第十話

 目を覚ます。胸の前で少女が眠っている。刹那は学校に行く必要があったので、アスナから腕を外してベッドから起き出した。彼女はよく眠っていて、刹那が起きたのに気づく様子は無い。


 はだけたブランケットをアスナの肩へ掛けなおし、刹那はリビングルームへ向かう。


「おはよう」

「あぁ」


 先に起きていたクロウに言うと、無愛想な返事が返って来た。ソファーの上に置いてあった学生服に着替え、テーブルに用意されていた朝食を食べた。その間に、クロウが玄関を開き、家の前に停めたマークXの方へ向かう。


 刹那が食事を終え、椅子の背もたれに掛かっていたトレンチコートに腕を通してから家を出ると、クロウが何か妙な事をしているのが目に入った。


 マークXのグローブボックスからサバイバルナイフを取り出し、刃先を車体の上で躍らせている。


「何してるの?」


 刹那が言うと、クロウは切先を立て、塗装に付けた傷と車体の間の僅かな隙間にナイフをねじ込みながら言った。


「昨日は派手にやり過ぎた」


 そのままてこの原理を利かせる様に、ナイフをグイと上に捲り上げる。途端、マークXの白い塗装がベロリと剥がれ、白い膜の下から赤い鉄板が姿を現した。


「白は好みだったんだがな」


 剥がれた膜を引き破り、白い塗装に見せかけて車体全体を覆っていたフィルムをすべて剥がし落とす。ものの数秒で、白のマークXが赤いマークXへ姿を変えた。


「その車、元はそんな色だったんだ」

「あぁ、この色じゃ目立つから、後から白いフィルムを張り付けた。元の車体に張り付けてるだけだから、こういう時に剥がして、敵の目を欺くことも出来る。だが――」


 クロウは車体後部に回り、ライト類が欠け、所々に凹みを拵えたトランクを撫でながら言った。


「ここは部品を変える必要がある。暫くコイツは動かせそうにないな」


 小さく溜息をつき、落胆した様子を見せた彼に刹那は少し驚いた。彼がそういった感情を見せることなど、ほとんどなかったからだ。


「移動手段、どうするの?」

「あれがある」


 刹那が言うと、クロウはマークXの隣にあった、カバーを被ったバイクを指差して言う。車種は分からなかったが、黒いカバーと地面との隙間から、ブロックタイヤがが見えた。カバーの描くシルエットから、スクランブラータイプのバイクだろうと予想が付く。


「仕事には結社から借りた車を使う。もっとも、コイツには遠く及ばないが」


 マークXのトランクを優しく叩きながら、クロウは言った。


「しかし、今日はやけに早いな」


 刹那が起き出して来た時間の事だろう。いつもなら七時を回った辺りに起きるのだが、今は六時半を少し過ぎたくらいだ。


「バイク、取りに行こうと思って」

「あのSR? まだ乗ってたのか」

「そう。ガレージ、上に戻していい?」

「あぁ」


 そう短く返事をすると、彼はコントロールパネルを操作して、ガレージの床を上へ戻す。


 シャッターのすぐ隣にある小さな扉に手を掛けた時、刹那がふと口を開いた。


「彼女、母親がいるみたい」

「彼女……あぁ、あのアスナとかいう」

「そう。探してあげられる?」

「構わんが、どうして?」

「え?」


 刹那は思わずクロウの方へ顔を向ける。怪訝そうに見つめ返すクロウの視線と目があった。


「そんな事を言い出すとは思わなかった」

「そう?」

「いつもなら、ああいう子は結社の連中に任せっきりにしてたはずだ」

「そうだっけ?」


 クロウがマークXの方へ視線を戻す。何処かから取り出した工具箱を左手に持っていたので、さっそく修理を始めるつもりなのだろう。


「変わったな。お前」


 少し前、マイアにもそんなことを言われた気がする。


 ふと、頭の中に金田あかりの笑う顔が浮かんだ。


「そう、かもね」


 そう言って、彼女はクロウのガレージを後にする。




 コートの裾を冷たい風に揺らしながら、刹那は歩いて自分のアパートに戻った。自室の鍵を開けて中に入り、バイクのキーとヘルメット、学生鞄を持って家を出る。今日は午前中で学校が終わる。冬休み前の終業式だけだ。


 軽い鞄をバイクのバックシートに括り付け、コートのボタンを留め、ベルトを巻く。キーを回して電源を入れ、キック一発でエンジンを掛けた。


 ヘルメットを被り、バイクを出す。冷たい風が暴風となって、容赦なく身体を冷やした。


 途中、信号に引っかかりながら、何事も無く学校へ辿り着いた。バイクを駐輪場へ停め、学生鞄を持って下駄箱へ向かう。風で冷えた身体を、早く室内で温めたかったので、ヘルメットはハンドルに掛けておくだけにする。


 革靴を上履きに履き替え、ふとあかりの下駄箱に目をやった。赤い靴底の小さな上履きが、つま先を奥にして収まっている。彼女はまだ登校していないようだ。


 階段を上がり、教室の扉を開く。数人の視線が刹那の方に集まるが、彼女と見るや否や、それはすぐに四散した。


「……ん?」


 誰にも聞こえない位の声量で、刹那は喉を鳴らす。一度集まった数人の生徒たちの視線。そこに何か、妙な感情が見えたからだ。


 憐れむような、それでいて嘲笑するような、そんな感情。殺し屋の観察眼で見て初めて気付けるような些細な仕草だったが、目が少し泳いでいた生徒が数人いた。


 嫌な感じ、と刹那は思った。何か黒い物が渦巻いているような気がする。


 ふと、教室の前列の方に目を向ける。目が合う寸前に、逃げる様に躱された視線。


 あぁ、と合点が行った。貴方がやったのね。


 教室内、前から三列目の席を中心にして出来ている人だかり。その真ん中にいるのは、クラス委員長の誠也だ。彼は刹那が視線を向けるその寸前まで、彼女の方を見て薄ら笑いを浮かべていた。


 刹那から外した視線を近くの男子生徒に向け、馬鹿話をして笑っているように見せているが、その目がチラチラと刹那の方へ動くのを肌で感じた。「俺の誘いを断るとこうなるんだよ」と言わんばかりの視線だ。

 

 肩が動かない程度に溜息を付き、刹那は自分の席に着く。彼女の席は後ろから数えた方が早い。窓際なのもラッキーだった。連中の方に視線を向けなくて済む。


 外の景色を眺めていると、あかりが登校してくるのが見えた。背中にバイオリンケースを背負い、左手に持った通学鞄の上には黒いハーフヘルメットが乗っている。


 刹那がプレゼントした物だ。あれがあれば気兼ねなく二人乗りが出来る。バイクを持っていない彼女があれを持って来たという事は、今日の帰りは刹那の後ろに乗って帰るつもりなのだろう。


 刹那は小さく微笑む。早起きした甲斐があったという事だ。


 暫くすると、あかりが階段を上がり、教室の扉をくぐって来た。刹那を見つけるなり顔がぱっと明るくなる。


「ハイ、ホームルーム始めるぞ~」


 「おはよう」と言おうとした彼女を、音を立てて前の扉を引き開けながら入って来た担任教師の声が遮った。あかりは仕方なく刹那に手を振って挨拶代わりとし、刹那も手を振り返して応じる。


「おい、金田。遅刻ギリギリだ。もっと早く来い」


 ぶっきらぼうに言った担任の声に、刹那は少しイラっと来た。申し訳なさそうに頭を下げるあかりの姿が目の端に映る。

 

 思わず小さく舌打ちが出た。刹那は口を押え、立てた音をなかったことにする。幸い誰にも聞こえていなかったようだ。


 些細な連絡事項が二、三個伝えられ、廊下に並んでから体育館へ移動する。全校生徒が体育館に集められ、黒い制服が身動きもせずズラリと並んでいた。


 学校の式典と言うのは基本的に楽だと思っている。ステージの上にマイクの乗った木製の台が置かれていて、毒にも薬にもならないような教師陣の話を聞くだけだ。


 数人の生徒が式の最中で貧血を起こし、倒れた。何人かはその場で立ち上がり、何人かは保健室に運ばれて行った。その最中でも、前に立った校長は何事も無く話し続けていた。


 座らせるなり、話をさっさと切り上げるなり、何らかの対策を取るべきだと思うが、教師陣にそういう発想は無いようだった。呆れて小さく鼻を鳴らし、刹那は校長の話を右から左へ流す。


 一時間弱程、話を聞いて式は終わった。何度か前に立つ教師が入れ替わったが、どいつもこいつも同じような話しかしないのが少し可笑しかった。


 教室に戻り、ホームルームをして、解散。クラスの生徒が一斉に教室から出て行く。何せ、明日からは冬休み。はしゃぎたくもなる。


「刹那!」


 あかりの声だ。刹那は軽い鞄を肩に掛けた所だった。


「一緒に帰ろう!」

「うん。帰ろ」


 昨日見たドラマの話を聞きながら、二人は下駄箱に向かう。昨日はだったので、彼女が話している回はまだ見れていない。


「で、あそこでヒロインに告白するの! もうドッキドキ!」

「ちょっと、内容言わないでって」

「あ、ごめん」


 舌を出しながら謝るあかりの頬を緩く引っ張り、二人で笑う。革靴に履き替え、腕が届かないあかりの上履きを直してやって、二人は校舎から出た。


「じゃん!」


 あかりは突然言うと、持って来たヘルメットを刹那の方へ掲げる。胸を張って、何処か自慢げだ。


「ヘルメット、持ってきました」

「後ろに乗る気満々?」

「そう! 当たり!」


 生意気に言ったあかりが少し憎たらしく、刹那は揶揄からかう様に言う。


「ちょっと飛ばしてやろうかな」

「安全運転でお願いします」


 涙声が返って来る。その声が少し可愛くて、刹那は思わず笑みを漏らした。


「もう! 何笑ってんの!」


 顔を真っ赤にし、刹那の胸をポカポカと叩くあかりは既にヘルメットを被っていた。


 気が早い子。


 刹那はその頭に手を当て、撫でる様にグイグイと左右に揺らした。「うわ~!」とあかりが情けない声を上げる。


 彼女は気づいていないが、刹那はあかりを後ろに乗せる時、制限速度までしか速度を出していない。


 そして、今日もそこまでしか出さないつもりだ。




「お、クレープ屋さん発見」


 刹那の身体に腕を回し、リアシートに座っていたあかりが鼻を鳴らしながら言う。


「嘘、どこに――」


 クスクスと笑いながら、刹那が口を開いたとき、甘い匂いが彼女の鼻孔びこうをくすぐった。クレープ生地の焼ける匂い。あかりの鼻は刹那より利くらしい。


「この交差点を右折です」


 ビシッと指を伸ばしながら、あかりは匂いのする方へ指差す。


「せっかくだし、寄って帰る?」

「そのつもりであります」


 陽気に敬礼をする彼女の姿がサイドミラーに写った。口元を綻ばせ、刹那は右車線に移る。信号が青になり、あかりの指示通り交差点を右折した。


 少し走らせると、キッチンカーが路肩に停まっているのが見えた。甘い匂いに誘われたのか、元々人気店だったのか知らないが、結構な人数が歩道に並んでいる。ほとんどが学校帰りの女子生徒だった。知らない制服に混じって、刹那達と同じ制服を着ている生徒がちらほらと見える。


「混んでる」

「並ぶ価値ありと見た! 刹那、クレープ食べよ! 私の奢りでいいから!」

「悪いよ。自分の分は自分で出す」


 キッチンカーを通り過ぎ、その先に少し開けた場所が見つかったので、路肩に寄せてバイクを停める。違法駐車ではあるが、他者の交通の妨げにはなっていない位置だった。目くじらを立てる人はいないだろう。


 二人はヘルメットをバイクのハンドルに引っ掛け、クレープ屋の列に並んだ。


「何が人気っぽい?」


 あかりが背伸びをしながら言う。周りの女生徒の頭が邪魔で、彼女の目線からではクレープ屋のメニューが見えない。半面、男子生徒並みの身長を持つ刹那は頭一つ二つ分列から飛び出ている。メニューはバッチリ見えた。


「……分かんないや」


 が、彼女には何が人気なのかさっぱり分からなかった。似たような色合いのクレープばかりが売れているのが見えたが、よく観察すると、若干中身が違ったりする。女子生徒たちが好きなトッピングを追加しているだけなのだが、クレープを食べたことが無い刹那には何が人気なのかさっぱり分からなかった。


「ほほう、順番が来てからのお楽しみという訳ですか」

「そうだね」


 顎に手をやりながら、名探偵を気取った様に喋るあかりに短く返事をする。彼女と話しながら列に並んでいるうちに、二人の順番が来た。


 キッチンカーのすぐ隣に置かれていたメニュー表には、親切に一番人気のメニューがギザギザの吹き出しで強調されていた。あかりは迷わずそれを頼み、それからいろいろなトッピングを追加していく。


 刹那は色とりどりの文字で描かれるメニュー表に少し目が回り、白い文字で描かれていたクレープを注文した。目を丸くした店員の反応を見るに、あまり人気の無いメニューだったようだ。


 二人は代金を払って、クレープを受け取る。列から外れ、停めたバイクの方へ歩きながら、それぞれのクレープを頬張る。


「……お腹空いてたの?」


 あかりがイチゴやクリームの入ったクレープを食べながら、隣を歩く刹那に言う。


「いや、そういう訳じゃないけど……」


 刹那のクレープ生地には、ハムやトマトに、レタス、スライスされた玉ねぎが包まれている。あかりのそれとは違い、可愛げのない具材ばかりだ。そのクレープも四口ほどで食べ終え、包み紙を片手でクシャリと潰し、コートのポケットに入れた。


「あー! 後で写真撮ろうと思ってたのに!」

「え、ごめん」


 刹那が言うと、あかりが頬を膨らませて言う。


「いいです~全然大丈夫です~」

「全然思って無さそう」


 あかりはプイとそっぽを向く。その隙を突いて、刹那は彼女のクレープにかぶりついた。


「あっ! ちょっと刹那!」

「おいしい。次からこっちにしよう」


 あかりは空いている左手で刹那の身体をポカポカと叩きつける。困り顔で笑いながらそれをする彼女を見て、刹那も自然と口元が緩んだ。




 クレープを食べ終えた二人はバイクに乗り、まずあかりの家に彼女を送った。実は彼女の家は刹那のアパートを通り過ぎて三十分ほど走った位置にあるが、刹那はそれを秘密にしている。優しい彼女の事だから、悪いと思って「次からは刹那の家から歩いて帰る」なんて言い出しかねない。


 お断りだ。彼女とは一分でも長く居たい。


 家の玄関を開き、振り返って手を振るあかりに手を振り返す。彼女が家の中に消えてから、刹那はバイクを発進させた。


 明日から冬休みだ。今度は彼女を連れてどこへ行こうか。そんな浮かれ気味の事を考えながら、刹那は自分のアパートへ向かってバイクを走らせる。


 事実、彼女は浮かれていたのだろう。


 だから、後ろから迫る黒いハイエースに気づかなかった。




 






 

 





 


 


  

 


 

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