第二十二話

 そして、冬休みが終わる。あかりとの旅行、ラウとの決着、彼の組織の解体。刹那にとって、小さくない意味を持った二週間だった。


 登校初日の朝、彼女は久しぶりの学生服に見を包み、鞄の中に筆記用具と配布物を持ち替えるためのファイルだけを持って家を出た。左右でレバーの色が違うSR400へ乗り込み、ヘルメットを着けてキックスターターで始動。


 学校へ向かう道のりへバイクを乗り出す。いつも通りの景色、だと思っていたが、所々が変化している。畑が土だけになっていたり、通り道の建物で工事が行われていたりだ。


 十分程度で学校までたどり着き、駐輪場にバイクを停めた。町の景色とは違い、ここは何も変わっていない。校舎壁面に付いた、謎の茶色い染みすらそのままだった。


 バイクを降りて、下駄箱の方へ向かう。靴を履き替えて階段を上がり、教室に入った。


 冬休みに入る前、一瞬感じた違和感が、再び彼女を襲った。数人の生徒の視線が彼女に集まり、短く嘲笑を浮かべ、視線を外す。二週間前との若干の差異は、人数が少し多くなっている事と、もっとあからさまになっている事だ。


 何かされたな、と刹那は胸の中で独り言ちた。重苦しい空気を押しのけながら、彼女は教室の中を進む。


 あぁ、なるほど。


 自分の席の前で、彼女は足を止めた。机の上に、何処かから拾って来たのか、汚い牛乳瓶が置かれている。その中に水が張られ、一凛の花が差されていた。


 分かりやすい嫌がらせだ。


 誰にも聞こえない様な声量で、刹那は溜息をついた。ゆっくりと教室を振り返り、前列の席でたむろしている連中の方に目をやる。主犯格であろう誠也が、いやらしく笑いながらこちらを眺めているのが見えた。


 彼を中心にして、品の無い笑い声を上げている連中は四人。この嫌がらせに乗り気だったのは彼自身と、その隣にいる獅童だけのようだ。


 刹那が視線を投げた時、残りの二人は逃げる様に彼女から視線を外した。顔には笑顔を張り付け、強がっているように見せていたが、実際の所、虚勢を張っているだけだという事が彼女にはすぐわかった。


 誠也か、気の荒い獅童に怯えて従っているだけに過ぎない。この二人は邪魔にはならないだろう。


 誠也に軽蔑の視線を向けながら、目だけを回して教室全体を確認する。よく観察してみると、この直接的な嫌がらせに乗り気なのは、どうやら例の連中だけのようだった。


 教室にいる他の生徒は刹那や誠也の方にチラチラと目を向けて来るが、誠也に向いた幾人かの視線の中に、忌避の感情が見え隠れしている。


 遣り様は幾らでもある。状況を上手く手玉に取る事が出来れば、彼ら彼女らを味方につける事も出来そうだ。


 刹那は自分の置かれた状況を、そう冷静に分析した。誠也の方に向けた視線に、わざとらしく軽蔑の感情を乗せ、彼の癪に障る様に視線を外す。


 顔を背け、彼の姿が視界から消える寸前、一瞬驚いた表情を見せた誠也が、隣の獅童に何か顎で指示を出すのが見えた。視線を机の上の花に落とし、近づいて来る足音に意識を集中する。


 肩を大仰に揺らし、周りを威圧するように大股で近づいて来る。自分の強さを誇示するような態度。それが虚勢に過ぎない事は、刹那でなくても分かっただろう。恐らく、教室にいる生徒のほとんどが気づいている。


 気づいていないのは、彼自身だけ。刹那は吹き出しそうになるのを必死で堪え、獅童が仕掛けて来るのを、彼に背中を向けて待った。


「なぁ、何今の?」


 刹那のすぐ後ろ。ほぼ背後と言ってもいい距離から、獅童の声が掛かる。彼が吐きかけた息で。耳元の髪が小さく揺れた。


 あまり聞いていて心地の良い声では無い。また一段、彼女の中で苛立ちが積もる。


 刹那はチラリと窓の外に目をやる。最終確認。あかりの姿は見えない。


 オーケー、異常なし。攻撃開始。


「あのさぁ、俺の話、聞いて――」


 苛立ちを隠そうともせず、獅童が口を開く。刹那は机の上の牛乳瓶を手に取り、背後を振り返りながら、彼に向って瓶の中の水をぶちまけた。差されていた黄色い小さな花がびしょ濡れになった彼の顔にぶつかり、はらりと床に落ちた。


 状況が理解できず、獅童は目を見開き、脳がフリーズした様なマヌケな表情を浮かべる。


 刹那はニヤリと笑い、言った。


「可愛いお花が台無し」


 明確な悪意を受け取った獅童の顔が、みるみるうちに憤怒に染まる。


 そうだ、それでいい、と刹那は胸の中で言った。所詮、自分を大きく見せるしか能の無い下劣な人種。彼らの様な連中が、その下らないプライドを傷つけられた時、どのように対処するのか。


 火を見るより明らかね。


 獅童の肩が動き、握り締めた右の拳が振り上げられ、大きく腕を後方に引く。素人丸出しの、大振りの右パンチ。


 であれば、彼が攻撃に移る前に、顎下へ素早く二発叩き込み、彼を一瞬にしてのすことが出来る。それほど、隙だらけの攻撃だった。何なら、彼の拳をスウェ―やダッキングで躱した後でも、好きに料理してやれるだろう。


 だが、はそうしなかった。殆ど止まって見える彼の攻撃を、ダメージを最小限に受け流す動きで受け、あたかも殴り倒されたかのように地面に倒れ伏した。


 獅童は興奮冷めやらぬ様子で、肩で息をしながら「どうだ、見たか」とでも言いたげな表情で刹那を見下ろした。


 馬鹿な男だ。刹那は笑みを堪えながら、殴られた頬に手を当て、乱れたスカートの裾を抑えながら、脚を自身の方へ引き寄せる。


 か弱い女子生徒が、屈強な男子生徒に殴りつけられたかの様に。


 教室中の空気が、ガラリと変わるのを肌で感じた。獅童の誇らしげな表情が、段々と何かに怯えるように歪んでいく。教室を見回し、非難の視線が自分に向けられている事を理解し、刹那を見下ろすその目に後悔の念が宿った。


 残念、気づくのが遅かったわね。


 目に涙を浮かべながら、刹那は怯えるような目つきで獅童を睨みあげた。無論、演技だ。事実、彼女自身上手く決まったと考えていた。


 学校と言う組織では、いや、むしろこの国自体にと言った方がいいだろう。男性は強者であり、女性は弱者と言うような、何時の時代に誰が決めたか分からないような先入観が未だに蔓延っている。


 日常生活を送る上で、煩わしい事この上ない程くだらない価値観だったが、物は使いようだ。こういう場面では、そういう物が大いに役に立つ。


 運動部に所属している男子生徒が、すこし背は高いが、大人しい雰囲気の女子生徒を殴った。仕掛けたのは女子生徒かもしれないが、大衆や当事者以外その他大勢の記憶に鮮明に残るのは、過激な描写の方だ。


 それに組み合わさるこの国の先入観。自動的に、獅童は悪者、刹那は被害者、の構図が彼等の中で出来上がる。


 次に起こる事は、後の祭りだ。


「ちょっと、今の最低!」


 教室の中、端の席に座っていた女子生徒が非難の声を上げる。それに同調するかのように、クラス中の生徒が獅童に対し、責め立てるような視線を向けた。


 数人の女子生徒が刹那を取り囲み、彼女を優しく抱き起す。


 刹那は目元を手の甲で拭いながら、女子生徒の一人が広げた胸の中によろよろと倒れ込む。それを見た別の女子生徒が、獅童に対し軽蔑の視線を向ける。


 一瞬にして、彼の周りには敵しか居なくなった。獅童は頼みの綱である誠也の方に泣き出しそうな目を向けるが、誠也と取り巻き二人は気まずそうに視線を外すだけだった。


 それも、刹那の予測に入っていた。所詮、彼等の間にはその程度のつながりしか無いのだ。


 「お、俺、先生呼んでくる!」


 クラスのあまり目立たないタイプの男子生徒が、一目散に教室を飛び出していく。「おい! やめろよ!」と獅童が震える声で叫んだが、そのあまりにも弱弱しい声にカースト上位の威厳などさらさらなく、その言葉に飛び出して言った彼を制止する力などあるはずも無かった。


 女子生徒の腕に抱かれながら、刹那は目元を覆った両手の指の隙間から獅童の方を覗き見る。


 怯えた小鹿の様にクラス中を見渡し、情けなく自分の味方を探す彼の姿を見て、刹那は憐みすら覚えた。


 でも、容赦はしないから。


 顔を青くした担任が教室に駆け込んで来た。刹那を中心とした女子生徒の集団と、彼女たちに睨まれる獅童の姿を見て、担任の目が見開かれる。


 直後、獅童の名を呼ぶ怒号が教室全体を揺らした。思わず刹那も肩をビクリと揺らす。


 全く、朝からうるさい男だ。 


 担任は既に、獅童が悪者だと決めて掛かっているようだった。単純な男だ、と刹那は思う。もっとよく状況を観察し、周りの者に何があったのか、詳しく話を聞いてから判断を付けた方がいいですよ、と心の中で彼に告げる。


 だが、単純で結構だ。その方が事が楽に進む。


 叱責に罵倒を交え、担任は「教育指導」という免罪符を盾に獅童を怒鳴り散らす。だが、中年オヤジが立場の弱い青年に当たり散らしているようにしか見えず、刹那は思わず笑いだしそうになるのを堪えた。


 そう取られてしまう程、まるで中身の無い説教だった。性善説や、錆び付いた昭和の価値観を引っ張り出して来たかのような主義主張。


 あるのは威勢だけで、デカいのは態度だけ。コイツも獅童と何ら変わらない。


 額に皺を寄せる担任に腕を引かれ、獅童は教室を連れ出された。そのまま職員室へ連行されて行く。


 彼の姿が見えなくなると、刹那は唐突に顔を上げ、涙を拭った。どうせウソ泣きで流した涙だ。止めるのだって容易い。振り返った窓ガラスにうっすら移った自分の頬に、小さな痣が出来ているのが見えた。

 

 いつもの事だ。クロウとの訓練なら、もっと派手な痣が付く。


「ごめんね、ありがと」

 

 さっきまで泣いていたはずの彼女が、一瞬の内に落ち着き、そう言ったのを見て、女子生徒たちは困惑した様子を見せた。そんな彼女たちを余所に、刹那は自分の席に座り、学生鞄の中から携帯を出して、メッセージアプリを確認する。


 女子生徒たちは顔を見合わせ、それぞれの席へ戻って行く。教室中が騒然となり、同情や畏怖と言った、様々な感情が籠った目線が刹那の方に向けられるが、彼女はそれらにことごとく無視を決め込んだ。


 彼女にとって、気がかりなことはただ一つだった。あかりがまだ学校に来ていない。


 何かメッセージがあるかと思い、アプリを開いてみると、「今日は休みます」と、彼女から一言だけ、届いていた。


 今日の内で、一番大きな溜息を付く。退屈な一日になりそうだ。





 


 


 


 







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