ドーベルマン
ドーベルマンが被る目出し帽を勢いよく引き抜くと、林田は目を丸くした。それもそのはずだ。想定していた顔とは似ても似つかない、中年男がそこにいたのだから。
「人違いだ馬鹿野郎」
悪態をつくのに精一杯なドーベルマンは、虚な眼差しで林田の足元を見つめ、浅くなっていく息の行く末を独り悟った。
「これはびっくりだ。僕の勘もあてにならないな」
呆れ顔で首を傾げた林田に人を死に追いやった事への後悔や罪悪感は感じられない。ごくごく当たり前であるかのように、或いは他人の存在価値を低く見積もっているからこそ、動転もしない。
「まぁ、いいや。さようなら、誰か知らない人」
目出し帽を公園の茂みに投げ捨てて、鳥跡を濁さず去っていった。翌朝、愛玩動物の散歩に出た近隣住民の目に止まり、ドーベルマンは死体として発見された。閑静な住宅街での銃撃は、ヤクザの抗争だと世間では片付けられ、蝋燭の火にも勝る速さで風化した。ただ、町の市民は疑問を抱く。このような物騒な事件にどうしてドーベルマンは現れなかったのか。日を跨ぐたびに、市民は徐々に理解していった。風が吹くままに颯爽と現れて、町の風紀に大きく影響を及ぼしたドーベルマンは、心に魔が差した者達への警鐘を鳴らす特筆すべき存在であった事を、犯罪率の上昇から口に出さずとも察した。
「火、頼むぞ」
溢れる笑みが物語る嗜虐心は、夜の帳の加護を求めて、夜更け過ぎの河川敷で百円ライターの火を着ける奇矯な行いと結び付いた。紙切れに火を移し、ビニールシートのテントを睨んだ。三人の若者に「悪事」という言葉は介在せず、ネズミの尻尾を導火線と思うような極めて短絡的で、後先の事など些かも考えていない。彼らにとってみれば、命の価値は等しくなく、目の前にあるのは虫ケラほどの掃いて捨てるべきものであり、火炙りにかけたところで何ら問題はないと首を縦に振ったのだ。
「いくぜー」
軽薄な合図を元に、火の着いた紙切れを投げようと振りかぶる。が、手首を掴まれ止められた。叱責を含む握力の強さから、情けない声を出して身体を縮ませていく。
「誰だよ! おま、え……」
残った二人が威勢よく振り返り啖呵を切ろうとしたのも束の間、言葉を窮して唖然とした。
「な、なんで、ドーベルマンが」
ドーベルマンの代名詞となった目出し帽は彼らの腰を引かせた。
「何で? 分かるだろう。お前らがいるからおれがいる」
ドーベルマンは地面に落ちた紙切れの火を靴底で踏み擦る。
「逃げるぞ!」
三人の間に深い友情はなかった。とりとめもない楽しい雰囲気を共有するだけの関係に窮地に際した身の振り方など、たかが知れていた。ドーベルマンに手首を掴まれた一人を残して二人は我先にと逃げ出した。
「すみません、すみません」
必死に頭を垂れながら、解放を懇願する姿にドーベルマンは嘆息する。
「駄目だね、全くもって駄目だ」
ドーベルマンはそう言うと、若者の顎を爪先で蹴り上げた。海老反りになる身体を想定し、すかさず頭の毛を掴んで制御する。そして、鈍器のように硬めた右拳を真っ向から鼻頭へ打ち込んだ。くしゃりと画用紙のように鼻が潰れ、蛇口を捻った鼻の穴から夥しい量の血を流れる。
「悪い事をすれば報いがある。世の中そうでなきゃ駄目だ。おれはそれを教わったんだ。この目出し帽から」
ドーベルマン 駄犬 @karuki
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