第二十一話
「もしもし? 刹那?」
電話口からあかりの声が響く。話しやすいように出来るだけ明るく振舞ってくれているが、少し声が震えていた。
「そう、私」
「もう夜だよ? どうしたの? こんな時間に?」
「うん、この前の旅行の事なんだけどね」
会話が一瞬止まる。あかりも何といえばいいのか、分からないようだった。
「本当に、ごめんなさい」
意を決し、決めていた一言を言った。彼女に何を言われても受け入れるつもりだった。
例えそれが、絶縁の申し出であったとしても。
息を止め、心臓の脈拍が大きくなる。あかりが次の一言を発すまでの少しの間が、まるで何時間にも感じられた。
「ううん、いいよ」
「……ホント?」
「ホント。でも、もうしないで」
あかりが真剣な様子で言う。
当然だ、と刹那は思った。もう二度と、彼女を巻き込むわけにはいかない。今回は運が良かっただけ。次は、本当に彼女の身を危険に晒すことになるかも知れないのだ。
見知らぬ土地に放り出され、見ず知らずの人間と行動を共にさせられ、挙句何の説明も無い。その実、実は自身の命の危機が迫っているが、それすら知らされない。
思えば、彼女に何と不誠実な真似をしたものか。
本来なら電話にすら出たくないはずだ。しかし、彼女は電話に出て、刹那の釈明に耳を貸してくれている。
「えぇ、もうやらない」
「絶対?」
「うん、絶対」
そう、絶対だ。あの時、ホテルの部屋を出る時、刹那は彼女に掛けた言葉を思い出す。
大丈夫、あかりの事は、私が守るから。
そう言ったのだ。ならば、その約束は絶対に果たさなければならない。そう胸に誓い、刹那は電話口に向かって言う。
「また、いつか一緒に旅行しようね」
「うん。楽しみにしてる」
あかりがいつもと同じ明るい声で言う。微かに含まれていた震えも、刹那を咎めるための真剣さも、そこにはもう無かった。
いつもの声、いつものあかりだ。
「何時にしようか?」
「え!? ちょっと、もう決めるの?」
「春休みは何時でも空いてるから、日程は後で決めるとして、何処に行きたい」
「刹那! 気が早すぎるって!」
あかりが笑いながら言う。刹那もつられて笑い、電話を挟んで二人の笑い声が重なった。
「それじゃあ、お休み」
「うん、お休み。旅行、絶対行こうね」
「うん。実は、候補地幾らかあるの」
「ホント? 教えてよ」
「内緒。その時のお楽しみ」
「何それ、ズルい」
刹那が口を尖らせながら言うと、あかりの笑い声が電話口から響いた。
「楽しみにしてて。じゃ」
「うん」
その言葉を最後に、電話は切れた。刹那はほっと息を付き、携帯をそっとベッドの枕元に置く。それから服を脱いでバスルームに向かい、お湯を張っておいた湯船に身体を沈めた。
身体を温めてから上がり、鏡の前に座った所で、気付かぬうちに自分が鼻歌を口ずさんでいた事に気づく。鏡の中の自分と目が合い、刹那はそんな自分にクスッと笑った。
頭と体を洗い、バスルームから上がる。身体を拭いてタンクトップと短パンを身に着け、ドライヤーで頭を乾かす。使い終わったタオルと風呂に入る前に着ていた服を洗濯機の中へ放り込み、寝室へ向かった。
体が冷める前に、彼女はベッドへ潜り込む。心配事が無くなり、今日はぐっすり眠れそうだった。
それから五日後、クロウが街に戻って来た。刹那は彼のガレージへ向かい、自身のバイクを返してもらった。
「うん?」
クラッチレバーに目をやった彼女が口を開いた。元々銀色だったクラッチレバーが赤い物に変わっている。根元部分にリンク機構が追加されていて、上側に折れるような仕組みになっていた。
「これ何?」
クロウの方を向きながら刹那が言うと、クロウは鼻を鳴らし、言った。
「元のレバーはこけた時に折れたみたいでな。新しい物に交換しておいた」
「でも、色が違う」
「社外品の物に交換したからな、これで折れることは無い」
「またこかすって言いたいの?」
「念のためだ」
「……馬鹿にして」
少し顔を背けながら、刹那は少し不機嫌に言う。クロウはその仕草を見て少し驚いた表情を向けた。
「何?」
「いや、随分と感情を表に出すようになったと思ってな」
「そう?」
刹那は首を傾げる。
「あぁ、前とは大違いだ」
「何か、ごめんなさい」
「どうして?」
「え?」
「感情が豊かなのは別に悪い事じゃない。どうして謝る?」
刹那は口を開きかけたが、いう事が見つからず、すぐに閉じた。
「……なんでだろう」
クロウは怪訝な様子で彼女の方を見ていたが、やがて視線を外し、マークXの後部座席からリュックサックを取り出してガレージの地面を下げた。玄関の鍵を開け、家の中に入る。
「何かいるか? コーヒーでも?」
「うーん、貰って行こうかな」
「そうか」
そう短く返したクロウの後に続き、刹那は玄関をくぐる。テーブルの前の椅子に座って待っていると、クロウが両手にマグカップを持ってキッチンから姿を現した。
左手のカップを刹那の前に置き、正面の椅子に座る。右手に持ったもう一つのコーヒーを一口飲み、思い出したように言った。
「ミルクは?」
「要らない」
「そうか」
二人は向かい合った状態で、無言のままコーヒーを飲んだ。
そういえば、今まで二人でコーヒーを飲んだ事なんて無かった気がする。クロウの方に目が向いたとき、ふと刹那は思った。
「向こうで何やってたの?」
「うん?」
「福岡。船を待ってたにしては、随分と長い気がして」
「あぁ」
クロウはコーヒーを一口飲み、言った。
「情報収集だ。例の妹の仇のな」
「そう」
「お前の方は?」
「え?」
「金田あかり、だったか?」
刹那がクロウの方に視線を向ける。まさか聞いて来るとは思っていなかった。
「随分とドタバタしたみたいだが」
「うん。置いてけぼりにしちゃった。でも、昨日仲直りできた」
「そうか、それはよかった」
クロウはそう言って、コーヒーを飲み切り、椅子から立ちあがる。革張りのソファーに置いておいたリュックサックから茶封筒を取り出して、刹那の前に置いた。
「こんな話をした後に出すべきものじゃないが」
「これって……」
「仕事、だ。例の仇の」
「もう見つかったのね」
「あぁ」
クロウは短く言い、彼女の正面に座り直す。
「だが、どうする?」
彼の問いに、刹那は怪訝そうな顔を向ける。
「何が?」
「お前が嫌なら、今日はやめてもいいんだぞ」
クロウがらしくも無いセリフを言った。刹那はそんな彼を鼻で笑い、茶封筒の破いて中の資料を引き出す。
「言ったでしょ? 私がやるって」
「そうだな」
資料に目を落としながら、彼女は言う。
「約束、破る訳にはいかないから」
夜だ。時刻は十一時四十分を少し過ぎた深夜。
寝室のクローゼットを開き、刹那は制服を身に着けた。腰にホルスターを引っ掛け、ベッドの下を引き出してUSPをそこに収める。同じ場所からショットガンを取り出して、銃身下部のチューブ型弾倉にショットシェルを四発滑り込ませた。
銃床の無いM870だ。世界中で使われているショットガンで、彼女の持つ短銃身のモデルは弾が良く散らばる。そのため射程距離は短くなるが、その分動く目標には当てやすい。
フォアエンドを前後に動かし、弾倉に込めたシェルを一発薬室へ装填する。弾倉にもう一発を込め直し、安全装置を掛けてガンバッグにそれを収めた。
バッグを肩に掛けて立ち上がり、ヴァイパーは家を出る。駐車場の真ん中に停まっているマークXの助手席に乗り込み、言った。
「準備できた」
「そうか」
クロウはいい、クラッチを踏んでエンジンを掛ける。ギアを操作するときに翻った革のミリタリージャケットの裾から、VZ61の銃身が覗く。
「シートベルトを」
彼は言い、ヴァイパーがそれに従ってシートベルトを留めた。クロウがサイドブレーキを下ろし、車を発進させる。
バッグを肩から降ろし、膝の上に銃を乗せた。バッグのファスナーの開き、いつでも取り出せるような状態にしておく。
「奴は?」
「標的は車で移動中だそうだ。目的地は空港」
「空港? こんな時間に飛行機なんて飛ぶの?」
「奴は相当な金持ちで、プライぺートジェットを保有してる。何時だろうと関係ない」
「そう」
「ラウが死んで、連中は次のリーダーを決める必要がある。奴は海外の本拠地に戻るつもりだ。つまり、今日を逃すと次のチャンスはもう無い」
「そこは心配しないで」
そう言って、ヴァイパーは拳銃を引き抜き、遊底を引く。薬室を覗き込んで初弾を確認し、言った。
「依頼通りに仕留めて見せるから」
彼女が握るUSPに目を向け、クロウが言う。
「そっちを持って来たのか」
少し残念そうな声色だ。やはりポリマーフレームの銃は好みでは無いらしい。
「えぇ。でも、こっちは念のため」
拳銃をホルスターに戻し、バッグの中身を覗き込みながら言う。
「本命はこっち」
「十二番?」
「当たり」
「仕留める気満々だな」
「いつもの事よ」
クロウはマークXで高速道路に乗り入れ、アクセルを多めに踏んだ。
「少し飛ばすぞ」
彼が言い、車体がグッと加速する。ふとメーターに目をやると、針は百四十キロ付近を差している。深夜だからだろうか、幸いにして交通量はかなり少ない。前を行く車を右へ左へと避け、先を急ぐ。
ヴァイパーはグリップを握り、左右にロールする車体の中でバランスを取った。
エンジンがひっきりなしに唸っている。まるで獲物を追いかける豹のようだ。
十五分間、百キロ以上で巡行した後、クロウは突然マークXを減速させた。左車線に入り、前の車に向かってパッシングする。その直後、クロウの携帯が鳴った。肘掛け開き、彼は内容を確認する。
「敵は二台。標的は先頭車両だ」
クロウは呟くように言い、携帯を元の場所へ戻す。肘掛けを閉め、左手をシフトレーバーの上に置いた。前を走る車が左へ指示器を出し、高速道路の降り口へ向かっていく。
マークXを加速させ、前を行く黒いベンツとの距離を詰めた。ふと、ヴァイパーは降り口へと向かう車を横目で見る。見覚えのある車だった。白のスバルWRX。結社の社用車だ。
ヴァイパーはバッグの中に右手を入れ、ショットガンの安全装置を外す。
クロウはベンツとの距離を詰めたまま、暫く高速道路を流す。一言も会話は無いが、段々と空気が張り詰めてくるのを感じた。
左前に標識が見えてきた。降り口まで5キロと書いてある。
その時、彼が動いた。ギアを唐突に五速に下ろし、エンジンを唸らせながら彼が言う。
「やるぞ、準備を」
「出来てる」
「上出来だ」
クロウは小さく笑いながら言うと、ウィンカーを付けず右へ車線変更した。ヴァイパーは助手席の窓ガラスを下ろし、攻撃態勢を整える。
「まず後ろの奴だ」
「分かった」
ヴァイパーが返事を返した途端、マークXが急加速する。ヴァイパーはバッグからショットガンを引き抜き、開いた窓から銃身を突き出して黒いベンツの方へ向けた。敵が銃を認識する前に、運転席を十二番口径で吹き飛ばす。
ベンツの車内で、真紅の花火が上がるのがヴァイパーからでも確認できた。フォアエンドを前後させ、次弾を装填。狙いを左下に修正し、再度引き金を引く。
ベンツの左前輪がパンクし、ズタズタになったシャシからホイールが脱落する。火花を立てながら右へスピンするベンツの車体を、マークXは再度急加速して回避した。後方で、ベンツの亡骸が中央分離帯に頭から突き刺さり、宙を舞うのがルームミラーで確認する。
クロウはそのまま、前を走るトヨタのセンチュリーに接近する。右の後部座席から黒いジャケットを着た男が身を乗り出し、拳銃をこちらに向けて来る。
フォアエンドを操作し、素早く射撃。散弾が男の身体をハチの巣にし、死体が窓枠から崩れ落ちた。
やっと状況を理解したのか、センチュリーは加速し、マークXから距離を取ろうとする。
逃がすものか。
次弾を装填すると、ヴァイパーはシートベルを外し、百キロ近い速度で走るマークXの窓から身を乗り出した。風圧で吹き飛ばされそうになるのを堪え、ジョットガンの狙いをセンチュリーの左の後輪タイヤに合わせ、引き金を引く。
凄まじい破裂音と煙が上がり、吹き飛んだタイヤの破片が回転するホイールに巻き上げられ、道路中に飛び散った。
突如摩擦を失ったセンチュリーの車体が左へ流れ、コンクリートの柵に左側面を擦りつける。大幅に減速したセンチュリーにクロウのマークXが食らい付く。ヴァイパーは助手席に戻り、後部座席へショットガンの銃口を向けた。
前後運動と共に、照準を標的に合わせる。暗い夜だと言うのに、奴の恐怖に歪む顔が、はっきりと見えた。
貴方が殺した子も、そんな顔をしたんじゃない?
心の中で独り言ち、ヴァイパーは容赦なく引き金を引いた。
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