第十五話

 二人は展望台から下り、ビッグスクーターに乗ってホテルへ戻った。寒い冬の季節に山道を走って来たのもあって、身体は凍える程冷たくなっていた。


「寒っ! お風呂入ろう!」


 部屋に入るなり、あかりがダッフルコートを皮張りのソファに脱ぎ捨てながら言う。刹那は慎重にトレンチコートを脱ぎ、拳銃の入ったホルスターを下駄箱に隠した。


 クロウは随分といい部屋を用意してくれたようで、ジャグジー付きのお風呂が部屋に備え付けられている。


「そうだね。あかり、先に入っちゃって」

「何言ってるの?」


 コートの下のセーターを脱ぎながら、あかりが言う。


「え?」

「一緒に入ろうよ」

「え、いや……」


 刹那が口籠っていると、あかりが突然刹那ののタートルネックを捲り上げた。


「ちょ! ちょっと!」

「同性でも身体は見せたくないと申すか、刹那さんよ」


 どこぞの悪代官の様な口ぶりで明かりが言う。口はいたずらな笑みに歪んでいて、刹那の拒否を受け入れるつもりは無さそうだ。


「ま、まって! 自分で脱ぐから!」

「ほほう、その言葉を待っていましたぞ」


 顎に手をやり、いやらしく眉を歪ませながら言った。誰の真似なのか知らないが、絶妙に似合っていない。その姿が可笑しくて、刹那は吹き出した。


「何笑ってんの!」

「いや、別に」


 深呼吸して息を整え、刹那はタートルネックを脱いだ。下に着けているのはタンクトップ一枚のみだ。彼女の筋肉質な腕と肩が露わになり、その上に刻まれた、で付いた傷が露わになる。


 あかりが口を押え、息を呑んだ。


「びっくりした?」


 刹那が言う。どういう顔をしていいか分からず、口に苦笑いを浮かべるので精一杯だった。


「……ちょっとだけ。すごく鍛えてるんだね」

「バイト……と言うか、副業がちょっとね」


 言葉をはぐらかして言う。あかりもそれ以上は突っ込んでこなかった。


「私、先入ってるね」

「うん」


 あかりは自身のキャリーケースからパジャマを取り出して、バスルームへ向かう。刹那も着替えを用意して、彼女の後を追った。


 バスルームはとても広かった。二人で入ったとしても、まだスペースを余すほどだ。壁の一部がガラス張りになっていて、そこから夜景を望む事も出来る。湯船自体も大きく、二人が足を伸ばして対面できる。


 ただし、ジャグジーの噴出口は一か所しかなく、そこは今、あかりが独占していた。


 「あぁ~」と気持ちよさそうに情けない声を上げる彼女の姿を見て、刹那は小さく笑った。


 一度シャワーを浴びてから、湯船に浸かる。夜風に冷えた体のまま、急に熱い湯に浸かったので、所々が刺すように痛んだ。暫くすると、身体が温まり、痛みも引いた。


 十分に身体が温まったと判断し、刹那は湯船から上がり、身体を洗うことにした。その間、あかりはずっとジャグジーを独占したままだった。譲ってほしかったが仕方が無い。身体を洗ってから代わってもらえばいいだろう。


 シャンプーで頭を洗い、ボディーソープを泡立てる。洗いやすい手と上半身に泡を滑らせ、その次に下半身を洗う。次に背中を洗おうと手を捻ったが、やはり背中全体に手は届かなかった。


 ふと、鏡に映る自分と目が合った。誰かと風呂に入ったのはいつぶりだろうか。いつもは洗い流した返り血や、自身が負ったケガからあふれた血液が流水に混じり、排水溝に流れていく水はいつも赤く染まっていた。


 足元の排水溝を見る。流れているのは透明な水だけだ。


「刹那さん、お背中流しましょうか?」


 その時、悪代官の声がした。無論、あかりの声真似だ。


「いいんですか?」


 刹那は少し挑発的に言ってみる。気分は悪代官を手玉に取るくノ一だ。


「えぇ、もう。私でよければ」

「じゃあ、お願いしようかしら」

「へへっ、じゃあ失礼しますよぉ~」


 あかりが湯船から上がり、跳ねる湯が音を立てた。あかりは自分のタオルを風呂に持ち込んでおり、そこにボディーソープを出して泡を立てる。刹那の背中に泡まみれのタオルを当て、擦る様に上下させた。


「なるほどなるほど、いいですわぞ」


 一定のリズムで動かしながら、あかりの手の間隔が段々と開いて行く。どうも、背後から刹那の胸を狙っているらしい。


「スケベ」


 すかさず彼女が言った。背後に座るあかりの身体がビクッと反応するのが分かった。


「ば、ばれましたなぁ~」


 あかりは悪代官の真似で乗り切ろうとする。刹那は声を出して笑い、後ろの明かりも笑った。


「背中、ありがと」


 刹那はそう言って、シャワーを手に取り、水を流して泡を落とした。それからあかりの方へ向き直り、言う。


「ほら、あかりの番」

「スケベ」


 あかりが口を尖らせ、言った。刹那への仕返しだろうか。

 

「余計な事言うと、もっとやらしい事するよ」


 刹那は両手の指をタコの足の様に動かしながら、彼女にすり足で迫る。あかりは慌てて後ろを向き、「どうぞ悪代官様!」と背中を見せた。


 ふっと息を付き、「まずは頭からね」と刹那が言う。シャンプーを適量手に取り、あかりの頭で泡立てた。シャワーを取って頭を洗い流し、次はボディーソープを手に出す。


 その時、ニュルリとノズルから出てきたボディーソープの液が、一瞬、細く飛び散った血液の様に見えた。息を詰まらせた刹那がもう一度よくそれを見てみると、何の事は無いただの液体石鹸でしかない。


 疲れてるのかな、私。声には出さないで独り言ちながら、彼女はボディーソープを両手に広げる。あかりの首、肩、腕に液を塗り広げ、背中に移ろうとした、その時だった。


 両手に付けた液の感触が、生々しく変わった。気色悪く粘り気をもち、塗り伸ばした液が赤く変色している。


 「ひッ!」と怯え声を漏らしながら、刹那はあかりの身体から離れる。「どうしたの?」と振り返ったあかりの額から、黒ずんだ血液がだらりと流れている。今まで塗り広げたボディーソープが、血へと姿を変え、彼女の身体を血みどろに汚していた。


 顎を震わせながら、刹那は自分の掌を見る。その手も、赤い血に汚れていた。


 叫び声を上げながら、刹那はその場に座り込んだ。すぐさまあかりが彼女の方へ駆け込んできて、目を覆った彼女の両手を取る。


「刹那!? 大丈夫!?」


 鬼気迫る彼女の声に、恐る恐る顔を上げると、そこには水に湿ったあかりの顔があった。腕や首の上の血液はボディーソープに戻っていて、凄惨な血痕などどこにも見当たらない。


 掌に目を落とすと、白い液体石鹸が伸びているだけだった。


 刹那は彼女の手を振り払って、両手の石鹸を水で洗い落とした。


「私、先に出るね」


 震える声でそれだけ言い、バスルームから出る。「刹那!」と彼女を呼ぶあかりに目も向けず、寝間着に着替えてベッドに入り、脚を丸め、自分の胸を抱いた。


 ブランケットを頭まで被り、震えながら眠りについた。




 あかりがベッドに潜り込んで来た感覚で刹那は目を覚ました。彼女が恋しくて起きたのでは無い。殺し屋として、戦士として身に付いた能力で起きたのだった。


 ただ、ベッドに入って来たのが仮に敵だったとして、彼女に対抗する気は起きなかった。自分の心が憔悴しているのが分かる。一度うっすらと開いた目を、刹那はゆっくりと閉じた。


 瞼が再び重くなって来る。ベッドに沈んでいくような感覚。自分の身が睡魔に飲まれて行くのが分かった。


 そんな彼女を掬い上げる様に、後頭部に暖かい腕が回される。細く、か弱い、そして綺麗な手だった。


 刹那のタコだらけの掌と違い、柔らかく、優しい手。人を殺すための手では無く、音色を奏でるための手。人を幸せにするための手だ。その手、その腕に抱かれ、刹那はあかりの胸元に抱き寄せられた。


「あかり……」

「いいよ。何も言わなくて」


 刹那の頭を撫でながら、あかりは声量を落として言う。


「やっぱり、変だよね……?」

「うん」

「私、おかしいのかも」

「そうかもね」


 優しく投げかけられる賛同の言葉に、刹那は自傷気味に笑った。


「刹那の身体、何処彼処も傷だらけだった」

「……そうだね」

「もしかして、何か危ないことしてるの?」


 刹那は抱き寄せられるがままにあかりの胸に顔を埋め、何も言わない。言う訳にはいかない。


「……やらされてるの?」


 違う。が、そうだと言えればどんなに気が楽だっただろうか。悲劇のヒロインぶって、彼女に思う存分甘えられれば、どんなに気持ちが満たされるのだろう。


 でも、それは出来ない。そこに嘘をついてしまったら、いよいよ彼女と共に過ごす資格すら失ってしまうような気がした。刹那は自分自身で、に入る事を望んだのだ。


 あの時、両親が殺されなければ。


 あの時、自分も一緒に殺されていれば。


 あの時、クロウの後ろに乗らなければ。


 こんな後悔の念は覚えずに済んだのだろう。だが、そうはならなかった。刹那の両親は殺され、彼女だけが生き残り、そして、クロウの後ろに乗ったのが、今の彼女だった。


 そして、クロウ。


 彼を、裏切る訳にはいかない。


「……今日は、寝よっか」


 あかりが頭の上で囁くように言った。刹那は胸の中で頷き、離れかけた彼女の両腕を掴む。


「……今日は、このままで」

「……うん」


 それが、眠りに落ちる前の最後の会話だった。その後、電気の消えた暗い部屋の中には、重ならない二人の呼吸音が静かに響いていただけだった。




 部屋のガラス窓を打つ雨音で刹那は目を覚ました。あかりは既に起きていて、革張りのソファに座ってテレビを眺めている。


「あ、刹那おはよ!」


 いつもと変わらぬ様子で、あかりが言った。


「うん。おはよ」


 彼女に合わせ、出来るだけ明るく返してみる。あかりは笑みを浮かべたままテレビに目線を戻したが、その明るさも、やはり空元気であるようだった。


 それが分かったのも、自身に殺し屋として備わった観察眼があったからだと思い至り、刹那は少し憂鬱な気分になる。追い打ちをかける様に外は生憎の雨だ。空を覆う厚い雲には、太陽が顔を出す隙間すら無い。


「今、台風が上を通ってるみたい。せっかくの旅行なのに残念」


 肩を落とし、息を付きながら明かりが言う。


「そうだね」


 そう、本当に残念だ。


 刹那はベッドから起き上がり、シャワーを浴びに行ってから、キャリーケースから新しい服を出して着替えた。赤いタートルネックセーターと水色のパンツ。色は変わったが、組み合わせとしては昨日とあまり変わらない。


「あかり」


 少し息苦しい空気を換えようと思い、刹那は玄関先に置いてあったホテルのパンフレットを手に取り、あかりの方へ掲げる。


「ここ、ホテルの中に映画館とかいろいろあるみたい」

「ホント!?」


 途端にあかりの目が輝いた。彼女は刹那の方に駆け寄り、パンフレットを受け取って食い入るように目を走らせる。


「おぉ~、テニスコートにプールに……コンサートホールまである!」

「ホントだ……って、今日オーケストラの一団が来て、何か弾いてくれるみたい」

「え!? やった! ラッキーだね私達!」


 あかりは無邪気に笑う顔を刹那の方へ向ける。その笑顔が、少し悲しげに見えたのは、刹那の思い過ごしだろうか。


「え~と、時間は……もうすぐじゃん!」

「ホントだ! 急がないと!」

「コンサートホールは五階で、ここは確か……」

「あかり! エレベーターの中で探そ! 早く部屋から出ないと!」


 刹那はそう言って、あかりの手を引きエレベーターホールへ走った。


 騒がしい朝。余計な事を考えずに済んだのは、刹那にとって幸運だった。




 オーケストラの演奏は午前中で終わった。音で揺れる空間も、響く空気も凄まじい迫力だった。


 いつか、あかりがあの中で演奏することになるのだろうか。刹那はそんなことを考える。


 その時、私は? 


 まだ、生きているのだろうか?


 ふと浮かんだ突然の自問自答。自分の命が、その疑問を一笑に付せない状況にある事を、突然自覚させられる。


 唐突に「死にたくない」という思いが心の中に広がった。周りの拍手に紛れながら、思わず口に出していた事に気が付き、刹那は慌てて口を覆う。


 あかりに聞かれなかっただろうか。ゆっくりと左を向くと、あかりはオーケストラに向けて、夢中で拍手を送っている所だった。


 胸を撫でおろす。オーケストラの一団が楽器を直し始め、観客がホール後方の出口から列を成して退場した。


 その列に紛れ込み、二人もホールを後にする。丁度いい時間だったので、ホテルの食堂に降りて昼食を取った。相変わらず台風は頭の上に居座り続けている様で、雨はまだ降っている。ただ、勢いは弱ってきているようだ。


「次、テニスしようよ!」


 食べ終えたあかりの提案に乗り、二人は屋内テニスコートへと移動した。刹那はボールが狙った所に飛ばず、あかりはそもそもサーブが打てずと言った有様だったが、何ゲームかこなす内にラリーが続くようになった。


 二時間程テニスを楽しみ、汗だくになったので、二人は部屋に戻ってシャワーを浴びる事にした。


「じゃ、私先に貰うね」

 

 あかりが言い、服を脱ぎながらバスルームへ向かう。短い距離とは言え、半裸の状態で部屋の中を闊歩する彼女を見て、バスルームまで待てばいいのに、と刹那は苦笑いを浮かべた。


 バスルームの扉が閉まる音が聞こえた。その時、ホテルの内線が鳴った。何の用だろうと、刹那は受話器を取って、耳に当てる。


「ヴァイパー、聞こえるか?」


 クロウの声が、電話口に響いた。


 






 

 

 


 


 

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