第58話
僕は刃先を向けられて息を呑む。
頬から流れる血。まだ致死量ではない。
だが、次この刃物にあった時は今の出血量とは比べ物にならない量の血が出ることは容易に想像がつく。
あのスピードのサバイバルナイフが首や体を直撃した時には人生ゲームオーバーだ。
でも、まだ死ぬわけにはいかない。
大きく深呼吸して頬の血を舐めて冷静になる。
怒りや恐怖。そんな感情が無くなったわけでない。
むしろ血を更に感じて増した。
なのに、どうしてだろうか。
こんなにも死ぬ気がしないのは。
心臓の音量注意レベルの爆音が何故か心強い。
お前は生きてると教えてくれているからだろうか。
さっきより安心感がある。
「殺したいからは理由じゃないですよ、凪姉」
「そうかもねぇ。でもさぁ、殺すのに理由なんているかなぁ?」
「本当にそう思ってますか?」
「何が言いたいのぉ?」
「心の中では、もし理由を言って殺せなかった時のことを……ビビってる――」
――ビュンッ!
「動揺してるんですか? 手元がブレブレですよ」
さっきとは違い大きくサバイバルナイフは外れた。
「理由って、TC関係ですよね?」
「だったらぁ何かなぁ?」
図星だったのかあからさまに態度が変わる。
手にはサバイバルナイフが追加されたものの、力が入った手を見ると当たる気はしない。
僕の心臓が僕に勇気がくれている一方、彼女の心臓は彼女を苦しめているのだろう。
心拍の速さは同じでも気持ちの持ちよう次第で仲間にも敵にもなる。
心臓とは人間の核として素晴らしい仕事をしているとこんな時なのに実感させられる。
いや、こんな時だからこそ実感できたのかもな。
「凪姉は十南の絶対的な存在だと思ってましたよ」
「んなぁわけぇ、冗談もほどほどにしてくれないかなぁ」
「冗談? 僕は本気でそう思ってましたし、恐らく十南も一番凪姉を信頼していると思いますけどね」
「あぁ~信頼はされてるよぉ。だってぇ、信頼をされるべくして信頼を得ているからねぇ~」
「その言い方だと信頼を得ることが作戦の一部だったように聞こえるのですが」
「そらそうだよぉ。わたしは最初からそう言ったんだからぁ~」
凪姉は可笑しそうに笑う。
「と言ってもぉ、TC出身者だから最初から警戒もされなかったんだけどぉ」
そう付け足してサバイバルナイフの感触を確かめるように華麗に回し出す。
段々と手の感覚が戻って来たのか口元を緩めてこちらに嘲笑に近い表情を向けた。
「でもぉ、月ちゃんもバカだよねぇ。TC出身者を信用しちゃってさぁ。わたしはぁTC出身者と一緒に育って来たから知ってるけどぉ、十南家を憎んでいる奴は多いよぉ。わたしも含めてねぇ~」
「話は聞いたから憎む理由も分からなくもないですが、それでもやっていいこととやってはいけないことぐらいあると思いますよ」
「部外者が知った口きかないでくれるかなぁ。わたしたちTC出身者はぁ、死ぬまで月ちゃんの護衛で駒でしかないのぉ。この世に生を持つ前からそれは決定事項でぇ、今までそう育てられてきたぁ。学校にも通えずに毎日朝から晩まで狂ったように勉強や体力作り、武術、礼儀作法、経営のことまでぇ、ロボットのように叩き込まれてきたぁ」
当時のことを思い出しているのか顔付きが変わっていく。
眉間にしわを寄せ、血管は浮かび上がり、それは鬼の形相。
「空ちゃんには分からないでしょうねぇ。食事も服装も入浴も生活を全て管理される日々の辛さはぁ。やっと大学に行けて解放されたと思えばぁ、月ちゃんが通う学校の特徴や危険の詮索ぅ。一年後からは月ちゃんの監視ぃ。まともな大学生活なんか存在しなかったぁ」
出会ってからずっと凪姉は楽しそうに見えていた。
でも、それは見えていただけ。
いや、正確には見せられていただけだったんだ。
凪姉は常に十南を中心に動いている。
そのためにキャラも作り、人間関係も選んできたに違いない。
服装はキャラを作るための一部で食事は人間関係を築く一部なんだろう。
自由に見えて自由ではない生活。
その苦痛が今の凪姉の声音、表情から伝わってくる。
「空ちゃんはいいねぇ。好きな人がいて可愛い子に囲まれてぇ、自由に大学生活を送ってさぞかし楽しいでしょ?」
「僕の現状を知っていてその発言は悪趣味ですね。凪姉ほどではないですが、僕も辛い日々を送っていますよ」
「恋愛に現を抜かせている時点で幸せだと思うけどねぇ」
「……」
今の言葉に反論など出来ない。
だって、その通りなのだから。
凪姉からしたら、僕は恋愛出来るほど自由に生きている存在。
自分とは比べ物にならないほど幸せに映るのだろう。
アフリカの子供が今日の食事があるか分からないの対して、日本のような先進国は食事を食べることが当たり前で更に何を食べるか選べることが出来る。
それぐらいの差が僕と凪姉の生活にはあるのだ。
「これだけ聞けば分かったでしょ? わたしが月ちゃんを狙う理由がぁ」
「十南家への復讐。もっと詳しく言えば十南月の父親への復讐ですね」
「そういうことぉ。でぇ、一番の復讐になるのが……月ちゃんの死ってことだよぉ」
僕を殺すのも十南を殺す時、邪魔にならないようにだろう。
短い期間で関係を深め、凪姉より信用を得てしまった僕は邪魔な存在に違いないからな。
厄介なことに首を突っ込んだと改めて思うがもう後戻りは出来ない。
クリスマスのあの日から僕の運命は狂い始めているのだから。
「それが答えなんですね。ですが、一つ不可解な点があります」
「なにぃ?」
「何故、凪姉の方が年上なのに十南家の娘じゃないんですか?」
そう、これは旅行中に十南から話を聞かされた時からずっと思っていたこと。
十南より後に産まれたなら護衛の人生を送らされるのも分かる。
しかし、十南より先に産まれているのに護衛の人生を送っているのはどう考えてもおかしな点だ。
「簡単な話だよぉ。あの男はわたしの母を身籠らしておいてぇ、月ちゃんの母親を結婚相手に選んだからよぉ」
「何でそんなことをしたんですか?」
「月ちゃんの母親の方が若くて美しかったからぁ。それだけぇ。しょうもない理由すぎて笑えるでしょ?」
そう聞いておきながらも凪姉の瞳は一ミリたりとも笑ってはいない。
むしろ「笑える」など言えばサバイバルナイフを投げそうぐらい鋭い瞳をしている。
それにしても、十南の父は好き放題しすぎだ。
金と名誉を手に入れた結果、大きく道を間違えてしまったのだろう。
金さえあればどうにかなると思っているに違いない。
責任感のないクソみたいな人間だと再認識されられた。
「笑えませんが十南の父はクソ野郎ですね」
「よく分かってるじゃんかぁ。わたし側に来るぅ?」
「それとこれとは話が別です」
「そっかぁ。ざぁ~んねぇん!」
思ってもないことをよくもペラペラと言えるもんだ。
仲間にする気なんかないくせに。
そのつもりが少しでもあるならサバイバルナイフを投げたりはしない。
最初から殺す気しかないのは明白だ。
「空ちゃんとはもっと仲良くしたかったよぉ」
「冗談もほどほどにしてください」
「これは本当ぅ。会う形が違えばぁ、もっと一緒の時間を過ごせたのにねぇ。運命とは残酷だよぉ」
「残酷なのは凪姉をそうさせてしまった世の中ですよ」
「それはそうかも。わたしも手を汚すのは好きじゃないんだけどねぇ」
最終確認を行うようにサバイバルナイフを握り直す。
大きな胸を弾ませるようにジャンプを数回。
深呼吸をして瞼を持ち上げて殺意の籠った瞳をこちらに向ける。
「仕方ないんだよ。だからぁ、空ちゃんが二人目の犠牲者になってねぇ!」
もう予備のサバイバルナイフがないのか一直線にこちらに走ってくる。
距離はあるが僕には武器はない。
とりあえずリュックを前に持ち逃げずに口を開く。
「その言い方だと一人目がいるみたいですね」
「そうだよぉ、一人目は――」
そう口走りながらサバイバルナイフを振り上げる凪姉。
僕は数歩飛び跳ねるように下がり、リュックから温かいお茶をばら撒く。
その瞬間、目の前は湯気に囲まれた。
この隙に僕は凪姉の後ろに回り込む。背中を確認。後は仕留めるだけだ。
「チッ、小癪な真似をしやがってぇ! どこだぁ……どこだぁ!」
「終わりで――」
「ばーかぁ! 演技だよぉ!」
完全に背後を取っていたのにノールックで回し蹴りをされ、僕は後方へ大きく飛ぶ。
いつの間にか地面に尻をついており、目の前には獲物を捕まえたと言わんばかりの凪姉が堂々とした足取りでこちらに寄ってくる。
「さっき言いそびれたけどぉ、一人目の犠牲者は……月ちゃんの母親だよぉ」
でも、十南の母親は体が弱かったと聞いている。
十南が言ってた感じでは殺されたより病死のように思えた。
もしかして十南家の中では病死になっているだけで本当は殺人だったということなのか。
いや、待て。
十南は母親は自分を産んですぐに死んだと言っていた。
当時、凪姉は一歳にもなってない歳。
冷静に考えて殺人なんて出来るわけがない。
「一歳にもならなかった時の凪姉にそんなことは――」
「本当に一歳の時ならそうかもしれないぃ。けどぉ、四歳の時ならどうだろうかぁ」
「真実は違うと言いたいんですか!?」
「月ちゃんが産まれた瞬間に死んだは間違ってはないかなぁ。子供を産めないぐらい弱りぃ、毎日を生きるのが精一杯の女はぁ、十南家では死んだも同然だからねぇ」
「つまり、十南の母親は生きてはいたと。何で十南にその真実を伝えなかったんですか?」
「これから十南家を背負っていく月ちゃんにとってぇ、病人の母親の存在は成長の邪魔でしかないからだよぉ。会えば絶対に勉強もせずに病人である母親の傍を離れない日々が続くぅ。それをあの男は許さなかったのさぁ」
これが本当なら狂い過ぎている。
僕が知る世界の感覚が全くと言っていいほど通用しない。
役に立たないものは見捨て、役に立つ可能性のあるものを育てる。
十南の父親はメリットでしか物事を考えていない。
だからこそ、愛というものは存在しない。
妻だろうと関係ない。
十南家の未来である十南月の邪魔になるなら存在すらないものにする。
最初から十南家に両親と子供という形を作らないという選択をする。
自分の家族より自分の会社を最優先に選ぶ。
自分の未来のためなら道徳心など捨てる。
こんなのは人がする行動ではない。
十南の父親は人の皮を被った悪魔だ。
「でもぉ、わたしはそんな今にも死にそうな女の部屋によく訪れてたぁ。今でもその当時のことはよく覚えてるよぉ。しんどいはずなのにぃ、優しく笑顔で話をしてくれたからねぇ」
「じゃあ、何で十南の母親を殺したんだよ!」
良くしてもらっていた人を殺す。
いくら何でも話としておかしい。
そう思いながら返答を待っていると、凪姉は「はぁ……」と大きなため息をつき、綺麗に輝く星空に一度視線を向ける。
すぐにこちらを向き直すがその目尻からは大粒の涙を流していた。
なのに、表情は笑顔。とても苦しそうな笑顔をしている。
「約束なんだよぉ!」
「約束?」
「そうぅ……あの人と最後に交わした約束ぅ。月ちゃんの父親の全てを壊せってねぇ」
「そ、そんなの……嘘だぁ!」
「この顔を言っているように見えるのぉ?」
「……」
嘘ならこんな苦しそうな顔はしない。
嘘ならこんな大粒の涙なんか流さない。
噓ならこんな偽物の笑顔を作らない。
「月ちゃんの母親を殺したのもぉ、それを達成するための第一歩ぉ。月ちゃんの母親に導かれぇ、言われるままに生きるための機械を外したぁ」
「……本人に殺させられたってことですか」
それには答えずにニコリを笑う凪姉。
「ってわけでぇ、わたしは約束の邪魔になる空ちゃんを殺すっ!」
一歩、また一歩と抵抗しない僕に近付く凪姉。
サバイバルナイフを持つ手は震えているが意志はブレないのか止まる素振りはない。
「悪く思わないでねぇ。運が悪かったぁ。そう思ってわたしに殺されてぇ」
大きくサバイバルナイフが振り上げられ、僕の脳天目掛けて振り下ろされる。
「さようならぁ、空ちゃん」
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