芻はんすうする。

 紗英の不安をよそに、声は一瞬にして遠ざかっていった。どうやら自転車が通り過ぎただけのようだ。


 それでも、たっぷり十秒は固まったまま辺りを警戒したあと、紗英はようやく車に近づいた。


 車の助手席側に回り込むと座席の下を覗き込んだ。偽装用のリップクリームが転がっている。それを無視して座席の裏に手を伸ばす。

 探り当てたブツを回収してズボンのポケットに入れ、反対側のポケットから別の物を取り出して、ふたたび座席の裏へ押し込んだ。


 しかし、あれこれ思案してから、今仕掛けた物を運転席の座席の裏へ移動させる。こちらのほうが見つかりにくいのではないか、という気がしたのだ。


 そのまま運転席に座った紗英は、コンソールボックスのふたを開けて中身をひとつずつ確認していく。


「メガネ、黒の油性ペン、ガソリン代のレシート、充電器に、充電器に、充電器……いくつ車に積んでるんだッ」


 思わず声が出た。

 声を出したことで緊張がほどよく溶けたのか、車内を冷静にながめられた。


 助手席の位置は変わっていない。ゴミ箱なし。ペットボトルなし。忘れ物もなし。さすがにトランクは車を駐車場から出さないと開けられないのであきらめる。

 最後に総走行距離をスマホのカメラに収めて、紗英は車を降りた。


 操作盤から鍵束を抜き取り、足早にマンションへ入る。防犯カメラも気にならない。紗英はひとり悦に入る。

 気がゆるんだままエレベーターを降りると、隣の家の玄関がガチャリと開いた。

 若者と目が合った。


「こんばんは」


 ぺこりと頭を下げ、小さく声をかけた。

 動揺を隠してゆっくりと歩く。

 息子さんなら、航太郎と顔を合わせても「お宅の奥さんが」などと告げ口はしないだろう。


 静かにドアを開け家の中に滑り込めば、任務はほぼ完了だ。

 音を立てないようにゆっくりと鍵をかけ、スリッパへ履きかえてふたたび寝室の前に立つ。中からは相変わらず航太郎のいびきが聞こえている。


 鍵束をリュックサックに戻して部屋の明かりを消すと、ようやく肩の力が抜けた。


「はあ……疲れた」


 たった十五分ほどの外出。着ていたTシャツは、わきの辺りがじんわり湿っていた。

 寝間着ねまきに着替えてリビングのソファに腰を下ろすと、テーブルに置かれた黒い小型機器が目に入った。


 先ほど回収してきたブツ――ボイスレコーダーだ。


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