第四話
刹那が通う高校では、バイク通学は認められている。排気量百二十五CCまでに限定されているが、校舎内の駐輪場には二百五十CCや四百CCのバイクが幾つか停められていた。少しやんちゃな生徒の物になると、七百五十CCの物が停められていたりもする。
既に形骸化した校則であるらしく、刹那はそれに乗じて、SR400を校門に近い駐輪場に停めた。
バイク通学な為、彼女はスカートの中に短パンと黒タイツを履いている。しかし、やはり冷える季節になったようで、比較的薄着になる足の部分がかなり冷えた。
車という乗り物の快適さを痛感する。いっそのこと、これからの季節は毎日クロウに送り迎えを頼もうかと考えた。
バイクから降り、ヘルメットを脱いでホルダーに固定した。学生鞄をリアシートから外し、肩から掛けて校舎へ向かう。その途中で、金田あかりが刹那の姿を見つけ、元気いっぱいの声で「おはよう」と言った。
「おはよう」
刹那は口元を綻ばせながら答えた。どうやったら、朝からこんなに活発に行動できるのか、疑問で仕方が無い。
あかりはとても楽しそうに、昨日見たテレビドラマや動画、読んだ本などの話を刹那に話した。特に話したいのであろう箇所に差し掛かると、彼女は大げさに腕や身体を動かし、自分の内の感情を全身で刹那に伝えようとする。
刹那は相槌を打ちながら、コートのポケットに手を突っ込んだままあかりの話を聞いている。彼女と話していると、少しだけこちらも楽しくなって来るのだから不思議だ。
「そういえば、間宮さん今日は何で来たの?」
「今日はバイク」
「え! 間宮さんバイク乗れるの!?」
「免許なら持ってる」
「すごい! どんなバイク乗ってるの!?」
「SR400。貰い物だけどね」
刹那が言うと、あかりは両手の人差し指で
刹那はコートのポケットからスマートフォンを出して、ネットでSR400の画像を表示させ、画面をあかりの方へ向けた。
「これ」
「おっきい! すごい、こんなの乗れるんだ!」
「免許を取れば、誰でも乗れる」
「そうだけど、私じゃ足が付かないよ」
あかりは自分の脚に目を向けながら、そう言った。
「大丈夫。このバイク案外軽いから、そこまで苦労しない」
「そうなの?」
「うん」
下駄箱前のガラス戸をくぐり、刹那はスマートフォンをポケットに戻す。相変わらず手の届かないあかりの上履きを取ってやり、それから自分の上履きを取り出して履いた。
上履きに足を入れ、踵の部分を引っ張りながらあかりが言う。
「私、免許取ろうかな」
「いいと思う」
「でも親が許してくれないかも」
笑みを見せながらあかりが言った。図らずも、刹那は自分の顔が一瞬曇るのが分かった。私には反対してくれる両親も居ないのだと再確認する。
今ここで、あかりに自分が殺し屋だと伝えたら、彼女はどんな顔をするのだろう。
つい数時間前、男を一人殺して来たのだと言ったら、彼女はどんな声を上げるのか。
自分の中にふらりと湧き上がって来たサディスティックな衝動に、刹那は少し曇った笑いを浮かべた。あかりが不思議そうに彼女の顔を覗き込むが、刹那は「何でもないよ」という風に顔を振る。
あかりはそれで納得したようで、それ以上は追及して来なかった。彼女が上履きを履き終えたので、二人は教室へと上がる階段へ向かう。
「バイクの運転って、何かコツとかあるの?」
「怖がらない事。身体が縮こまると、かえって言う事を聞かなくなる」
「そうなんだ。参考にしよ! 他には?」
「そうね……」
そこでふと、階段に掛かった時計が目に入った。ホームルームまで後2分ほどしかない。
「教室に急ごう。続きはホームルームの後」
「えっ? あっ、あぁぁぁぁぁぁ!」
あかりも時計が目に入ったようで、面白い位に分かりやすく焦った声を出した。
やっぱり、彼女と居るとこちらまで楽しくなって来る。
階段を駆け上がって教室に滑り込んだ直後、朝のチャイムが鳴った。あかりは息を切らしながら席に向かい、刹那は静かに息を整えて椅子に座った。
「おーい、お前等ギリギリだぞ」
担任教師が二人を見てかったるそうに言う。あかりが肩で息をしながら「すみません」と謝罪の声を上げた。
教師の目が自身の方へ向いたので、刹那は小さく頭を下げる。何か言いたげに顔を
不審者情報や、三週間後に行われる期末テストへ向けての注意。そして、冬休み前に行われる三者面談についてだった。
三者面談。教師、生徒、生徒の保護者の三人で将来を話し合う。二年生の冬に行われるそれは一年生に行われたものとは違い、指針を決め、かなり具体的な進路予定を考えなければならない。
二年生の冬とはそういう時期だという事を、刹那はふと思い出した。自身の進路について、彼女はハッキリ言って何も考えていなかった。
結社の殺し屋として、悪党を始末していく今の仕事に何ら不満は無い。危険はある程度自分で対処できる上、クロウも居る。二人で連携を取れば、殆どの脅威を退けられる自信もある。この世界で、暫く羽振りを利かせられるはずだ。
しかし、こちらの世界の話を、ここの生徒やあかり達のようなあちらの世界に住む人間にする訳にもいかない。高校二年生、十七歳になって「将来何も考えていません」では教師に何を言われるか分かったものでは無かった。
保護者役には結社のリーダーであるマイアが保護者として来てくれる事になっている。彼女の年齢は二十六歳で、同性の刹那が思わず息を呑む程美しい美貌を備えた女社長だ。母親と説明するには流石に無理があるので、歳の離れた姉という事になっている。
噂によれば、クロウは彼女が雇い入れた殺し屋の第一号だそうだ。彼が過去に少年兵で会ったことは彼自身から聞いた。しかし、マイアは一流企業の社長を父に持つ生まれながらのエリートだったはずだ。二人がどこで出会ったのか、刹那には見当もつかなかった。
どんな言い訳を伝えるか、頬杖をついて窓の外を眺めながら、そればかり考えているうちにホームルームが終わる。教師が一旦教室から出て行ったと同時に、クラスの生徒たちが椅子から立ちあがり、それぞれ気の合う者達とつるみ始める。
「ねっ、刹那さん」
窓の外に目をやったままの刹那に、小さな足取りで近づいてきたあかりが声を掛けた。
「何?」
頬杖をついたまま、刹那は顔をあかりの方へ向ける。
「さっきの話、続きを教えて?」
「さっきの……あぁ、バイクの事?」
「うん!」
「えっと、何から話そうかな……」
あかりからの質問に答えているうちに、今日一日が終わったような気がする。刹那にそう思わせる程、あかりはバイクに興味津々だった。実際、今日の休み時間のほとんどは彼女と過ごしていた。
チャイムが鳴って、現代文の担当教師が教室から出て行く。後は帰りのホームルームだけだ。刹那がさっさと帰り支度を整えていると、担任教師が教室に入って来た。
一つ二つ小さな連絡が伝えられ、担任教師が数人の生徒に向けて職員室へ来るよう告げる。その中に刹那は入っていなかったので、帰りの挨拶をした後、彼女はさっさと下駄箱の方へ向かった。
上履きを脱いで下駄箱に戻し、靴を履く。ガラス戸を抜けて、バイクを停めた駐輪場まで歩き、学校指定の鞄をバイクのリアシートに括り付けた。トレンチコートのボタンを留め、腰のベルトを締める。ポケットから手袋とキーを取り出し、バイクのエンジンを掛ける。
キックスターターは正直面倒だったが、これ以外にエンジン始動方法が無いので仕方が無い。バイクに跨って手袋をはめ、駐輪場からバイクを出す。
ギアを一速に入れ、校門の方へ低速で走らせ、その先の道路の前で一旦止まる。左右確認の為に左を見ると、あかりが何やらギターケースの様な物を背負って歩いているのが見えた。
ギターにしてはかなりサイズが小さい。バイオリンだろうか。
少し気になって彼女の方を見つめていると、排気音に気づいたあかりがふとこっちを見て手を振った。刹那の姿を認めた瞬間、少し緊張した面立ちだったのがパッと明るくなる。
フルフェイスのヘルメットを被っているのに、良く分かったものだ、と刹那は感心する。あかりに手を振り返して、バイクを発進させた。
十五分ほど走った後、彼女の家は見えて来た。結社が隠れ家として用意した閑静なアパートだ。部屋は一人で住むには広い2LDKで、駐車場と駐輪場が敷設されている。
刹那は駐輪場にバイクを停めてキーを外し、盗難防止用のチェーンを掛けた。すぐ隣には自転車が二台と、その奥にカワサキの大型バイクが停められている。二つ隣の部屋に住んでいる男子大学生の物だったはずだ。
括り付けた鞄を取り外し、ヘルメットを脱いで自分の部屋に向かった。鍵を開錠して中に入り、ヘルメットと鍵束を玄関先の靴箱の上の定位置に置く。リビングへ入って学生鞄を床に置いた。
質素なリビングだった。あるのはテレビとソファーとキッチンだけ。生活するための最低限の物しか置かれていない。
刹那は学生服を脱いで、寝室の方へ移動する。部屋の隅のクローゼットを開き、自分の私服に着替えた。すらりとしたパンツに灰色のパーカー。遊びに行くならもう少し洒落た服に着替えたくなる格好だったが、特に外出する予定も無いのでこれにする。
脱いだ学生服をキチンと畳んで、寝室のど真ん中に置かれているベッドの端に置いておく。そういえば、これはクロウの家から着てきた物だ。近いうち、何なら今日中にでも戻しに行くべきか。
その時、ふらりと刹那の身体が揺れる。一瞬、睡魔に意識を持って行かれそうになった。頭を振って目を擦るが、視界のぼやつきは消えず、見たいものに集中しないと目のピントが合わない。
どうやら、昨日の仕事のせいで睡眠不足に陥っているらしい。そういえば今日一日、身体が重かったのを思い出す。
ため息をついて、刹那はベッドの上に仰向けに寝そべった。睡眠不足を解消するには、寝るのが一番手っ取り早い。例え短い時間しか眠れなかったとしても、思考速度や身体のだるさは確実にマシになる。
腹の上に両手を置き、ゆっくりと呼吸をする。その内、彼女は音も無く眠りについた。
目を覚ますと、部屋は既に暗くなっていた。刹那はベッドから起き上がって、寝室の電気を点ける。いきなり灯った電灯に目が痛い。眉間にしわを寄せながら、壁に掛かっている時計に視線を向ける。午後六時三十分を少し過ぎた所だった。
ベッドの端には少し崩れた学生服がポンと置かれている。寝がえりの際に、少し乱してしまったらしい。
刹那はそれを畳み直してからクローゼットを開け、濃紺のシャツを取り出した。パーカーを脱いで、シャツを着る。その上から、いつものトレンチコートに腕を通した。
シャツの襟を整え、クローゼットを閉める。それからベッドの側へ移動し、下部の収納スペースの棚を引き出した。
HK416にM870、MP5K、そして、拳銃が二丁。女子高生のベッドの下から出てくるには、非常に物騒な代物がズラリと並んでいた。スポンジの上に型を取り、そこを切り抜いてはめ込まれているような状態になっている。
刹那はその中から拳銃を一丁引っ張り出し、すぐ隣の箱型弾倉を銃本体に滑り込ませる。遊底を引き、初弾を薬室に装填する。
CZ75 SP-01。標準的な九ミリ弾を十六発装填可能な自動拳銃。あまりポピュラーな拳銃では無いが、性能に関してはクロウのお墨付きだ。
彼の愛銃、VZ61と同じメーカーの製品。どうも、彼はチェコスロバキアの銃がお気に入りらしい。
ホルスターを取り出して、拳銃を突っ込み、パンツのベルトに引っ掛ける。フルサイズの拳銃だったが、コートを着ているので隠し持つことは容易だ。
ベッドの収納スペースを閉め、畳んだ制服を持って立ち上がる。寝室を出て、リビングルームのドア縁にハンガーで掛けていた斜め掛け鞄の中に制服を入れ、ヘルメットと鍵束を持って家を出た。
玄関を閉め、駐輪場へ向かう。トレンチコートを閉め、ヘルメットをし、盗難防止用のチェーンを外してバイクのエンジンを掛ける。常時点灯のヘッドライトが灯り、眼前のアパートの壁面が明るく灯った。
刹那のアパートからクロウの偽装ガレージは近い。駐輪場からバイクを走らせ、五分もかからない位置にそれはあった。インターホンを鳴らすと、あまりかからずにクロウが出て来る。どうやら、ガレージで何か作業をやっていたらしい。大抵、地下の隠れ家に居る時は、彼が出て来るまで一分ほどかかる。
クロウに制服を渡し、後の事を頼む。クロウは「分かった」と一言だけ返し、ガレージの中へ戻った。
モーターのが移転する音が響き渡り、ガレージのシャッターが閉まり始めた。完全に閉まり切るのを見届けることなく、刹那はバイクを発進させる。ガレージの中に掛かっていた時計にチラリと目をやった時、針は六時三十七分を指していた。夕飯時だ。
刹那は近くのスーパーマーケットで夕飯の材料を買うか、それとも出来合いの物を買うか悩みながら、バイクを走らせる。住宅街から幹線道路に出て、一つ目の信号に引っ掛かり、停止線の前で止まる。
「うん?」と刹那は声を漏らし、少し前方のバス停に立っていた少女に目を凝らした。
小柄な少女。ファー付きのブーツに、あったかそうなタイツとショートパンツ。トップスはもこもこの上着に隠れて分からない。が、彼女の顔と、胸に携えている一回り小さいギターケースには見覚えがあった。
金田あかり、と刹那は心の内で呟く。何処か焦っている様子だが、どうしたのだろうか。
刹那は気にせず通り過ぎようと思ったが、そわそわと落ち着かない様子で周りを見渡す彼女がどうもいたたまれなくなり、バス停の前で止まる事にした。
「どうしたの?」
バイザーを上げ、刹那は言う。突然眼前で止まったバイクに驚いた表情を浮かべるあかりだったが、運転手が刹那だと分かると、表情がパッと明るくなる。
「間宮さん! 外で会うの初めてじゃない?」
「そうだね。で?」
「えっ?」
「何か落ち着かない様子だったから、どうしたのかなって」
「あ、うん」
あかりが目を落とし、落ち込んだ様子で言う。
「今日ね、バイオリンの発表会があるんだ」
「へぇ、バイオリンやってたんだ」
「うん、長い間やってるの。結構うまいんだから!」
一目で空元気と分かるあかりの声が、寒空に響き渡る。
「でも、バスが渋滞に巻き込まれてるみたいで、間に合いそうに無いんだよね」
苦笑い。必死に笑ってごまかそうと努めているが、悲しみが隠せない表情を浮かべながら明かりが言う。
「はぁ」と刹那は溜息を付いた。
「後ろ、乗って」
「え?」
「このバイクは二人乗りできるから、会場まで乗せてってあげる」
「でも、私ヘルメット持って無いよ!?」
刹那は自分のヘルメットを外し、あかりの頭に被せた。
「これで大丈夫」
「大丈夫……って! 間宮さんはどうするの?」
「ノーヘル」
「ダメだよ! 危ないよ!」
「大丈夫。事故なんか起こさないから」
「でも……」
「ウダウダしてると間に合わなくなる。乗るのか乗らないのか、はっきりして」
彼女がそう言うと、半ば押し切られる形であかりがリアシートに跨って来た。バイオリンケースを後ろに背負い、空いた両腕を刹那の腹に回す。
「あ、安全運転で、お願いします」
「任せて」
そう言うと、刹那はやや乱暴にバイクを発進させる。
警察に見つからないように裏道を通って、発表会の会場であるコンサートホールへ到着する。あかりが演奏を始めるのは七時丁度。コートのポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認すると、六時五十三分と表示されていた。何とか間に合ったようだ。
「着いた」
「あ……ありがとう……」
あかりは蚊の鳴くような声を上げながら、フラフラとバイクから降りた。
「ね、ねぇ、間宮さん」
震える手でヘルメットを渡しながら、彼女が言う。刹那はバイクのエンジンを止め、降りてからそれを受け取った。
「どうしたの?」
「もし、良かったら、なんだけどね? その……」
「うん?」
何故か顔を赤くし、刹那から視線を逸らして、あかりが言った。
「私の演奏、聞いて欲しいな、って」
「……別にいいけど」
「ホント!?」
一転して、彼女はまたあの明るい笑顔を浮かべた。暗い夜だったのに、彼女の周りだけ明るくなったような気がするのだから不思議だ。
「じゃあ、私の出番もうすぐだから、行って来る! 絶対見てね!」
「分かった」
苦笑いを浮かべながら、刹那はコンサートホールに走って行くあかりの背中を見送った。
バイクを押して駐輪場へ停め、正面入り口からコンサートホールの中へ入る。受付スペースに居た女性に友人の演奏を見に来た事を説明すると、すんなりとホールの扉を開けて中へ案内してくれた。
真ん中の通路を歩き、空いている適当な椅子に座る。ホールの中は既に照明が墜とされていて、足元は非常に暗かったが、刹那にとって何の事は無かった。
丁度演奏が終わり、タキシードを着た男の演奏者が舞台の下手の方へ捌けていく。少しして、目が覚めるような真っ赤なドレスに身を包んだ金田あかりが上手から登場した。
髪を丁寧に整え、ホルターネックの背中が大きく空いたドレスだった。正直言って、彼女のイメージにない衣装だ。にも拘らず、あかりは当然と言った様子でそのドレスを着こなしている。赤いヒールを履いているので実際背丈が伸びているのだが、それを加味しても、もっと長身の女性であるように見えた。
彼女はすました顔でバイオリンを構える。ステージの照明に照らされた彼女の表情は、とてもクールで、艶やかで、何処か色っぽく見えた。
演奏が始まる。弦が空気を震わした振動が、音色となって刹那の耳へ、そして脳へ飛び込んで来た。それまで音楽という物にあまり触れて来なかった彼女でさえ、これが感情の乗った音だと嫌でも理解させられる。
衝撃だった。眼前で音を奏でる金田あかりが、まるで別人のように見えた。
少しして、演奏が終わる。客席に向けてお辞儀をしたあかりに向けて、スタンディングオベーションが巻き起こり、会場中からの拍手が送られる。
刹那は、ただ一人、その場から動く事すら出来なかった。
金田あかりの演奏が最後の演目だったようだ。彼女が舞台から捌けると、コンサートホールの明かりが灯され、会場からぞろぞろと観客が出て行く。
刹那はゆっくりと立ち上がって、彼等の後に続いた。扉をくぐり、ホールの外へ出る。
「間宮さん!」
あかりの声が聞こえ、刹那がそちらを向く。彼女はドレス姿のままで、ヒールだというのに小走りでこちらへ向かって来る。案の定、「あっ!」という短い悲鳴と共に、地面に敷かれていた絨毯の繊維に足を引っ掛けて前へけつまづいた。
刹那はスッと前に移動し、倒れ込む彼女の身体を支える。抱きとめる様にして彼女の身体を起こし、ドレスのスカート部分を払ってやった。
「その靴で走ると危ない」
「えへへ……ありがと」
照れ笑いを浮かべながら、あかりが言う。刹那の知っている表情だ。
「演奏、すごかった」
「ホント!? ありがとう!」
「本当。じゃあ、私もう行くね」
そう言って、刹那が振り返ろうとする。その時だった。
「待って!」
あかりの声が響く。妙に必死そうな声だ。
「何?」
「あのね……その……今日は、送ってくれてありがとう」
「別にいい」
「だから……って言ったら変なんだけど……その……」
あかりは妙にもどかしく言葉を切る。刹那は彼女の方へ向き直ると、言った。
「いいよ、何でも言って」
「あの……下の名前で呼んでもいいかな?」
「下の名前?」
「刹那って……呼んでもいい?」
そんな事か、と刹那は肩を落とす。正直、もっと変な事を言われるのかと思っていた。
「いいよ。好きにして」
あかりの顔が一層明るくなる。刹那もつられて笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあ、私の事もあかりって呼んで!」
「分かった」
刹那はくるりと振り返り、ホールの外へ向かう。
「じゃあね、あかり」
「うん! また明日ね、刹那!」
どこかくすぐったい思いを覚えながら、刹那は駐輪場へ向かう。刹停めたバイクを出し、ヘルメットを被ってエンジンを掛けた。
不思議な一日だった。そんな感想を覚えながら、刹那はバイクを発進させる。コンサートホールから幹線道路に出て、少し直進する。
その時、彼女の腹の虫が鳴いた。
そう言えば、夕飯をまだ食べていなかった。
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