毒蛇は夜に這う
車田 豪
プロローグ
スコープを覗く。遠くの景色がグッと近づいて見えた。上下左右に交差する線の交わる点のすぐ側で、中年男がハンカチで顔を拭いている。依頼書にクリップ留めされていた写真と同じ男だ。
柏崎という名前の男だった。この街の市長だが、『結社』が行った身元調査によれば、人身売買を財源としている犯罪組織との繋がりが確認されている。
貧困国で仕入れた十代前後の少年少女をコンテナに詰め込み、日本を経由して西洋諸国へ売り払う輸送ルートに一枚噛んでいるのがこの柏崎だった。
「目標との距離は?」
「八百と少し。スコープはその辺りで調整してある」
「風は?」
「ほとんど無風だ。修正は不要」
相棒のクロウが答えた。ヴァイパーは息を吐き、狙撃に全神経を集中させる。トリガーガードに掛けていた指を中に入れ、引き金にゆるく振れる。途端、彼女の世界から音が消えた。
風のささやき、鳥のさえずりがテレビの消音ボタンを押した時のようにスッと静かになる。この時、彼女がスコープ越しに標的を覗く表情はカエルを睨む蛇そのものになるらしいが、彼女自身は確かめた事が無かった。
正直、興味も無い。
引き金に掛けた指を静かに引く。弾薬が薬室で撃発され、弾丸が発射炎と共に銃口から飛翔する。銃声が耳を
「ヘッドショット。目標沈黙」
クロウが淡々と言った。スコープ越しに、惨憺たる状況が確認できた。脳髄が吹き飛ばされ、前後に開いた柏崎の頭部は辛うじて皮一枚で繋がっている状態だ。
クリオネ、とヴァイパーは思った。彼らが餌を捕食する際のバッカルコーンという状態にそっくりだ。
柏崎のすぐ前を歩いていた女性が、人体が倒れ込む物音を聞いて振り返り、甲高い悲鳴を上げる。声こそこちらに聞こえて来ないものの、恐怖に歪む表情と怯え震える手それを物語っていた。
貴方は殺さない、今はまだ。
「さて、ズラかろう」
クロウが言い、彼は手に持った双眼鏡を斜め掛けしたボディバックの中へ入れた。自身の右隣に置いてあったサブマシンガンを手に取り、左腰、クロスドローの位置に取り付けたホルスターに引っ掛ける。
Vz61、スコーピオン。彼の愛銃だ。右の腰、後ろ手に回した位置に八発装填のリボルバーを差しているのも知っているが、彼がそれを抜いているのを、ヴァイパーは二度ほどしか見たことが無かった。
クロウは立ち上がって、ボディバックの位置を直す。
ヴァイパーが息を吸い、世界に音が戻って来た。狙撃に使った集合住宅の下を、車が何台か行き交った。排気音とタイヤがアスファルトを転がる音。そういえば世界はこんなにもうるさかったと、彼女は再確認する。
伏せ撃ちの状態から立ち上がって、柏崎の生命を断ち切ったM110スナイパーライフルを左隣に寝かせておいたライフルバッグに戻した。それを背負って、ヴァイパーが足元に視線を巡らすと、金色に光る物体が目に入る。
真鍮製の薬莢だ。彼女はそれを拾い上げ、黒いパンツのポケットの中へ入れた。冬ど真ん中のこの季節では、少しの間で薬莢が冷める。
クロウが屋上を下る非常階段の方へ向かう。ヴァイパーは彼を追う。ふと後ろを振り返ると、住み慣れた町が見えた。彼女がついさっき弾丸を放り込んだ町だ。
貴方は殺さない、今日はまだ。
もう一度、彼女は胸の内で呟いてみる。
貴方が悪人じゃ無い限り、だけどね。
「何してる?」
階段を先に下っていたクロウが、階下から声を掛けた。ヴァイパーは返事をせず、クロウを追って静かに階段を下って行く。
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