第一話
「よう」
たった一言。初めて出会った時、彼がそう言ったのを今でも覚えている。その当時、犯罪なんて遠い世界の出来事だと思っていた。ましてや、殺し屋なぞ架空の存在でしかなかった。
しかし、その一言が彼女の世界にその二つの存在を刻みつける事となった。
「ここでいい。降ろして」
助手席で座っていた
「ありがとう」
刹那は一言言うと車から降り、目の前の高校へ歩き出した。彼女の後方で、クロウの駆るセダンが低く唸り、発進する。校門の前を通り過ぎ、幹線道路へ左折していく後ろ姿が見えた。
マークX GRMN。彼が公私共に使っているスポーツセダンだ。防弾ガラスに、履かせているランフラットタイヤは、パンクしても八十キロの速度を保ったまま、百キロの距離を走行することが出来る。
ナンバープレートはすぐに取り外し、付け替えが出来る様に改造されていた。刹那は彼がナンバーを付け替えている所を実際に見たことがあるし、仕事の際、彼の車には毎回違うバンパーが取り付けられている。
トランスミッションは今時時代遅れのマニュアル式。あまりモノに対する執着を見せないクロウであったが、珍しく彼が拘りを見せるポイントだった。
寒い冬の日だ。冷たい風が刹那の長い黒髪を揺らした。かじかむ手をトレンチコートのポケットに突っ込む。先程の仕事でも使っていたコートだ。十分な時間は経っているが、まだ少し硝煙の匂いがした。素人にはバレない程度だったが。
「間宮さん、おはよう!」
声を掛けられて、刹那がその方へ顔を向けると、小柄な女の子が彼女の隣で息を切らしていた。肩で呼吸し、吐く息が白く霞がかっている。呼吸のペースも速い。走って来たのだろうか。
「おはよう」
刹那は笑みを浮かべて返したつもりだったが、その笑顔がどこかぎこちなくなるのが自分でも分かった。笑うはあまり得意ではない。
それに対し、彼女の目の前で笑う少女、金田あかりは本当に笑顔がよく似合う女の子だった。向日葵や太陽というような、明るいイメージのある花がぴったりと当てはまる笑顔。
彼女は自分とは違う何処か別の世界の住人であるかのような錯覚を覚える。同じ学校に通っているのに、この差は何処で生まれてくるのだろうか。
「行こう! もうすぐホームルーム始まっちゃう!」
「うん」
金田あかりは刹那の右手を取り、下駄箱へ向かう。小さくて柔らかい、実に女の子らしい手だ。刹那は、握り返された自分の手がひどく分厚いものに感じられた。親指の付け根に出来たタコが彼女の掌に圧迫される。
やはり、違う世界の住人のようだ。
下駄箱の前まで来て、あかりは背伸びして自分の上履きに手を伸ばす。この学校の下駄箱はどういう訳かかなりの高さがあり、彼女の背丈では、一番上の上履きには背伸びをしないと届かない。
靴をとるために、毎回こんな不便な思いをしなければならないと思うと、何とも不憫な気持ちになる。刹那はひょいと手を伸ばし、自分の目の高さと同じ位の所に置かれたあかりの上履きを取ってやった。
「あっ! ありがとう!」
例の向日葵の様な笑みを浮かべ、彼女は刹那に言った。緩く笑みを浮かべてみるが、自分ですらあまり表情が変わった様に思えなかった。
「間宮さんって、やっぱり大きいよね」
「そう?」
金田あかりは百五十センチと少し。女子としては少し小柄と言った程度の背丈であるが、刹那の身長は百七十五センチ。同じクラスの男子とあまり変わらない程の背丈があり、スポーツテストの結果も上から数えた方が早い。
「そうだよ! 十センチ位分けて欲しいもん!」
「あげれるなら、あげたい。望んで伸ばしたけじゃないし」
「あ~! 嫌味にしか聞こえない!」
頬を膨らませるあかりを前に、刹那はクスクスと声を出して笑った。あかりもつられて笑う。
その時、学校のチャイムが鳴り響いた。
「わっ! 遅刻しちゃう! 間宮さん、早く行こ!」
二人は急いで靴を履き替え、教室のある二階へ階段を駆け上がった。
六限の授業が終わり、刹那は教科書を通学鞄に詰める。やがて始まったホームルームを聞き流して、起立して帰りの挨拶。いつものパターンだ。
コートに腕を通して、鞄を肩に引っ掛ける。部活動はやっていないので、彼女はさっさと下駄箱へ向かった。上履きを下駄箱に戻し、校則で決められている革靴を引っ張り出す。
固い履き心地。足を動かしにくいので、あまり好きではない。
「間宮さん!」
踵が上手く入らず、指を靴ベラ代わりに突っ込んでいた時、後ろから声が掛かった。刹那は彼女の方へ顔を向け、サヨナラ代わりに手を振る。
金田あかりは満面の笑みで手を振り返す。彼女の周りを女子生徒三人が囲んでいた。恐らく部活の友達なのだろう。校則違反ギリギリの明るめに染めた髪や、色とりどりの色に塗られた爪。短く織り込まれたスカート。
あまり関りの無いタイプの女子生徒だ。彼女たちは刹那の方を見て、のけ者を見るような視線を向けて来る。
特に反応することも無く、刹那は靴を履き終えて下駄箱を後にした。革靴の音を鳴らし、校門を抜ける。朝も寒かったが、陽が落ちて来るこの時間はもっと冷え込むようだった。トレンチコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込む。手袋とマフラーをクローゼットから出すべきかどうか、悩ましくなって来る気候だ。
赤になった歩行車信号で止まり、青になってから横断歩道を渡った。少し歩くと、学校から一番近いコンビニが見えて来る。運動部が買出しに出たり、やんちゃな男子生徒が昼食を調達するために、学校を短く脱走してパンやら何やらを買いに来る場所だ。
その駐車スペースの一つに、クロウの車が停まっているのが見えた。白のマークX。ナンバーは朝付けられていたものから取り換えられている。
仕事か。
刹那は特に足を速めることも無く、その車に近づき、助手席のドアを開けた。シートに腰を下ろし、後部座席に通学鞄を押しやる。
「日に二回も仕事?」
「いや、次は日が変わってからだ」
「時間は?」
「午前一時。装備は持って来てある」
運転席のクロウが後部座席を指差す。アタッシュケースが置かれているのが見えた。
「一時? お迎えが随分と早いけど」
「結社の連中が標的を監視してる。動きによっては、予定が前倒しになる可能性もある」
「そう」
刹那は言って、助手席の背もたれを倒す。
「少し眠る。状況が変わったら起こして」
「待て」
クロウが彼女に顔を向けて言ったので、刹那は仰向けのまま、その視線を見返した。
「シートベルトを」
そう言われたので、彼女はシートベルトを固定し、組んだ手を腹の上に置いて、静かに息をする。クロウがスイッチを押してエンジンを掛け、ギアを入れて滑るように車を発進させた。
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