第三話

 クロウはガレージの中にマークXを停め、エンジンを切った。彼が車を降りて、ガレージの蛍光灯のスイッチの隣にあるタッチパネルに暗証番号を打ち込むと、隠しエレベータが起動し、コンクリートの床が下降を始めた。


 仕事を終えたヴァイパーを合流地点で拾い、クロウが車で乗り付けたこのガレージは、彼のセーフハウスだった。


 一見ただのガレージにしか見えないが、彼だけが知っている番号を打ち込むと、地下のシェルターへ車ごと移動することが出来る。地下には地上に突き出ているこぢんまりとしたガレージからは想像もつかない程の広い空間が広がっていて、普通の家と遜色のない内装に仕上げられていた。


 マークXはその家の中に停まる形になっている。ガラス張りになった窓から、何時でも愛車を眺められるような造りになっているのは、恐らくクロウの趣味だろう。


 ヴァイパーは車から降り、セーフハウスの中へ向かった。クロウはマークXの正面と背面に取り付けられたナンバープレートを取り外し、金属用のシュレッダーにかける。


 その様を確認することなく、彼はヴァイパーの後に家に入った。彼女は既にコートとベストを脱いで玄関先のハンガーにかけ、シャツと細いパンツだけの格好に戻っている。


 既に間宮刹那に戻っているようだった。彼女はシンクの前に移動すると、頭上の戸棚からコップを出し、水を汲んで一杯飲んだ。


 クロウは彼女のコートの横に、着ていた革のミリタリージャケットを掛けた。その下には、黒のコマンドセーターとジーンズパンツ。彼のいつもの恰好だった。


 彼は同じ服を何着か持っており、それをローテーションして着ている。服に無頓着というよりかは、それが彼にとっての制服の様だった。夏はもちろんもっと薄着になるが、色味は変わらない。


 思えば、刹那は彼の事をあまりよく知らない。十四歳の時、両親ともども殺されそうになっていた彼女を救ってくれたのが彼だ。それから彼に戦い方を教わり、今まで人並みの生活を送らせてくれた。


 歳は刹那の一つ上だと聞いたことがある。彼の上司、結社の取締役を務めている眼鏡を掛けた、マイアという女性から聞いただけだったが。


 クロウに直接聞いてみたこともあるが、彼は自分の誕生日を知らない。どういうことかと問い詰めてみたら、彼は幼少の頃少年兵だったようで、そんな事を考えている暇が無かったという答えしか帰って来なかったのを覚えている。


 刹那はコップをシンクへ置き、こちらへ向かって来るクロウとすれ違った。彼はシンクの先のキッチンの前に向かい、冷蔵庫を開いて何か用意を始めた。


「何してるの?」

「朝飯の用意だ」


 彼が淡々と言う。クロウのセーフハウスに泊まりに来た時には、いつも彼が食事を用意してくれた。腕も中々の物であったが、何処でそんな技術を身に着けたのか皆目見当もつかない。


「風呂はもうすぐ湧く。さっさと入って寝ろ。明日も学校の筈だ」

「うん、わかった」


 バスルームへ向かおうと思った時、先程の仕事の際の光景が頭をよぎった。情けない嶋津に、女の嬌声。ふと、彼女はクロウの視線の範囲内で、自分のシャツを脱いでみたくなる。


 いや、と刹那は頭を振った。恐らく彼は何の興味も示さないのだろう。あの仏頂面で、「何してる?」と言われる情景がありありと頭に浮かんだ。


 彼女はふぅと息を付きながら、脱衣所へ向かった。丁度その時、風呂が沸いたことを告げるリズミカルな音楽が鳴る。丁度いい。彼女は服を脱いで、バスルームへ入り、シャワーを浴びてから湯船へ身体を沈める。


 湯に浸かりながら、彼女は昔の記憶を思い出して見た。クロウと初めて会った時の記憶だ。


 十四歳の誕生日のあの日、刹那は両親が運転するミニバンの後部座席に乗っていた。三連休の初日で、家族で旅行に行こうと予定していたのを覚えている。助手席に座る母があそこに行きたい、あれも見たいとパンフレット片手に父の肩を叩く光景が、今でもはっきりと思い出せた。


 「刹那の誕生日なのに、ママが一番はしゃいでどうするのさ」と笑いながら言った父の言葉が耳から離れたことは一度も無い。その声を合図に、刹那の人生が百八十度転換したからだ。


 車窓からヘッドライトの眩しい光が差し込んだ。瞬間、左サイドに衝撃を食らってミニバンが横転。アスファルトを滑り、歩道の電信柱に屋根をぶつけて停止した。


 凄まじい衝撃ともに身体が浮遊感に襲われ、金属が歪んでガラスが割れる。暴力が形を成したかのような爆音が刹那を襲い、彼女は叫び声を上げる事しかできなかった。


 その一瞬は、数時間にも感じられた。ひっくり返りながら、何とか動きを止めた車の中で、刹那の父はシートベルトを外し、フロントガラスを蹴破って、母を外へ連れ出そうとしていた光景が、目に焼き付いている。


 そのフロントガラスの向こうに、人間の下半身が見えた。黒いズボン、スーツパンツを着ていたはずだ。父がその姿を認めた途端、声が震え、突然許しを請うような事を言いだしたのを覚えている。


 直後、連続した銃声が上がった。フロントシートから噴き上がった血飛沫がボロボロの車内に噴霧し、シートの中の綿が埃や繊維となって吹き上がる。シートベルトで固定された母の身体が力なく父の方へ垂れ下がり、父はそれを受け止めること無くこと切れていた。


 刹那は声を押し殺し、シートベルトを音を立てないように外した。重力に引かれた体が右へ落下し、ミニバンのスライドドアに叩きつけられる。右腕に激痛が奔ったが、声を上げるわけにはいかない。腕を抑えて身を低くし、声を震わせ、目に涙の筋を伸ばしながらミニバンの後部ドアへ向かう。


 衝突した際の衝撃によって、運よくリアガラスは粉々に砕け散っていた。刹那は口元を抑えながら、窓枠をくぐって外に出る。


「おい、お前」


 その時、彼女の右側から男の声が掛かった。スーツを着て、眼鏡を掛けた男だった。手にはサブマシンガンを携えている。当時の記憶を現在の知識で補完すれば、あの男が持っていたのはMP5だ。


 刹那は腰を抜かし、その場でへたり込んだ。泣きながら、「殺される」と頭の中で何度も繰り返す。運命から逃れるために、必死で後ろへ這おうとし、その時に割れたリアガラスで切った掌の傷は今でも残っている。


 男は銃口を上げ、彼女の方へ向けた。恐ろしく無表情な顔だった。


 刹那は反射的に、きつい日差しや、飛んで来るボールから顔を守る時の様に、銃口の前に掌をかざした。無論、銃弾の前には何の意味も無い行動だ。


 男が引き金を絞り、銃口が火を噴く。弾丸が発射され、鮮血が散った。


 頬に熱い物を感じながら、刹那はその場にうずくまる。身体からふっと力の抜ける感覚があった。不思議と痛みは無い。死とは案外こんな物なのかと、妙に冷静な頭で分析していた。


 意識が妙にはっきりしている。押さえていた腕を放し、腹を見てみると、着ていた青いピーコートのボタンが見えた。


 血は出ていない。撃たれていない?


 彼女は恐る恐る顔を上げる。目の前で、男二人が取っ組み合っているのが見えた。いや、取っ組み合いと言うよりは、一方的な格闘戦だったように思う。


 一人はスーツの男だ。サブマシンガンを持ってはいるが、突然の襲撃者に狼狽ろうばいを隠そうともせず、何か口汚く罵っている。


 もう一人の彼が、革のミリタリージャケットを着て、ジーンズにコマンドセーターのクロウだった。歳は刹那とそう離れているようには見えなかった。後々分かることだが、実際離れていない。


 男としては小柄な体型であったが、自分よりずっと大きな相手に対し、有利に戦闘を進めているように見えた。右手でサブマシンガンの銃口を逸らし、振りかぶった左の拳で敵の顔面を殴打する。スーツの男が反撃に移るより先に銃床を左手で押さえ、肩甲骨を回すような動きから、右の肘を炸裂させた。


 顎を狙った一撃。スーツの男の脳が揺れ、銃を取り落しながら地面へ崩れ落ちる。クロウは腰のリボルバーを引き抜き、スーツの男が立ち上がって来る前に、その後頭部を容赦なく撃ち抜いた。


 スミス&ウェッソン社のモデル327リボルバー。隠し持つことに重きを置き、二インチの短いバレルが装着されているが、その後ろの太いシリンダーにはマグナム弾が八発も装填できる。


 後に彼自身から聞いた話だ。


 クロウは刹那の方に顔を向ける。ひどく無表情だった。左目付近には大きな傷跡が奔っていて、小さい体の割に威圧感を感じさせる顔だ。しかし、刹那には彼に敵意があるようには見えなかった。彼の瞳は何も語らないが、同時に殺意も見えなかったのだ。


「よう」


 そう言った矢先、彼はぴくりと顔を動かすと、そちらの方へ右手のリボルバーを突き出し、間隔を開けて二発撃った。刹那が遅れてそちらへ振り向くと、別の男が倒れているのが見えた。スーツ姿。両親の身体をズタズタにした、あの男だろう。


 その男は左胸と顔面を撃ち抜かれ、アスファルトの地面の上でビクビクと痙攣を起こしていた。まさに一瞬の照準だったが、クロウはその一瞬で、正確に敵の弱点を狙い撃った。


 彼は銃を手に持ったまま、顔を回して周囲を確認する。安全だと判断したのか、リボルバーを腰に戻し、ジーンズのポケットに手を突っ込んで、歩道を向こうへ歩いて行く。


 刹那はゆっくりと立ち上がって、訳も分からないまま彼の後ろを歩き始めた。クロウは角を折れ、近くの路肩に停めてあったバイクに跨る。


 ヤマハSR400。今では刹那の愛車になっているバイクだった。


 彼はヘルメットを被り、キーを捻ってエンジンを掛ける。その時、ヘッドライトに映し出された刹那の姿が目に入ったようで、ブラックアウトされたシールドの奥の瞳が、彼女の視線と交差した。


 暫く、無言の時間が続いた。単気筒エンジンの排気音だけが、辺りに漂っている。


「何の用だ?」

 

 満を持して口を開いたのは、クロウの方だった。ヘルメット越しのくぐもった声だったが、しっかりと聞き取る事が出来た。


「……行く場所が無いの」


 刹那が言うと、彼はジャケットの内ポケットから携帯を取り出して、彼女に渡す。


「警察を呼んで、保護してもらえ」


 彼が言った。刹那は受け取ったまま、指を動かそうとしない。


「使い方が分からないのか?」


 刹那は首を振り、シールド越しの彼の目を見つめ返す。その時の彼女の瞳に浮かんでいたものが何だったのかは、刹那自身が一番分かっていない。


「……


 クロウが息を付き、言った。刹那は頷き、言う。


「大丈夫。それでも、いい」


 彼女が言うと、クロウはリアシートを指差して、後ろに乗る様に示した。刹那はそこへ跨り、彼の身体に腕を回す。


 そして、バイクが発進した。





 それ以来、彼女はヴァイパーとなって、悪人をこの世から始末する仕事を得た。それが両親を殺された復讐心から来たものなのか、それとも使命感からなのか、もうすでに判断が付かない領域にまで来てしまった。


 だが、それに後悔は無い。刹那は目を開け、湯船から出てバスルームの鏡の前に立った。引きしまった肉体。運動部の男子部員顔負けの身体つきだった。修学旅行や野外合宿などで共同浴場に入る時、同じクラスの女子生徒から特異な目で見られたこともある。が、その視線は左腕と右の脇腹に刻みつけられた傷跡に向けられたものが多かった。


 クロウとのナイフスパーリングでつけられたものだ。


 リアルエッジを握り、手加減なしでの切り合いだった。切られた箇所は彼が治療してくれたが、「ここで切られるようじゃ、実戦では使い物にならない」と落胆した表情で言われたのを覚えている。


 今では彼に刃をもらう事は無くなった。勝てはしないが、繰り出されるすべての攻撃をしのぎ切る事が出来る。


 シャワーからお湯を出し、頭から被る。沸き立った湯気で曇った鏡を右手で拭うと、身体の稜線を浮かび上がらせる二つの乳房が写った。濡れた長い黒髪が肩の辺りに張り付いている。


 誰にも触らせたことは無いし、触らせるつもりも無い。だが、クロウにならいいかもしれない。


 仮に、と刹那は思った。彼がそういう事を求めてきた場合、私は拒むのだろうか。


 いや、拒まないだろう。彼にはそれ程の恩がある。もっとも、彼がそんなことを求めて来る姿が想像できなかったが。


 刹那は鏡に映る自分に微笑みかけると、手際よく頭と顔と身体を洗って、もう一度湯船に浸かり直してからバスルームを出る。脱衣所のすぐ隣に置いてある洗濯機の上にバスタオルと着替えが用意されているのが見えた。クロウが用意してくれた物だろう。


 彼女は身体と髪を拭いて、それを着た。黒いタンクトップにショートパンツ。寝る時にお決まりの恰好だった。髪を乾かし、脱衣所から出て寝室へ向かう。その途中でリビングルームの前を通り過ぎるが、そこで何か作業をしているクロウの後ろ姿が見えた。


「何してるの?」


 その背中に刹那が問いかけると、クロウが振り向きもせずに答えた。


「銃の整備だ。自動拳銃オートマチックは可動部品が多い。怠るとすぐに動作不良を起こす」


 少し横にずれると、彼が銃を組み立て直しているのが確認できた。先程仕事で使ったMK23拳銃だ。銃身と遊底を組み込み、弾倉を抜いた状態で遊底を三度引き、動作確認をする。それを済ますと、彼は空の弾倉を銃本体へ入れ、安全装置を掛けた。


「もっとも、コイツはそうそう弾詰まりなぞ起こす代物じゃないがな」


 そう言って銃を目の前のテーブルに置くと、彼が少しだけ刹那の方へ顔を傾け、言った。


「お休み」


 早く寝ろ、と言いたいようだ。


「お休み」


 刹那は一言返し、寝室へ向かった。寝室にはベッドが一つ置いてある。一人で寝るには十分すぎる大きさだ。


 彼女はそこに寝そべって、仰向けになった。電気を点けていないので、天井に掛かる暗闇しか見えなかった。途端に寒さを覚え、刹那は足元に畳まれている掛け布団を肩の位置まで引き上げる。


 暗闇に目が慣れ始める頃、彼女は目を閉じて、眠りについた。




 目を覚まし、寝室を出た。あまり睡眠時間は長くなかったが、悪くない目覚めだった。


 リビングルームに行くと、クロウが用意してくれた朝食がテーブルの上に用意されていた。起きるタイミングバッチリに盛り付けてくれたようで、みそ汁から湯気が漂っている。


 ご飯と納豆とみそ汁に卵焼きの朝食を食べ終え、彼女はリビングのソファに畳まれていた着替えを身に着ける。学校に着ていく学生服だ。刹那自身の家にも学生服を置いてあるが、念のためにここにもワンセット用意しておいた物だ。


 それを着て、靴を履き、隣に掛けてあったコートに腕を通してから、玄関の扉を開けた。外には既にクロウが居て、マークXの点検を行っていた。車の前に、新しいナンバープレートが置かれている。見たことのない番号だ。


「動かしていい?」

「あぁ」


 刹那が言い、クロウが答えた。壁に取り付けられていたコントロールパネルを操作し、ガレージの床を上昇させる。数秒で上がり切り、目の前にシャッターが出現する。

 

 自身のバイク、クロウから譲り受けたSR400のハンドル部分に掛かっていた学生鞄をリアシートにゴム紐で括りつけ、ヘルメットホルダーに掛けてあったヘルメットを被った。ガレージの中でエンジンをスタートさせ、単位気筒エンジンのエキゾーストノードが響き渡る。


「行ってきます」


 刹那がバイザーを上げた状態で言うと、クロウが手を掲げた。「行ってらっしゃい」の意味だ。


 彼がポケットに突っ込んでいたリモコンを操作して、シャッターを開く。朝焼けが刹那の通学路を照らしている。


 バイクを発進させ、刹那は学校へ向かった。


 


 







 


 






 




 


 




 






 


 

 


 


 


 



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