第12話
僕の耳は壊れしまったらしい。幻聴が聞こえるようになるとは予想外だ。
一旦、落ち着くために残りのオレンジジュースを一気に飲み干し、ゆっくりとグラスを置く。
大きく深呼吸をして再度確認を行う。
「伊東拓海……伊東拓海って言ってないよな?」
「いいえ。私は伊東拓海さんと言いました」
――げっ、幻聴じゃない⁉
必死に心の声を抑え、頭の中で落ち着け落ち着けと唱える。色々と頭に過ることはあるが、冷静さを失えば話はややこしくなるに違いない。
それにまだ僕の知る伊東拓海と決まったわけじゃないのだ。
この大学には多くの生徒が在学している。同姓同名の一人や二人いてもおかしくはないだろう。しかも、それほど珍しい名前でもない。
たまたま一緒だったってことも十分にあり得る。
「一応聞くが学部は?」
「伊東さんは工学部情報科学科1年です。あなたと同じですよ」
思わず頭を抱え、天を仰ぐ。
ケーキの中にアニサキスのような寄生虫を入れられていたんじゃないかと疑いたくなるほど胃が痛くなってきた。さっきの飲んだオレンジジュースも胃まで行かずに戻ってきそうだ。とても気分が悪い。
まさか拓海が……。
名前を聞いて何かの間違いであってくれと願っていたが、決定的な要素を聞かされたからには認めざるを得ない。
以前なら、水心を奪い取れるチャンス到来と喜んでいただろうが、今はそういう気持ちにはなれなかった。水心の幸せを願い始めていた上に、別に拓海を嫌っていたわけではなかったから尚更だ。
「あなたも良くご存じでしょう。談笑していたぐらいですからね」
「それは半年前のことだろ」
「もうそんなに前ですか」
「ああ」
談笑していたのは、まだ三人が友達関係だった時の話。
見間違いじゃなかったにしろ流石に半年前の話を出されても困る。
それに彼女持ちの拓海が、十南の彼氏だなんて思わない。十南がそれを知っているわけもないので文句は言えないが。
「はぁ、拓海か……」
重々しいため息を一つ。
拓海の顔を思い浮かべ、両手で顔を覆う。
拓海は悪いやつではなかった。
最初は爽やかイケメンで陽キャなオーラを纏っていたから警戒していたが、会話をしてみたらその印象は一変。とても落ち着いた感じの声で喋りやすく、真面目で誰に対しても優しい。それでいて気が利いてノリも良い。心を許すのに時間はかからなかった。
水心以外の人を本気で友達と思えたのは拓海が始めてで、笑うのが得意ではない僕が談笑していたのがその証拠だ。
もちろん水心を取られて悔しかったけど、拓海の人間性を知っていたからこそ拓海を恨んだことはない。そう、恨んだことはなかった。
――なのに……許せない
「あの拓海が……ふた――」
「たまたまルナちんが友達の彼女だったからって驚きすぎじゃない?」
続く二文字を言わせないように、雫先輩はわざとらしく言葉を遮ってニヒっと笑みを浮かる。明らかに何か知っているといった態度。
今更、何を知っていても驚きはしないが全て分かっていて、このような展開に持っていったなら性格が悪いとしか言いようがない。
「そうですかね。自分では冷静なつもりなんですけど」
「冷静なわりにはかなり顔が歪んでるけど大丈夫そ?」
「ちょっと予想外の名前が出たもので、心以上に顔が反応してるのかもしれないです」
「へー」
現状を楽しんでいるといった様子。やはり全てを理解していると見て間違いない。ニヤニヤした表情と心を乱してくる言葉がその証拠だ。
でも、そんな雫先輩を相手にする気はない。
今、僕が向き合うべき相手は十南。
拓海の二股が発覚した以上、人として伝えないわけにはいかない。
二股の件を口にすれば、拓海が破滅すると同時に別れさせることが可能。悪を成敗しつつ、傷付いた二人を救うこと出来る。ついでに僕の気持ちをもスッキリする。
それが分かっていて言わない選択肢はないだろう。
「十南。今から話すことは本当のことだ。心して聞いてくれ」
「今は伊東さんとあまり一緒にいないことは知っていますよ?」
「そうじゃない。拓海はな――」
「紳士的で文句の付け所のない男だよね~、ソラちん!」
また雫先輩に言葉を阻まれ、首を動かしてしっかりと睨みつける。
「何の真似ですか?」
「ソラちんこそどうしたの~?」
「こっちは真剣な話をしようとしてるので、邪魔しないでもらっていいですか?」
理性を抑えるのも限界。
名前を聞いた時、冷静に振る舞っていたのを褒めて欲しいぐらいである。心を落ち着かせてなければ、十南に畳み掛けるように質問攻めをしていたに違いない。
もしそうなっていた場合、この場が大惨事になっていてもおかしくはなかっただろう。
こうして落ち着いて事情を説明するだけまだマシと言える。
「邪魔なんかしてないよ」
「さっきから言葉を遮っておいてよく言えますね」
「遮ってあげてるんだよ? それぐらい分かってよ~」
何を言っているんだ、この人は。
こんな展開にしておいて、僕に何も言うなと言っているのか。
信用していた人に裏切られ、好きな人を傷付けられ、特別なクリスマスを奪われたというのに、我慢しろと言うのはいくら何でも無理がある。
ナイフを向けられて動かずに刺されるのを待てと言っているのと変わらない。
そもそもこんなことを知らなければ、僕は拓海を破滅させようとも、別れさせようとも思うことはなかった。こんな感情も抱かずに済んだ。
僕に何も言わせなくなかったなら、知るように仕向けなかったら良かっただけの話。何がしたいのか全く分からない。言動が矛盾している。
「分かりませんね」
「最初に言ったけどさ、ルナちんはウチからのクリスマスプレゼントなの。分かる?」
「今なら少しその意味も分かりますよ」
僕に復讐するチャンスを与えてくれたということ。
この十南月というクリスマスプレゼントを使い、それを実行出来る。
「その顔は分かってないね。ウチからのクリスマスプレゼントを大切にしようとしてないもん~」
「何が言いたいんですか?」
「だって、傷付けようよしてるでしょ?」
――傷付ける?
僕が十南を傷付けることはない。
むしろ騙されることを伝えて救おうとしてるぐらいだ。
「ソラちんはさっき味わったはずだよね? 知らないことを知る痛みを」
「あっ……」
その一言は僕を冷静にさせた。ゆっくりと頭に上った血が下がるのが分かる。
知らないことを知る痛み。今さっき身をもって経験したことだ。
だからなのか、僕が今やろうとしている行為が如何に残酷であったか理解するのに時間はかからなかった。
もし口にしていれば、水心も十南も悲しみ、辛い思いをして心に深い傷を負っていたに違いない。最悪の場合、トラウマになって恋愛どころか男を嫌う可能もあっただろう。
「愚かだな……」
これは簡単そうに見えて簡単な問題じゃない。
事実を伝えれば、表向きは救うことになるが裏では傷付けることになるのだ。
拓海を破滅させるためだと言えど、あまりにも代償が大きい。一人ならまだ寄り添えるが、傷付く対象が二人いる以上どちらかを見捨てる選択をするしかなくなる。
十南と出会う前なら、水心に寄り添う選択を迷わす取れたが、親しくなってないとはいえ面と向かって『私が彼氏と幸せになるために、あなたが必要なのです』なんて言われたのだ。それに十南の外見を見てしまうと、どうしても放っておくことは出来そうにない。
結局、僕には我慢する選択肢しかなかったようだ。
「雫先輩はなかなか酷い人ですね」
「えー、気付かせてあげたのに~」
「最初から選択肢は一個しかなかったじゃないですか」
「そんなことないよ~。今は一個ってだけでしょ?」
不思議そうに首を傾ける雫先輩。
「こうやって考える時間が出来たんだから、新しい選択肢は二個、三個って増えて行くよ。つまり、ソラちん次第で選択肢は無限にあるってこと~」
「もしそうだとしても、さっきみたいに間違った選択をするかもしれないですよ?」
「この世に間違った選択なんてないよ。無限にある選択肢の中からソラちんが選んだ選択肢が正しくなるからさ~」
「間違った選択だったから邪魔したんじゃないってことですか?」
「そうそう~。ソラちんがあの選択をしたからウチが邪魔したってだけ」
言っていることは滅茶苦茶だが、理解できないわけではない。
僕が選択すれば、他の人だって選択をする。今回はそれが僕の選択の邪魔になった。それだけのこと。
おかげで考える時間が出来たわけだが、今は無限に選択肢があるなんて到底思えない。考えても考えても、どの道にも壁があってどうすることもできない感じだ。
でも、一つだけ言えることがある。
――僕にとって十南月は必要な存在だということ
それさえ理解していれば、いつか道を生み出すことが出来るだろう。
「あぁ疲れた~」
仕事終わりのOLのように体を気持ち良さそうに伸ばす雫先輩。やり遂げたという達成感を感じられ、若干の油断も見られる。
こちらも肩の力を抜くタイミングだろうが、まだちょっと早い。
「色々あったけど無事に話し終わって良かったよ。ソラちんも温泉サークルに入る気になったと思うし~」
「いえ、温泉サークルに入る気はありませんよ。三人が僕を必要としてくれていることは嬉しく思いますが、僕には三人を必要と思える理由がありませんので」
三人とも全くと言っていいほど驚いた様子はない。それが逆に異様であまり落ち着いてはいられなかった。
まるで、僕が何を言うか知っていたかのような感じ。
「それは無理な話じゃない?」
「なぜですか?」
「だってさ、ソラちんはもうルナちんを必要としてるもん~」
「それは十南だけを必要としているのであって――」
「そうだとしても、いきなり学部の違う二人が関わり出したら周りは怪しむと思うな~」
確かにそれはそう。
十南のルックスのせいで嫌でも目立つ。隠れて会えば問題はないが、それを拓海関係の人物に見られ、誤解を招く情報が拓海の耳に入るは困る。
まだ拓海を破滅させる手段は模索中だが、僕と十南が内密に関わっていると何かしら勘づかれそうだ。
「でも、温泉サークルに入れば変に思われることもない。どういう関係か聞かれても温泉サークルのメンバーと言えば乗り切れるしね~」
「リスクなしで会えるということですか」
目の前にいる雫先輩はニコニコとウザいぐらいの笑みを浮かべている。
いつの間にか僕は温泉サークルに入るように誘導されていたようだ。
互いに必要にする理由が出来た以上、こちらだけが新たに条件を言うことも出来ない。完全にしてやられた。
「はぁ……今日の出来事は全て計画通りってことですか?」
「いいや、計画はしっかり狂ったよ」
「僕にはずっと雫先輩の掌で踊らされてたようにしか見えませんけどね」
「それは計画は再構築できるものだからだよ。つまり、人生もいくらでも再構築が可能ってこと~!」
初めて見せる雫先輩の無邪気な笑み。
そんな表情も出来るのだと純粋に驚いてしまった。
――ピピピッ! ピピピッ!
いきなり雫先輩のスマホのアラームが鳴る。
時刻は午後8時45分。閉門15分前だ。
「おっと時間だ。それでソラちんは温泉サークルに入るの?」
「……ほ、保留でお願いします」
「りょうかーい。もう冬休みだし、明日の午後にここ集合して話そっか」
「あ、明日ですか?」
「何か予定あった?」
「いや、答えが出るかどうかと思いまして」
「それは少し時間あげるよ。明日はこのクリスマスパーティーの片付けだからさ~」
ケラケラと満足そうに笑みを浮かべ、立ち上がって帰り支度を始める。
他の二人も防寒具を手に取り、暖かい恰好に。
僕は特に何も着るものがないので、ぼーっと三人を目で追っていた。
「あ、ソラちん雪降ってるけど大丈夫そ?」
「はい、問題ないです」
「じゃあ、また明日だね。今日は楽しかったよ。バイバーイ!」
雫先輩は赤紫色の液体が入った瓶を片手に部屋を後にする。
それを見て凪姉が「風邪引かないにお風呂で温まるんだよぉ。またねぇ~」と言い、慌てて追いかけて行った。
「ちょっとぉ、ぶどうジュース持って行く必要あったぁ~?」
「ばかっ! ワインを飲む大人の女性の印象が壊れるじゃん!」
最後に廊下からそんな会話が聞こえて来たが、すぐに部屋の中は静まり返った。
あの赤紫色の液体が、ワインじゃなくてぶどうジュースだったとは。そう思って今日のことを振り返ると少し面白い。
「あなたは帰らないのですか?」
「帰るよ。十南こそ何で残ってる?」
「あなたに少し聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
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