第九話

 マークXの後部座席。ヴァイパーの膝元を枕にして、少女は心地よさそうに眠っていた。下着だけの身体には黒いトレンチコートが掛けられている。先程までヴァイパーが身に着けていたものだ。


 ライト類がボロボロに割れたマークXで高速道路に乗り、クロウの隠れ家まで戻って来た。時計の針は一時過ぎを指している。覆面パトカーや、高速道路警備隊に遭遇しなかったのは幸運だったとしか言いようがない。


 クロウがガレージのシャッターを開け、車を中に入れてエンジンを切った。彼が運転席を降りてドアを閉める際、かなりの音がガレージの中に木霊したが、少女が起きる気配は無い。相当疲れていたのだろうか。


 マークXを乗せたまま、ガレージの地面が地下へ下がって行く。下層にあるクロウの隠れ家の前で停止し、ヴァイパーは少女を両手で抱え上げて車を降りた。


 クロウが玄関の扉を開いて押さえた。ヴァイパーは少女の身体をぶつけないように玄関をくぐり、リビングのソファに彼女を寝かせた。


 身体を動かされても、少女は喉を鳴らしただけで、目を覚ます様子は無かった。ソファに寝かされるや否や、彼女はヴァイパーのコートを肩まで引き上げ、左を向いて再び寝息を立て始める。


 クロウはリビングの奥に置いてある電話機のボタンを叩いていた。二コール目で出た相手は恐らく結社の関係者だろう。少女の今後や、処遇について軽く話し合った後、医療班を隠れ家に寄越すよう電話口の相手に告げた。


 少女に仕掛けられた爆弾は時限装置こそ止まっているが、未だ彼女の腹の中に納まっている。体内の異物をそのままにしておくのは心地が悪い上、何かの拍子に誘爆する可能性もある。


 電話を終え、クロウは受話器を置く。腕を組んだ体勢でヴァイパーの方に向き直り、言った。


「人を呼んだ。来るのにしばらく掛かるそうだ」

「そう」


 ヴァイパーは一言返し、手袋を外す。その時、切れた頬に痛みが奔った。思わず顔を顰め、「痛っ」と声を漏らす。


「大丈夫か?」


 頬の傷に目をやりながら、クロウが言う。ヴァイパーは「気にしないで」と言う代わりに左手を掲げ、言った。


「お風呂、先に借りてもいい?」

「構わん。傷の手当てをするつもりなら、脱衣所に救急箱が置いてある。縫合と消毒は出来るはずだ」

「十分」


 そう言うと、ヴァイパーはサングラスを外し、リビングのテーブルの上に置いた。脱衣所に移動して服を脱ぎ、クロウが言っていた救急箱を抱えてバスルームの中へ入る。


 鏡の前に立って、怪我の具合を確認した。切られた額から出た血液が固まって、長い前髪がギトギトになっている。左手と右の頬に火傷の跡があるが、この程度なら消毒を施して、軟膏を塗って絆創膏を貼っておけば自然に治るはずだ。


 問題は額の傷だ。額には毛細血管が集まっているせいで、少しの怪我でも血が大量に出る。裸になって分かった事だが、流れ出た血が胸の辺りにまで渡っていた。もちろん顔には飛び散った血が赤黒く変色して、ベッタリとへばりついている。


 車内が暗くてよかった、と彼女は思った。こんな顔を見られていたら、恐らくあの少女に泣かれていたに違いない。


 シャワーを流し、身体に着いた血を洗い流す。凝固した血に水分を吸わせ、柔らかくなった所をタオルでこそぎ落とした。頭を濡らし、邪魔な髪を背中に回す。額が露わになり、グロテスクな傷がハッキリと見えるようになった。


 救急箱の中から消毒液とガーゼを取り出し、傷口を消毒する。それから医療用ホッチキスを取り出し、自分の額に当ててハンドルをグッと押し込んだ。ホッチキス両端から突き出した針の先が額の肉を抉り、抱き込む様に食い込む。


 鈍い痛み、鋭い痛み。どちらとも取れる痛みが額の上を奔った。差し込まれた針の違和感が、体内の異物の存在を主張する。


 二発、三発と傷口を塞ぎ、上からガーゼを貼る。一応、治療は完了だ。


 傷口をあまり濡らさぬように頭と体を洗い、湯船に浸かってからバスルームから出た。


 リビングの方で話し声が聞こえた。クロウが呼び寄せた結社の医療班がもう来ているらしい。彼等の対応に忙しいのか、刹那の着替えは用意されていなかった。


 ふと、脱衣所に放り出したヴァイパーのを見る。気づかなかったが、胸元がかなり赤く汚れていた。紺色のシャツでもハッキリと分かるほどだ。


 もうこのシャツは駄目だ、と刹那は思った。新しい物を用意しないと。


 体にバスタオルを巻きつけ、寝室へ向かう。部屋の隅のクローゼットを開け、タンクトップとショートパンツを引っ張り出して見に着けた。そのままベッドに潜り込んで寝ようかとも思ったが、濡れたバスタオルをそのままにしておく訳にもいかず、脱衣所に戻り、洗濯機の中へ放り込んでおく。


 そこから寝室へ戻る途中、リビングルームの前を通ると、クロウが本棚の奥に手を突っ込んでいるのが見えた。何か装置を操作したのだろう、本棚が壁面ごと横へスライドし、その奥にコンクリート張りの小さな部屋があるのが見えた。


 クロウが開いた部屋の中に、結社の医療班二人と例の少女が入って行く。刹那がリビングルームに入ると、それに気づいたクロウが彼女を制止した。


「なにをするつもりなの?」

「手術だ」

「ここで?」

「あぁ、そのための部屋だ。あの子の爆弾は非常に手の込んだ代物で、素人が外そうとすると内臓を傷つける仕組みになってるそうだ」

「最低」

「同感だ」

「ラウ、だっけ?」

「今日の標的か?」

「えぇ」

「そうだ」

「アイツを見つけたら、真っ先に私に連絡をくれるように、マイアに言っておいて」

「構わんが、どうして?」

 

 クロウが怪訝そうな目を向ける。事実、刹那自身、個人に対してこんなに怒りが湧くことは初めてだった。それ故に、彼の視線の意味が良く分かる。


「アイツは、私が殺す」

「ほう?」


 眉を顰め、面白がるような口調でクロウが言った。


「意外だな、そこまで感情的になるとは」

「私自身、少し驚いてる。でもね――」


 クロウの目を見返し、刹那は言った。


「アイツは、アイツだけは気に入らない」




 額の怪我を医療班に見てもらったらどうだ、とクロウが提案したが、刹那は少し悩んでから、その案を却下した。自分の尻ぬぐいは、出来る範囲なら自分でするのが彼女のポリシーだ。


 額の方の処置は済んだし、火傷は何とかなる。


「それじゃ、お休み」

「あぁ」


 刹那が言い、寝室へ向かう。クロウはリビングのソファに腰を下ろし、VZ61の整備を始めた。彼は少女の手術が終わるまで起きているつもりらしい。


 ベッドに腰を下ろし、手と頬の火傷跡に軟膏を塗って絆創膏を張り付ける。少し痛みはあるが、治るのと同時に引くはずだ。


 部屋の電気を消し、ベッドに潜り込む。ゆっくりと呼吸を整えていくうちに、彼女はスッと眠りに落ちた。


 ふと、ベッドの中で目を覚ましたのは、自分の胸元で何か動く物があったからだった。短い間しか眠れなかったような気もするし、長く眠ったような気もする。どちらにせよ、今は寝起きの頭にもやが掛かっていた。


 半分覚醒、半分眠ったような状態で、刹那は胸元の動く物体へ両腕を回す。右手が何かにつっかえて動かしづらい。その時になって、初めて自分が左を向いた状態である事が分かった。寝返りを打っていたようだ。


 回した両腕で胸元の頭と首を掴む。首を折るためだ。


 よく訓練された兵士、例えば、米軍のネイビーシールズ等の隊員は、眠った状態で襲われた場合、起きるよりも先に敵へ攻撃を仕掛けるよう身体に教え込まれるという。非番の隊員が妻と寝る際、トイレに起き出した妻を敵と勘違いし、眠った状態のまま妻の腕を折ろうとしたという話もある。


 今、刹那がやろうとしていることはそれだった。胸元の頭に左腕を回し、首を右手で固定する。腕に力が入り、敵の首を容赦なく回す。

 

 その寸前で、刹那は完全に覚醒し、腕の力を緩めた。左手に抱える頭のサイズはかなり小さい。彼女の胸にしがみ付いているのは子供のようだ。


 この隠れ家の中に居る子供。刹那には一人しか思い当たらない。


「何でここに?」


 刹那は右手を少女の肩に回し、左手で彼女の後頭部を抱き寄せた。肩に掛かったタンクトップの紐を触った感触から想像するに、新しく、清潔な物に着替えたらしい。


 右手から、少女の張り出した肩の骨の形が伝わって来る。少し手に力を込めるだけで、粉々に砕けそうなほど小さく、弱弱しい肩だ。


 少女は刹那の問いに何も返さず、無言で彼女の胸に顔を埋める。刹那は後頭部に回した左手で、少女の頭を撫でた。


「名前は?」

「……アスナ」

「そう、いい名前」


 短い会話が、ベッドの中で交差する。冷えていた少女の身体に刹那の熱が移り、段々と暖かくなってきた。


「両親は?」


 刹那はふと、頭の中に浮かんだ言葉をアスナに投げかけてみる。彼女は胸の中で頭を横に振り、言った。

 

「お母さんだけ」

「そう」

「……お姉ちゃんは?」

「私は……もういない。二人とも」


 死んだの。殺されたの、目の前で。


 決して口には出せない。


「可哀そう」

「そう……かもね」


 アスナの腕が、刹那の背中に回る。彼女を抱き返そうとしているようだが、腕の長さが足りず、腋の下あたりまでしか届いていない。


 彼女なりの優しさなのだろう。刹那は小さく笑い、言った。


「お母さんの所に帰りたい?」


 胸の中で、アスナが頷く。


「そっか、そうだよね」


 刹那が言った。それ以降、ベッドの中で会話が交わされることは無かった。アスナが寝息を立てるまで、刹那は彼女をずっと抱きしめていた。




 



 


 


 


 


 


 



 


 




 

 



 



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