第48話

 お風呂での一件を終えた後、何もなかったように最後の朝食を楽しんだ僕たち。

 最後の最後まで部屋のベッドを味わっていた雫先輩は部屋を出る時は少し寂しそうな表情をしていたが、普段の生活に戻ってしまう前なのだから仕方ない。


 でも、旅行は時々だから楽しいのであって、ずっとこの生活だと飽きてしまうだろう。

 人間とは繰り返すと慣れて特別感を感じなくなる生き物だからな。

 だから、旅行はまた行けばいい。

 温泉サークルがある限りは、いつだって行けるのだから。


「みんな忘れ物ない~?」


 時刻は午前十時前。

 チェックアウト前に雫先輩がみんなに再確認。

 僕を含めた三人は頷くと、雫先輩はフロントスタッフに近付いてチェックアウトを始める。


「チェックアウトお願いします」

「かしこまりました。お部屋の鍵をいただいてもよろしいでしょうか」

「はい」


 フロントスタッフは素早く部屋番号を確認して料金を提示してくる。


「13万2480円になります」

「え、13万!?」


 その額に僕以外の三人は無反応。

 反応した僕を不思議そうに一瞥するなりすぐに視線を戻す。


 あたかも当然の額のように三人は13万を受け入れているが、ホテル代にしても普通に金額としてもかなりの金額である。

 しかし、ここまで無反応だと驚いて額を口にしてしまった僕がバカみたいだ。

 三人とも金銭感覚がおかしいと思いつつも、この状況に恥ずかしくなり三人から少し距離を取る。


「では、カードで」

「そちらの機械にクレジットカードを差し込んで暗証番号の入力をお願いします」


 雫先輩は淡々と暗証番号を入力し、あっという間に決済が完了。

 領収書を貰い、財布にカードと一緒に仕舞う。


 それにしても、クレジットカードとは恐ろしい。

 十万以上の大金をあんな暗証番号を打つだけで払えてしまうのだ。

 僕はまだクレジットカードを持っていないが、持つ時が来たら散財しないように気を付けないとな。


「お客様、最後に一つよろしいでしょうか?」


 支払いも終わり、ホテルを出ようと荷物を手にしようとした瞬間、ホテルスタッフにそう言われて止められる。

 一体、何かと思えば、浴衣の写真が載っている紙を出してきた。


「現在、当ホテルでは浴衣のプレゼントをしております。宿泊中に着られておりました当ホテルの新しい浴衣の夏仕様のものとなっており、まだ先ですが今年の夏祭りなどに非常におすすめです。サイズやデザインなどはどれがよろしいでしょうか?」

「ウチは大丈夫です。みんなはどうです?」


 雫先輩は自分の商品だから要らないのか二つ返事で断る。

 他の二人はというと、凪姉は瞳を輝かせてすぐにデザインとサイズを告げる。

 続くように十南もサイズを言い、デザインに少し悩んでいたが菊の方を選んだ。


「ソラちんはどうする?」

「じゃあ、僕は桜のデザインでサイズはMでお願いします。あ、女性用で」

「え……何で女性用? 女装趣味でもあったの~?」

「違いますよ。幼馴染にクリスマスプレゼント貰ったんですけど、まだ返せてなくて。それでお返しにこの浴衣がいいかなーと」

「なるほどね~。なら、ウチが貰わない代わりにもう一枚ソラちん用も貰おうよ」

「そんなのいいんですか?」

「別にいいですよね?」


 雫先輩がホテルスタッフに聞くと「もちろん。数は変わりませんので構いませんよ」と言われたので、僕は菊のデザインの方を貰うことに。

 すぐに浴衣が用意され、僕たちはサイズとデザインを確認して受け取る。


 夏仕様と言っていただけに、宿泊中に着ていたものと比べても生地が薄い。

 デザインはそのままで、水心にも良く似合いそうである。

 まだまだ夏は先ではあるが、これなら水心も喜んでくれるはずだ。

 いや、喜んでくれると嬉しいな。


「ありがとうございました。またのご利用お待ちしております」


 ホテルスタッフに見送られながら、僕たちはホテルを後にする。


「これからどこ行く~?」

「えーっとねぇ――」


 水心の喜ぶ顔を想像しているとそんな会話が聞こえてくる。

 早く帰って渡したいが、伊良湖旅行はもう少し続くらしい。


          ⚀


 伊良湖旅行終了後の夜。

 凪は月が住んでいるマンションに来ていた。


「木下さん、お客なのだから座っていていいのですよ」

「そういうわけにはいきません。月様にお茶菓子を用意させるなど十南のメイドの子としてあってはならないことですから」

「はぁ……全くあなたは真面目ですね。ですが、今は一人の友人として会話したいのです。いつも通りに接してくださいませ」

「わ、わかったよぉ」


 軽いお茶菓子を用意し、二人は椅子に腰を下ろす。

 お互い物心付いた時から認知はしていたが、関わり出したのはここ数ヶ月。

 温泉サークルに入ったのがきっかけだ。


「わたしたちがこんな二人で会っても大丈夫なのぉ?」

「あまりよくはないですね。テントリーチルドレンに大きな格差が生まれますから」

「分かっているのにぃ、悪い子だねぇ。月ちゃんはぁ」

「悪い子、そうかもしれません」


 その言葉に思わず微笑む月に、その表情に驚く凪。

 表情豊かではないことは、テントリーチルドレン界隈では有名な上、実際に会ってみてもそうだったのだから当然である。


「それでわたしと何が話したいのぉ?」

「色々ありますが、今回の旅行で戻れない場所まで来たということは伝えておこうかと思いまして」

「空ちゃんの説得に成功したってことねぇ」

「はい。私たちの目的を達成するための大きな一歩であり、引き返せない一歩です」


 二人には目的がある。

 月には男性になるという目的。

 そして凪には……。


 二人はそのために出会って数日で手を組み、テントリー関係者に見つからないように動いてきた。

 それも早いことに来るところまで来たという感じだ。


「わたしは正直心配だよぉ。本当に空ちゃんで良かったのぉ?」

「北宮さんにお願いすることは、木下さんも賛成したではありませんか」

「それは月ちゃんの押しが強かったからぁ……」

「そうでしたか」

「でもぉ、何で空ちゃんにお願いしたか気になるなぁ」


 その言葉に月はすぐには反応せずに、一度紅茶を口にする。

 怖いほどの沈黙に凪は何かヤバいことを言ったのではないかと、心の中で慌てていたが読めない月の表情に何も言葉が出ない。

 そろそろ鼓動で凪の頭がおかしくなりかけた頃、やっと月が重々しい口を開いた。


「北宮空――彼の父親を殺したのは、私の父なのですよ」

「……初耳だねぇ」

「そらそうでしょうね。今のは冗談なのですから」


 笑えない冗談に固まる凪。

 それを一瞥して月は静かにお菓子を口に運ぶ。


「今のが理由なら納得していたという反応でしたね」

「まぁ父親を殺した復讐心を利用すると考えればぁ、納得出来るなと思ったのは確かだよぉ。だけどぉ、違うんでしょ~?」

「はい。北宮さんに決めた理由は特にありませんから」

「特にないぃ……本気で言っているのぉ?」

「本気ですよ。北宮さんはただの消耗品と変わりません。今回の件も失敗すればそれまでです。失敗すれば死ぬだけですよ」

「何とも冷たいねぇ」


 真面目な表情と相まって、凪はその言葉に鳥肌が立つ。

 冗談の後だから尚更、言葉の深みが際立って恐怖を覚えた。

 自分も消耗品として扱わされてもおかしくないと思ったが、口には出さずに苦笑いを浮かべる。


「結局、何かを得るために何かを諦めるしかないのですよ」

「とってもいい言葉なのにぃ、今の月ちゃんが言うとおっかないなぁ」

「そう言いながらも笑っているではありませんか」

「それはぁ、まぁ……うん」


 怖すぎて笑って誤魔化しているとは言えず、凪は適当に言葉を濁す。

 そんなことだとは知らない月はその反応に気にすることなく話を続けた。


「とにかく北宮さんが成功させればいいだけの話です。伊東さんと違ってメンタル面には期待出来ますし、適応能力も人並み以上だと思っているので」

「消耗品と言いつつもぉ、能力自体は評価してるのねぇ」

「無能を使うほど私も焦っていませんから。それに……」


 月は何か言いかけた口を止める。

 不思議そうな瞳で凪は言葉を待つが、月からその続きが出ることはなかった。


「今夜は泊まっていきますか?」

「喜んでぇ~!」


 もちろん凪に拒否権などない。

 誘われたら、頼まれたら、受け入れるのがテントリーチルドレンの定め。

 テントリーがあってこそのテントリーチルドレン。

 だから、嫌だとしても笑顔で了承する。


「あなたは嘘が下手ですね」

「えっ……」

「私と一緒にいては心が休まらないでしょう。今日はもう帰りなさい」

「……」


 凪の顔色を悪くなったことを見て、月は「あまり私を怖がらないでほしいのだけど」と言いながらも席を立つ。

 少し遅れて慌てるように凪も立ち上がり、自分の荷物を手に持った。


「私はあなたといる時間が案外好きですよ。あなたはどうなのですか?」

「……」

「そうですか」


 何も言わず視線を泳がせる凪を見て、月はその答えを理解した。

 察しられたことに凪は焦った表情を一瞬見せたが、月の複雑な表情を目の当たりにして喉まで来ていた言い訳は出ることは無く戻る。


「では、ゆっくり友達になれれば嬉しいなと思っています」

「はい。気を遣わせてしまい申し訳ございません。では、また学校で」


 扉を勢い良く開け、深々と頭を下げた凪は風のように去っていく。

 その後ろ姿に月は、旅行で縮まったと思っていた距離感が、また遠のいた気がして小さくため息をつくのであった。

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