第十六話

「ヴァイパー、聞こえるか?」


 クロウの声。その名前。


「ヴァイパー? そこに居るのか?」


 刹那は受話器に当てていない方の耳を塞ぐ。が、右からクロウの声は容赦なく響いて来る。


「ヴァイパー、返事を」


 ヴァイパー、ヴァイパー、ヴァイパー。


「返事をしろ! ヴァイパー!」


 やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!


「ヴァイパー!」


 今、の名前を呼ぶな!


 刹那は受話器を持った右腕を振り上げた。叫び声を上げそうになるのを何とか堪え、肩で息をする。握り締めた受話器が軋み、震える右手をゆっくりと耳元に戻した。


「……はい」

「無事なのか? ヴァイパー」

「そうね」

「そうか、ひとまずよかった」


 なにがいいものか、と刹那は心の中で毒づく。おかげさまで気分は最悪だ。


「何の用?」

「端的に言う。緊急事態だ」


 クロウが言った言葉に、刹那は眉を顰めた。


「何があったの?」

「どういう訳か、お前のホテルがバレた」

「……嘘でしょ?」

「残念ながら事実だ。今すぐそこから動いた方がいい」


 刹那は額に手を当てて、天を仰いだ。


 どうして、今なのだ。


「……あかりはどうしたらいい?」

「一階にはもう結社の構成員が到着している。彼らに任せろ。俺もじきそっちに到着する」

「どう説明しろって言うの?」

「知らん。自分で考えろ」


 あまりに投げやりな答えに、腹立ちを抑えられない。


「そんな投げやりな……」

「もとはと言えばお前が撒いた種だ」


 正論だ。ここへは遊びに来たのではない。彼女は逃げてきたのだ。そんな危険な所に、大切な人を連れてくることがそもそもの間違いだ。


 分かっている。そんな事は分かっている。


 でも……。


 いや、と刹那は頭を振った。そうだ。これは自分で蒔いた種なのだ。生えて来た雑草は、自分で刈り取らねばならない。


「……分かった。どうすればいい?」

「銃を持ってすぐに部屋から出ろ。連中は何処から来るか分からん。エレベーターを使うつもりなら、十分に用心しろ」

「分かった。まずはあかりの安全を確保したいから、結社の人にエレベーター近くで待機するよう伝えて」

「了解だ」


 刹那は受話器を置き、すぐさまキャリーバックを開いた。服をすべて脱ぎ捨て、汗をタオルで拭きとり、新しい肌着を着て、念のために持って来ていたヴァイパーの制服を身につける。


 濃紺のシャツ、細身のパンツ、スーツベスト。そして、黒いトレンチコート。


 腰のベルトに、下駄箱に隠しておいたホルスターを吊り下げ、USPを引き抜いた。遊底を引き、初弾を薬室に送り込む。デコッカーで撃鉄をリリースし、ホルスターに戻す。


「ふぅ~。刹那、次いっていいよ~」


 湯けむりを躍らせながら、ご機嫌な様子であかりがバスルームから戻って来る。彼女とは対照的に、刹那は鬼気迫る様子で告げた。


「あかり、すぐに服を着て」

「え? 刹那?」

「説明してる暇は無いの。お願い」

「わ、分かったけど」


 あかりは刹那の顔に目を向け、それから彼女の服に視線を下ろし、言った。


「……危ない事、するの?」

「……うん」


 あかりは今、バスタオルを身体に巻いただけの状態だった。彼女の肩に両手をやり、刹那はあかりの目を見て言う。


「大丈夫。あかりの事は、私が守るから」

「刹那……?」

「ほら、急いで」


 あかりは小さく頷き、着替えを始める。一般人の彼女はどうしても動作が遅く、刹那にはそれがかなりもどかしかった。


 ようやくダッフルコートのボタンを留め終え、彼女はキャリーケースを手に取ろうとする。


「貴重品だけ持って、それは置いて行って」

「えっ? でも……」

「あかり! 意う事を聞いて!」


 思わず語気が強くなる。しまった、と思い刹那は口を押えるが、吐いた言葉は戻らない。


 あかりがビクリと怯え、息を呑むのが分かった。


「……ごめん」


 目を逸らし、刹那が言う。


「刹那……」

「行くよ。時間がない」


 あかりが何か言う前に、刹那は彼女の左手を引いて部屋を後にする。自分の身体を盾にし、右手をコートの中のUSPに手を乗せながら廊下を進む。


「刹那! ちょっとまって!」


 大股で歩く彼女の歩幅に、あかりが足をもつれさせた。何度か転びかける彼女を左手を引いて無理やり立たせ、エレベーターホールまで辿り着いた。


 周りに誰も居ないことを確認し、彼女は下へ向かうスイッチを押す。


「ねぇ、刹那ってば! 本当にどうしたの!?」

「言ったでしょ、説明してる暇無い」

「でも、おかしいよ! 何か変に焦ってるし!」

「いいから!」


 声を荒らげて、あかりを黙らせる。今は余裕が無い。


 少しして、上の階から下がって来たエレベーターに乗り込む。車椅子利用客の為に籠の中に設置された鏡に目が行った。刹那達の後ろから、夫婦であろう宿泊客がエレベーターに乗り込もうと、こちらに歩いて来るのが見えた。


 刹那は中に入るなり、一階へ向かうボタンと扉を閉めるボタンを素早く押した。夫婦客の夫の方が嫌な顔を向け、閉まる扉に向かって走って来る。


「あ、乗せてあげ……」

「ダメ」


 冷たく言い放ち、閉まるボタンを連打する。夫の眼前で扉が閉まり、エレベーターが下降した。


「刹那!」


 あかりが声を荒らげた。珍しく怒った声だ。


「今のすっごい感じ悪かった!」

「そうね」

「なんであんな意地悪するの!? 少し位待ってあげても――」

「あれが敵だったらどうするの!?」


 溜まりに溜まったものが爆発するような、そんな勢いで刹那は怒鳴り声を上げた。狭い籠の中で彼女の声が反響する。


「敵……? 刹那、本当に何言ってるの……?」


 刹那は一度大きく呼吸し、意を決して口を開く。


「私は――」


 その時、エレベーターが三階で止まり、銀色の扉が開いた。刹那はそちらに視線を移し、乗り込んで来た人物を確認する。


 スーツを着て、ネクタイを締めたビジネスマン風の男だった。刹那と一瞬目が合った男はくるりと体の向きを変え、右側のスイッチパネルの前へ移動する。指が上下に泳ぎ、それから五階のボタンを押した。


 刹那は目を見開いて、男の背中を凝視する。


 コイツは、敵だ。


 三階、五階は共に宿泊フロアだ。移動先として不自然すぎる。指を上下に泳がすあの動作は、突然の会敵に戸惑った男がごまかしの為に仕方なく行き先を選んだだけに過ぎない。


 決定的だったのは、男が振り返る時に翻ったジャケットの内側に見えた、黒い色の物体だった。普通の人間が見ればスマホケースや、財布にしか見えないそれ。


 あれは、拳銃の銃把だ。


「ねぇ刹那! 聞いてるの――」


 刹那はあかりを自分の背後に回す。四角い空間の中、男と対角線上にある左の角に下がり、庇う様にあかりの右前に立った。男はずっと前を向いているが、顔がほんの少しだけ左に傾いている。


 横目で刹那の動きを追っているのだろうか。それとも、耳をそばだてているのか。


 刹那は聞こえないように溜息を付き、肩を落とした。


 楽しい旅行だったのにな。


 エレベーターが下降を始める。先に選択されていた一階へ向かっていた。


「……刹那?」


 あかりが戸惑った様子で、小声で呟いた。刹那は彼女の方へ振り返り、腰を折って、唐突に唇を重ねる。


 あかりが息を呑むのがか分かった。咄嗟に掴んで来たトレンチコートの裾に、クシャリと皺が寄る。


 下降が止まり、目的の階に到着した事をブザーが告げる。


 唇を話し、刹那はあかりの肩を持って、開いたエレベーターの扉の外へ彼女を押し出した。目を見開いて後ろを振り返る彼女の背後から、スーツ姿の男女が二人歩いて来るのが見えた。


 結社のビルの中で見たことがある顔だった。二人に任せておけば、ひとまず彼女の身は安全だろう。


「ごめんね」


 エレベーターの扉が閉まる一瞬、刹那は無理くり笑みを浮かべながら言う。何か言いたげにあかりが口を開くが、それを聞くことなく扉が閉まった。


 籠が上昇を開始する。男が押した五階に向かっていた。


「ヴァイパーを探してるんでしょう?」


 エレベーターの地面に視線を落としながら、中に残った彼女は言った。男が反応し、顔が彼女の方へ向く。


 その目を見つめ返しながら、彼女は言った。


はここよ」


 一瞬の間の後、男が動いた。拳銃を引き抜き、ヴァイパーの方へ突き出す。だが、狭い空間だ。彼女はひらりと男の懐へ入り込み、胸元に拳をめり込ませた。


 反射的に引かれた引き金が、弾丸を撃発する。天井に穴が開き、蛍光灯が割れる。


 右手を引き戻し、銃を握った男の右手首を取った。左手でその肘を内側から取り、拳銃を握らせたまま、男の腹に銃口を突きつける。男の右手の上から銃把を握り、引き金を引いた。


 自身の銃で撃たれ、男の腹から鮮血が飛び散る。


 まだ息がある男を床に引き倒し、ブーツの靴底で男の顔面を踏み抜いた。鼻血を吹き出しながら、まだ起き上がろうとしたので、もう一度踏み抜く。歯が折れ、男の口から粘りのついた血液がだらりと垂れた。


 まだ生きている。彼女は靴底で男の顔面を踏み続けた。何度も。


 何度も。何度も。


 エレベーターが止まる。男も、もう動いてはいなかった。


 顔を上げ、鏡を見た。


 扉に血液が飛び散っているのが見えた。よかった、あかりには掛からなかったらしい。


 血に濡れているのは、ヴァイパーだけだった。


 背後で扉が開く。ゆっくりと振り返る。


 そこには、もう誰も居なかった。



 


 


 











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