第8話

 全く言葉を理解出来ず、頭の中でクエスチョンマークが増殖を始める。

 そのせいか思考は停止。意識はあるが頭は回らなくなった。


「いやいや、は?じゃなくて……なんか固まってるけどソラちん大丈夫そ?」

「はい? はい、気にしないでください」

「なら話し続けるけどさ。今日ソラちんが温泉サークルのメンバーになってくれた――」

「えぇっ!」


 二度目の衝撃で停止していた思考は再起動。

 驚きのあまり両手を机につき、椅子を足で押して勢い良く立ち上がる。

 その姿に雫先輩は身を後ろに逸らし、十南までもが体をビクっと跳ねさせていた。


「え、なになになになにっ! 怖い怖い……ソラちん怖いって」

「こ、怖いのは僕の方ですよ! 温泉サークルのメンバーってなんですか!?」


 立ち上がった勢いのままクエスチョンマークの増殖させた意味の分からないワードを聞き返す。


「あれ? えっと、出会った時に言わなかったっけ?」

「一言も言ってませんよ」

「あちゃ~言い忘れてたみたい~」


 てへっと舌を出して、ドジっ子を下手に演じる。


「まぁ今言ったし問題ないよね」

「いや、大問題――」

「でさ、さっきのお金の話に戻るんだけど、サークルって大学が活動を認めれば少ないけど活動費が出るでしょ?」


 何食わぬ顔で問題発言をした上に、僕の言葉を遮り話を進める。

 両手の拳を強く握り締め、無言で睨みつけるが効果はないようで、ひるんだ様子どころか表情一つ変えない。どう生きて来れば、ここまで肝が据わった人間になれるんだと感心するぐらいだ。


「とにかく出るんだけどね。温泉サークルはまだ活動できるメンバーすら足りてないの。だから、ソラちんを連れて来たってわけ。ソラちんがここに来るだけでお金が発生するって意味分かってくれたかな?」

「何勝手に話進めてるんですか。僕は一言もサークルに入るとはぁ……」


 呆れた表情で放った言葉は、途中で空気が抜けるように消えていく。正確には目の前にいる雫先輩によって強制的に消滅させられた。

 いきなり机に身を乗り出し、真顔で胸倉を掴まれたのだ。そうなるのも仕方ない。


「えぇ、雫ちゃんっ! 何やってるのぉ!? 暴力はぁ、暴力はダメだよぉ!」


 丁度、部屋に帰って来た凪姉が目の前の光景に慌てて訴えかけるも、雫先輩は聞く耳を持つ様子はなく、真顔のまま胸倉から手を離そうとはしない。

 僕を含めた三人はその無言の圧力の前に、雫先輩の訴え以降、動くことも声もあげることも出来ず、息を呑むことすら許されなかった。


 本日二度目の唇が触れ合いそうな距離感。どちらも鼓動は激しさを増したが、そのドキドキは全くの別物。猫と触れ合っているか、ライオンと触れ合っているか。それぐらいの差がある。どっちがどっちかは言うまでもないだろう。


 お互い瞬きと呼吸を忘れ、見つめ合うこと数秒。

 雫先輩が口角をゆっくりと上げ、精密機械に作られたような笑顔で口を開く。


「ソラちんに拒否権はないからねっ!」


 明るく元気な声音なのに、内容は火傷しそうほど冷たいものだった。

 目の前に広がる矛盾した景色に、足が一歩二歩と無意識に下がる。頭と体、人間の本能が何かを察知したのだろう。一度離れた方がいいと。

 だがしかし、そうはさせないと胸倉を更に強く引っ張られ、十分近かった顔をゼロ距離に。仮面を外したように表情は無に変わり、光のない目が僕の瞳を突き刺す。

 防衛本能すら機能させない圧に、僕は体全体で鼓動を聞くことしか出来なかった。


「……もう一度言う。拒否権はない……」


 周りには聞こえない声でそう囁かれ、胸倉を離すと同時に体を押される。

 気付いた時には椅子に腰を下ろしており、視線を上に向ければ笑顔の雫先輩がこちらを見降ろしていた。


「もっ、雫ちゃん! 今のはいくら何でもやりすぎだよぉ~!」

「軽いじゃれ合いじゃん。気にするほどじゃないって」

「そう言われもねぇ……」


 放心状態の僕を流石に放っておくことは出来ないといった様子の凪姉。


「空ちゃん、大丈夫ぅ? 怪我してないぃ~?」


 膝に手をついて視線を同じ高さに合わせ、心配そうにそう聞いてくる。

 だが、僕は大丈夫という安堵させる一言も返せず、ゆっくりと机の端へと転がっていく未使用のクラッカーを見つめていた。


 頭の中で繰り返されるさっきのシーン。耳元から「拒否権はない」の声音が離れてくれない。胸倉を掴まれた感触も光ない目の圧力も鮮明に残っている。

 恐怖を感じたというよりかは圧倒され、言い返したいのに抵抗したいのに何も出来なかった現実が衝撃的だった。


「あーどうしよぉ~意識がないわぁ。救急車呼ぶぅ? 確かぁ110だよねぇ?」

「それだと警察呼んじゃうね。勝手に事件にしないでもろて」


 スマホとにらめっこしながらパニックになる凪姉に対し、雫先輩は可笑しそうに笑みを浮かべる。余裕はあるものの本気で電話をかけられるとシャレにならないので、雫先輩は凪姉に近寄って「まぁまぁ落ち着いて、瞳動いてたの見たでしょ」となだめてスマホをポケットに直させた。


「ほんとナギちんは心配症だね~」

「目の前であんなの見ればぁ、心配もするよぉ。それにわたしはあそこまでするなんて聞いてないぃ!」

「まぁまぁ計画とは狂うものよ。それに人生は何があるか分からないから面白いわけだし~」

「もぉ、さっきのは面白くないよぉ」


 うん、何一つ笑えない。笑ったのは膝だけだ。

 もっと笑えないのは、雫先輩が本気で僕を温泉サークルに入れようとしている事実だが、一体どうしたものか。

 脅しに近い言動を見る限り、断るのは非常に難しい。現実的に考えて不可能だ。

 こればかりは今後の展開に期待するしかない。


「ちゃんと空ちゃんにごめんなさいしてぇ!」

「え〜やだよ。ソラちんだって別になんとも……」


 雫先輩は死んだ魚の目で視線を地面に落ちたクラッカーに向ける僕を見るなり言葉を詰まらせた。

 改めて見て想像以上だったのだろう。


「怪我は見た感じないみたいだけどぉ」

「た、魂飛んでるね」

「うんうん、完全に天国への道を歩き始めるよぉ〜」


 可哀想な瞳を向けられているが、実際に可哀想な状況なので特に何とも思わない。

 ただ一つ文句があるとすれば、勝手に魂を飛ばして天国に行かせないでほしいぐらいだ。


「そ、ソラちん、驚かせちゃってごめんね~」

「……」


 既に放心状態ではないが、目を細めて無言を貫くと雫先輩は苦笑い。


「あはは……困ったな」


 額に手を当てぼやく。

 やりすぎてしまって反省しているというよりかは、黙ったままの僕の扱いが面倒という感じだ。

 短いスカートを手で押さえ椅子に座り、グラスに赤紫色の液体を注ぐ。喉が乾いてるわけではないようで、回して匂いを楽しむだけで飲みはしない。

 スマホを弄ったり、僕の横に腰を下ろした凪姉と会話するなどして時間を潰すが、なかなか進まない現状にモヤモヤするのか足を組んでは組み直すを繰り返していた。

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