Pineapple Blocks in the Borough of Brooklyn(限定公開)

えんぴつ

Pineapple Blocks in the Borough of Brooklyn(限定公開)

※完成版から一部を抜粋したものです

■1

「あたし冷めたコーヒーの方が好きなの」

彼女は笑ってそういった。

冷たいコーヒーを僕に出してくる。笑顔で。彼女は少し変わっている。

「あたしってご飯も味噌汁もパスタだって冷えてる方が好きなんだもん」

「変わってるね、時子は。なんでそんなに冷めてるものが好きなんだ」

「だって全てのものって最初は冷たいんだよ。宇宙も。恋も。いくら熱くなっても最後は冷たくなっちゃうんだ。じゃあ最初から冷たいものを好きになったほうがいいじゃん。てかその方が好き。冷たいって触れやすいし、腐りにくいし、その温度こそ本物だと思うな。熱さなんて一時的なものじゃん。誰かが言ってたよ「恋は熱病だ」みたいな事。その刹那の切なさに価値を見出す人もいるけど、私は好きなものはずっと好きでいたいんだ。私はコーヒーがずっと好きだから、冷たいほうが好き。」

「うーん。ごめん。やっぱ僕はコーヒーは熱くないと。温め直していいかな?それとそれは、恋は熱病のようなものである。 それは意思とは関係なく生まれ、 そして滅びる。っていうフランスの作家スタンダールの言葉だね」

「うん。いいよ。好きにして。冷めたものはすぐまた温かくなるから、なんかいいよね。好き。昔にどうしてあなたは一度冷めたものを温め直すのよー!って怒ってる女の人の詩を読んだことあるけど、私は温めなおしても良いんじゃないかなぁって思うの。気に入らなかったらいつかまた冷めるよ。それがコーヒーだもん。それがコーヒーのいいところ。でもミルクは入れすぎないほうがいいかも。」

彼女は比喩や言葉遊び、関連付けが好きなのだ。僕が彼女に偶然にも愛されたのも、なにかの理由があるのだろうか。僕は彼女に聞いてみる。

「あなたの好きなところ?別にないかな。それがあなたを好きな理由かなぁ。うん。でもミルクを余らせて腐らせる所は嫌いかな!」

僕は今までの人生で一度もミルクを余らせたことも腐らせたこともない。彼女の言葉も生き方もそれはとても詩的で抽象的で、難しい。そんな彼女が僕は好きなのだ。そうだ。僕はミルクを腐らせないように生きるんだ。僕は透明なシロップをコーヒーに入れる。きっとそうだ。そうしよう。そうするんだ。


「鉄は熱いうち打てって言うけど、そんなことするから後から冷えちゃって、後悔するのよ。何事も最初が大事とか好機を逃すなって言うけど、本当に大事なものってそんな刹那的なものなのかしら。特に恋は。熱いうちにうっちゃだめよ。あなた、中絶は賛成派?それとも反対?私は賛成よ。私は何事も長期的に考えるの。望まれない命ほど悲しくて寂しいものはないの。私って残酷?いえ、私は熱いうちにうたせないわ。だって人が好きだから。でもこの世の大半は望まれない命って気がするの」

彼女はそう言って冷たいコーヒーを飲み干す。

僕のコーヒーが冷めて、酸っぱい鉄の味がする。彼女は正しい事を言っている気がする。

そんな気がしている。

でも大半が望まれない命っていうのは絶対に間違ってると思う。絶対に。注意深く内部を見るんだ。思慮深くに。そう考えると本当に望まれない命はとても貴重なんじゃないかと思う。すべての命がいずれ冷えた灰になるなら、それこそ命の熱に、愛に、どれほどの差があるんだ。僕は珍しく時子に反論する。「ネガティブに考えすぎないでよ、時子。いくら冷たいものが好きでも、世界まで冷めた目で見たらダメなんだよ。きっと。僕は時子の体温が好きだ。だから熱いことって悪くないよ」僕はそう言って冷めたコーヒーを飲み干す。コーヒーは酸っぱい。うん。熱いものはいい。僕はそう思う。「熱いっていいね。」

「あなたって変わってる。」彼女はそういって笑った。

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*****


■2

<細部は省略する>が、村上春樹の『騎士団長殺し』の文頭には、"顔のない男"に肖像画を頼まれて困る画家の話がある。この部分を始めて読んだ時、「別に顔がなくても肖像画は描けるだろ」と思った。人の想像力というものはすごくて、描けないものはまったくないし、なんなら無いものまで描いてしまう。例えば愛をハートマークという記号にしたり、また様々な形で形のない「愛」を描いてしまう。だからなのだが、街を歩けば嘘でまみれている。まぁそれはある意味幸せなことなのだが…

ところで、話は変わるんだけれど、私の嫌いなものはナルシスト(性別問わず)と、セックス。好きなものは道徳的な女性と猫ちゃん。なんでだろうと30秒ほど考えてみる。多分嫌いなものには性の匂いがする。後者は反対だ。だからだね、そう私は思った。


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<細部は省略する>が、私は5才の時に「なまえどろぼうホッツェンプロッツ」という泥棒に名前を奪われた。名前がないというと安部公房の『壁』を思い出させるが、まあいろいろ困ることはあったがなんとか生活出来ている。名前が無い場合の弊害とかは『壁』を読んでもらうとして、私が気になるのはなんで、私の名前を盗んだのかって事。私の(旧)名前は「しなの」で黄色の林檎のシナノゴールドから取られた。ママにはこんな名前にするから泥棒に盗まれたんだよ!美味しそうだから!って怒った。盗まれた当時の話だ。でも不思議というか当たり前というか、自分の名前みたいな大切なものでも時間が経てばその盗まれた怒りや悲しみもなくなるものみたいで、もうどうでもいい。名前なんていらないよね。うん。動物は名前とかないもん。

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2011年といえば日本では東日本大震災だろう。あんな悲惨な出来事でも(少なくとも個人的には)綺麗さっぱり忘れ去っている。うん。そんなことよりも私には大事な事がある。10年という歳月は短いようで長く、すっかりいろいろなモノが様変わりする。<細部は省略する>が、私は2021年に生まれ変わったのだ。いや、元通りになったと言うのかもしれない。私は一旦バラバラになって、10年以上かけてもとに戻った。私は新しい人生を歩みだすのだ。こんな幸せは他人にはそう味わえない。幸せ。もう一度生まれる幸せ。壊れた者の特権。

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<細部は省略する>という行為はとても大切だ。現代人は細部にこだわり過ぎている。それが社会の病理だと思う。みんな細部なんて捨てちゃいなよ。面倒くさいだけだよ。細部を削る事で素晴らしい抽象性と明確な結論が手に入る。一石二鳥じゃない。すばらしいわ。

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私(旧しなの)は、現在仕事を辞めて2ヶ月ちょっとでブラブラってしててまぁ失業手当がだいぶ長い間でるからその間は職探しというよりも自分探しっていうのかな、するつもりだ。私はずっと精神を病んでいて(仕事のせい)、この一年ぐらいほとんど外出しなかったのだけれど、久しぶりに外に出る。寒い。私は先日の親戚の子の結婚式に出席した時の話の流れで、父方のおじいちゃんおばあちゃんの家に行く。父に車で連れられて母と一緒に。やたらと雲が綺麗に見える。うんうんいいじゃん外。でも寒っ。私もだいぶメンタル回復してきたなぁって思う。"父方のおじいちゃんおばあちゃんの家"って短く言うとなんて言うんだろう。わからないので、私は"父の実家"呼ぶ。父の実家は同じ県内ではあるのだけどかなり遠いし、おまけに途中はほとんど山地なので時間がかかる。高速道路を通って山の間を進む。なーんか子供の頃を思い出すなぁ。私は少し頭痛がしてきたのでアスピリンを飲む。私も詳しいことは分からないけど、なんだろう、この深緑エネルギーは。マイナスイオン?違うよね。とにかく気持ちいい。子供の頃、山を見ると目にいいよーって母親に言われてずっと見てたな。今では目はとても悪いけど。私は言う。「ママー、この辺って私が子供の頃はこんな道なかったよね?なんか昔より開拓されてない?この辺。昔はもっと森!山!って感じでもっと時間もかかったと思うんだけどなぁ」「うん。あんたが子供の頃はパパの実家に行くだけでも一苦労だったのよ。今はだいぶ道路も整備されて昔の半分ぐらいの時間で行けるようになったんじゃない?」「へーぇ。どうりで体感時間短いと思った。もう少しで多分一旦街に降りるよね。なんか少しがっかりだなー子供の頃はおじいちゃんの家に行く時は一大行事で大冒険って感じだったのに今じゃちょっと長いぐらいだねー」「まぁ1時間から2時間あれば着くからねえ」うーむ。子供の頃の4時間と大人の2時間じゃ天と地の差がある。やっぱがっかり感は否めないなぁ。子供の頃の美しい思い出は今じゃ開拓されて台無し...ってとまでは言わないけれども。そうこう話しているうちに美しい景色とアスピリンが効いてきて頭痛は泣くなる。アスピリンを飲むと、毎回トム・ジョーンズの短編小説を思い出す。<細部は省略する>我々家族は、途中にあるレストランと合体したスーパーに着く。

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私は朝ごはんを食べていなかったし、なんなら昨日の晩ごはんも適当に済ませていてとにかくお腹が空いていたので、レストランで黒酢の酢豚を頼む。よだれ鶏の冷奴も付いている。おいしい。少し休憩がてらスーパーを見て回ろうという事になり、私は単独行動で、隣の家具屋さんに行く。暫く見て回っていると大きな声が後ろの方で鳴り響く。「知的障がい者がどれだけ物事を理解できるか。物事を伝えられるか。考えて見てよ。世の中にはどうしても理解できない事はあるし、理解できても伝えようのない事だって沢山あるの。それは知的障害を持たない人だって同じ」「障がい者を侮辱しないで、りん」「大江健三郎だって障がい者を侮辱しているという見方も出来る。そうでしょう?」「誰」「ママ、教養ないよ。残念。もういい。」なんかこのりんとかいう高校生ぐらいの少女がムカついたので、ここで私が会話に介入する。「教養至上主義は良くないね。視野が狭くなる。"フランツ・カフカは坂道を愛した"が教養になりえても"私が雨の日を愛した"は教養になるかな?これらの違いって何だろう。根本的な違いは内容に見えるけれど」「あんたが有名かそうじゃないか。カフカは才能があって文学史に名を残した偉人よ。それに比べて…街歩く人はみんな同じ顔、同じ声、同じ考えに見えるの。みんな金太郎飴に見える。個性がないわ。ところであなたは誰?」「それはあなたの観察不足よ 人のせいにしない。自分の感性の問題なの。私はしなの。通りすがりよ。あなた声が大きくて目立ってるわよ。」「あなたと会話してると、あなたって馬鹿なんだなぁって思う。頭の出来はあまり良くないね」「まぁね、良くは無いにしても悪くはない自負はあるけど。一応大学も出てるし。でもまぁ馬鹿だね。」「頭が良くない人を馬鹿って言うの。良いか悪いか。中間はない。あなたはきっと馬鹿だよ。」

「例え頭が悪くても、頭のいい人の考えを盗めばいいの。手っ取り早くて、効率的。間違いもない。じゃあね」大江健三郎ね。彼女の思考の背景が分からないけど、普通に考えて大江健三郎が障がい者を侮辱していると考えるだろうか。普通に逆だと思うけれど。私は太宰治も夏目漱石も読まない。戦後の暫くした後の現代文学の信望者だから。だから新しいことをしない文学に価値を感じない...私。だから最近の小説は読まない。同じことの繰り返し。型ハマり。読む気しない。どうしたらいいんだろ。私にはいつから芥川賞があんなに退屈なブランドになったかは分かりかねる。近代から現代の日本文学史には詳しくないからだ。とはいえここ30年の芥川賞というブランドが付いた小説は読む価値が無いように思える。ハッキリ言うとカスである。クラスの優等生の様に退屈な作品群。知らんけど。読んでないから笑。いや適当笑。うーん、とはいえクラスの弾かれ者が自慰をするための様な馬鹿げたラノベも読む気は無いけれど...アニメとか、オタク向け、二次元コンテンツは性的すぎて気持ち悪い。芥川賞の論評も大概滅茶苦茶だけど、アニメオタクのアニメ評論はさらに滅茶苦茶。というか小説というものが「物語」に固執し続ける限り限界がある様に思える。最早物語は語られ尽くしたのだ。とっくの昔に。他人の物語なんざ自分の人生に全く関係がない。そろそろ自分の人生の役に立つ小説を書くべきなんじゃないか。優れた作家はいつもそうしてきただろう。忘れたのか?私にはカフカやナボコフの良さは全く分からないが、村上春樹やピンチョンが真の天才であるということは手を取る様にわかる。そして真の天才の中の天才に大江健三郎が君臨するのだ。大江健三郎は神である。リジョイス!!リジョイスを知らない者は私にとって馬鹿である。てか村上春樹がビールで大江健三郎がウイスキーなら私は何?チューハイ?ストロングゼロ?ああもう、あのコのせいで変な考えが頭を巡ってしょうがないし、イライラする。なんなのもう。思い出した。先日、本屋に並んでいる本を見たのだが、その日に直前に見た道路一面にぶち撒かれた犬の糞らしき汚物を見た時と同じような感じがしたのだ。つまり文字通り本屋は糞と同じ印象を放つモノを売っておるという訳で、(ある意味糞そのものかもしれない)私としては、「不快だ」とか「恥を知れ」であるとか「流石はゴミ売屋だな、その大胆さ見直したぞ!」とか言ってやりたい気分なのだが、ペラっとめくったとある小説には、エントリーシートだの就活だの"私社会に求められてないのかも憂鬱だぴょんっきゅぴん!"みたいな内容で、「所詮これが世間一般のレベルか。私はそうとうに存在の格が高いな。オツムの出来がお前らとは違う。」とこれは相当に勝手に自惚れていい気分になったのでよしとする。うむむ。名前は上げないが私は田舎ファンタジーポルノとか、なんちゃってワカモノゲンダイ純文学とか、(ここまで言ったらバレるか)、タイトルからして嘘臭くてムカつくクソ小説とかが大嫌いなのであってこういった物が評価されているのは全くもって許し難い事なのだ。あっあ・・・くっ、退屈な文章しか書けない奴ってのは見てて欠伸が出るのだ。そんな奴が評価されると退屈が全体に広がるのであってね。ダメですよ。言葉は自由に使いこなさなきゃです。ルールに縛られる/厳守する。そんな奴は才能がないのであって、誰が何と言おうとカスです。本屋を見るといかに人というものは心を揺れ動かす/揺れ動かされるモノが好きか/評価するかというものかというのわかるが、私は本屋に並んで入る本を見ると/読むと本棚に放火したくなる衝動に駆られるのだ。自分のオリジナリティを追い求める人は例え馬鹿でも共感できるし(謙遜であれば)応援したい。/例えバカでも。←私がって意味ね

でも著作権に拘るっていうやつはただのカスでしょうが。金ってのは確かに人生を大抵の場合豊かにするけども、そんなものに対する執着を捨てるような非人間的な動物、はぐれものに私は真に共感するのであって、まぁ私にはそんな真似できないから共感するのだけれども、まぁ少なくともそういう奴になりたいとかそういう奴の真似しないのは屑です。立派で大きな詩を描くのは容易いが私は書かない。村上春樹はデビュー作でこう書いた。。。。。。。。。。。。。(引用)

私にはその程度の詩しか書く権利がないように思えてならない。

あああああああああああああああ!!!

私は思弁を垂れ流すだけのクソで洗濯物も料理も出来ない。糞だ。駄目だ。ダメだ。だめ。こんなんじゃダメだ。かなしい。でもがんばる。細かい事よりも体を動かす!そうだ。頭をこねくり回して細部にこだわり過ぎている。もっと軽く生きよう。遅く生きよう。寝起きにスロウなヒップホップを聴くと、リズムやビートが自分のリズムよりはやく感じられて、心地いい。遅いって心地よいのだ。ゆっくりいこう。

FIN

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Pineapple Blocks in the Borough of Brooklyn(限定公開) えんぴつ @EnpitsuToybox

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