36. 再会

今年は空梅雨らしい。

6月にも関わらず雨がほとんど降らず、夏の到来を感じさせる快晴の日々だった。

そんな天気が続くと、2週間後に控えた体育祭の練習も順調に進んでいく。


「ほいれん!」

「っし!」


加速しながら広樹ひろきから渡されたバトンを受け取り、数メートルだけ疾走する。

最高速度まで加速できたと感じたら次第に速度を落とし、踵を返してゆっくりと広樹の元へ戻っていく。


「今のはなかなか良かったんじゃねえか?」

「いやすまん、俺のスタートが若干遅かったな。もうちょい手前からスタートするか……」

「蓮ってたまに謎なところでスポ根になるよな」


体育の授業が体育祭に向けての練習になってからは、俺と広樹はもっぱら選抜リレーのバトンパスの練習をしていた。

俺がどのくらいのタイミングでスタートするべきかを思案していると、広樹よりも前の走者の男子2人がこちらに歩み寄ってきた。


「一旦休憩しようぜ~、疲れた」

「そうだな」


野球部所属の男子からの提案に同意する。

気づけばバトンパスと全力疾走の反復を、20分ほど繰り返していたらしい。

給水するため俺達4人は近くの水飲み場まで移動した。


「ていうか神道しんどうって足速かったんだな。意外だわ」

「まぁ短距離ならな」


水を頭に浴びながらサッカー部の男子が尋ねてきた。

小学校の頃サッカー部だったからか元々の運動神経かは知らないが、足の速さにはそこそこ自信があった。

4月にあった新体力テストの結果曰く、帰宅部にも関わらずクラスで4番目に速かったので、今回の選抜リレーに出場することになった。


「蓮は昔からダチョウみたいに足はえーからなぁ」

「せめてチーターかゴキブリと言ってくれないか」


なんで一番微妙な例えなんだ。たしかにダチョウも速いけどさ。


「そんなスピードあるなら神道もサッカー部来れば良かったのに」

「無理だなぁ~。中学で帰宅部になってから蓮の持久力マジで終わってるから」


俺の代わりに広樹が答えた。

足の速さはあんまり変わらなかったが、運動部を離れてからスタミナの方は衰退の一途だった。シャトルランはたしか男子の中で一番最初にリタイアした気がする。

スタミナG男にアスファルトに腰掛けた野球部の男子が言う。


「じゃあ野球部はどうだ?代走要員なら行けると思うぞ」

「いやきちぃ。体育で一回走ったことあるけどさ、ベースランニングむずすぎてマジ無理」


中学の時の経験談で誘いを断る。

普通に全力疾走でベースを駆け抜けようとしたら、遠心力で吹き飛ばされそうになった思い出。

テレビの中のプロ達が如何にバケモノじみてるかを実感した。


2度の部活勧誘を受けて、前々から思ってたことを男子達に話す。


「ていうかさ、なんか俺高校入ってやたら部活に誘われるんだけど、俺ってそんな部活気質に見えるのか?」

「だって、才能ありそうな帰宅部見かけたらなんかもったいなくならね?」

「わかる。神道頭もいいからピッチャーの分析とかもしてくれそう」

「なるほど……」


運動部の彼らは口々に答える。

対戦相手の分析はちょっと面白そうだなとか思ってしまった。


「まぁでも、体力技術以前に部活はあんまり性に合わないな。運動は好きだけど部活は嫌いなんだ」

「へ~、運動好きなんだな」

「なんせ蓮の選択種目は『徒競走』と『選抜リレー』と『部活動対抗リレー』だからな!」

「は?走るの大好き少年かよ」


サッカー部男子は目を丸くして俺を見る。

ちなみに部活動対抗リレーは『帰宅部』代表。


「いやだって、運動がちゃんとできるのってそれぐらいだろ。他の種目は運動ってよりレクリエーションみたいな感じだし」

「選択種目って他何あったっけ」

「『二人三脚』『玉入れ』『借り物競走』だな」


サッカー部男子の疑問に、広樹が残りの選択種目たちを列挙する。

他の種目達も多少の運動要素があるけど、陸上競技というには遊びの部分が多かった。


「運動部でもないと全力疾走できる機会ってあんまりないからな。こういう時にガッツリ走っておきたい」

「別に全力疾走っていつでもできね?」

「じゃあ帰宅部が一人で放課後、校庭の一角で全力疾走してたらどう思う?」

「関わっちゃいけねえと思うな」

「絶対やばい奴だな」

「そういうことだ」


俺の持論を使って運動部の彼らを納得させる。

そのほかに男子全員が参加する騎馬戦の話などをしながら、溜まった足の疲れを癒やしていった。






5分ほど休憩したところで、再びバトンパスの練習に戻った。

俺達4人はトラックの半周ほどを使って均等に距離を空ける。

俺は先ほどよりも少しだけ広樹側に近づいて待機した。


「じゃ行くぞー」


遠くから聞こえる野球部の声に手を上げて答える。

俺の合図を確認した男子は勢いよくスタートを切った。

クラスで一番速い男子の走りを見てふと考えにふける。


(やっぱ走り方って人それぞれあるよなぁ。そういえば昔まったく手を振らないキーンな走り方で、『アラ蓮ちゃん』とか言われてたっけ)


そんなことをぼーっと考えてると、広樹がサッカー部男子からバトンを受け取ったらしい。

本番と違ってすぐにバトンが来るのでスタートの体勢に入る。

じきにバトンを持った広樹がやってきた。先ほどよりも少し早いタイミングで加速を始め、トップスピードでのバトンパスを試みる。


「ほい蓮!あっ」

「うぉ……!」


加速のタイミングが早すぎたのか歩調が乱れ、広樹の渡したバトンを掴み損ねた。

広樹は既にバトンを手放していたので、棒状の筒は持ち手を失い重力に従って落下していく。


「ふんっ!」


俺はすかさず身を翻して緊急的対処を試みる。

本番でもこれは有り得る、そのための練習だ。

いくらブランクがあろうと俺だって元サッカー部、足でバトンをすくい上げることぐらい不可能ではないはず。

俺はリフティングのごとく落ちていくバトンめがけて足を伸ばす。


しかし、全力疾走を始めた体がそのようなイレギュラーの動きをすると当然無理が出てきて──


「あっ」


突如として俺の視界が意図しない方向へ傾き始める。

体のバランスと足の運びが持ち主のコントロールを失っていく。

なぜかこういう時に限って人は冷静になるもので。


(あぁ、ダメだこれ)


足と体に鈍い衝撃が走った後、砂を引きづる音と共に俺は校庭の地面に叩き付けられた。






「蓮、大丈夫か!?」


広樹が慌てて駆けつけて来る音が聞こえる。

俺はゴロンと大の字に仰向けになって答える。


「かっこつけてぇ……落ちたバトンを足ですくい上げようとした男がいたんですよ〜……」

「はぁ……大丈夫そうだな」


俺が往年のコントをかましたら、広樹は安堵と呆れが混じったため息をついた。


「久々に校庭の大地と触れ合ったわ」

「小学校の時は散々サッカーでスライディングしてたけどな」

「懐かしいな」

「神道ー、大丈夫かー?」


広樹の様子で大事ではないと察したのか、リレー仲間達はのんびりとした様子でやってきた。


「あぁ、不思議とどこも痛くない」

「ホントか?めっちゃ血出てるけど」

「えっ」


クラス最速男子の指摘で上体を起こすと、右膝からそこそこの出血が出ていた。


「おぉ……ほんまや……」

「大丈夫か?神経やってないよな?」


サッカー部男子が声をかけてくる。


「あぁ、たぶん大丈夫、ちゃんと動かせるし」


俺は右足を左右に動かしたり少し曲げたりして無事をアピールした。


「これがアドレナリンってやつなんだな……」

「何をしみじみしてるんだ、早く洗って保健室いけ」


普段はお調子者の広樹から真面目に言われてしまったので、立ち上がって体の砂をはたき落とす。

すると、右足がずきりと痛みだした。


「ってぇ……」

「肩貸すか?」

「いや大丈夫、3人は切磋バトンしといてくれ」

「切磋バトンってなんだよ。まぁ大丈夫そうだな」


軽口を叩くと広樹は再び呆れるように息をついた。

俺は先ほどの水飲み場で血と砂を洗い流した後、右足を少し引きづるようにして保健室に向かった。






「失礼しまーす」


初めて訪れる高校の保健室に、若干の緊張を持って入室する。


「誰もいねえな」


返ってくる声はなかった。ベッドを見ても空席のみ。

俺が来る時いつも誰もいねえな。

怪我人がいないのは良いことなんだろうけど。


ふと机の方に目をやると、メモ書きと思われる一枚の紙が置いてあった。


『出張中です。傷の手当等は保険委員の指示に従ってください』


紙の右下には養護教諭の名前があった。


「まじか……」


てっきり一時的な離席かと思ったら、どうやら本格的な不在らしい。

体育祭の練習期間って1年の中で一番怪我が出そうなもんだが、このタイミングで居ないのはどうなんだ。いや、これが大人の事情ってやつか。


「これは本当にやっちまったなぁ」


養護教諭がいるだろうと思って保険委員を連れてくるのを怠ってしまった。

膝の擦り傷なので手当自体は一人でできるが、道具の場所が分からなければどうしようもない。


周りを見てみると、ガーゼなどの道具は鍵のかかった戸棚の中に仕舞われているようだった。

一応戸棚の上に緊急時用と思われる救急箱が見えるが、おそらく擦り傷程度では無断で使っていいものではないだろう。


「戻るか……」


生憎スマホは教室にあるので、遠隔で広樹に頼むこともできない。

仕方ないから校庭に戻って保健委員の男子を連れてくるか。そう思った時──


ガララ。


保健室の扉が開く音がした。

事情を聞きつけた保健委員がやってきたと思ったが──


「神道くん、大丈夫?」


振り返ると、そこに居たのは副学級委員長さんだった。


「おう、別にただの擦り傷」

「ほんと?良かった」


尋ねてきた時は不安そうだったが、俺の平静な返事を聞くと星乃ほしのは安堵の表情を浮かべた。


「ていうかよくわかったな」

「うん。神道くんが足ひきずって校舎入ってくの見えたから」


女子は体育館だったから千里眼の能力かなんかかと思ったら、単純に手負いの俺をたまたま見かけたらしい。


「それで、お困りかなーって思って」

「おお」


そう言って星乃は少し得意げな微笑みを浮かべながら、右手に『保健室』と書かれたキータグのついた銀色のカギを掲げた。


「すげえな、お困りだったわ」

「ふふ。やっぱりね」

「星乃って実は保健委員も兼任してるのか?」

「あはは、さすがに3つも無理だよ。ちょうど黒川さんも一緒に見てて、『一人だけど大丈夫なのかなぁ?』って言ってたから」

「なるほどな」


クロカワさんが誰かわかんないけど、おそらく保健委員の女子だろう。

それで疑問に思った星乃は、その人から今の保健室の状況を聞きつけたと。


情けないところを見られたのが多少恥ずかしく思ったが、あの情けなさのせいで目を引いたのだとしたらプラマイゼロだったのかもしれない。


「でも、なんで星乃が来たんだ?」

「えっと……クロカワさん二人三脚とかリレーとかで忙しそうだったから。私は借り物競争しか出ないから暇だったし」

「たしかに、借り物競争って練習要らねえな」

「うん。借りるもの事前に考えとくぐらいかも」


おどけたような事を言ってあははと星乃は笑った。


「とにかく助かったわ、さんきゅ」


来てもらった星乃に長居をさせても悪いので、俺は早々に鍵を受け取ろうと右手を差し出した。

しかし星乃は、俺の言葉がさも聞こえなかったかのように後ろ手で扉を閉めた。


「座って神道くん。やってあげる」

「いや……いいよ。自分でできる部分だし」

「人にやってもらった方が綺麗にできない?」

「まぁ、そうかもしんないけど……」

「神道くん、好意は素直に受け取る物だよ」

「星乃が言うかそれを。カギ持ってきてくれた時点でもう受け取ったぞ」


前に古雑誌を持っていこうとした時、律儀な副委員長さんを説得するのにだいぶ苦労したのを思い出す。


「神道くんだって前に心配してくれたじゃん。あの時と一緒。怪我した人が居たら対応するものなの」

「あの時……?」

「いいから座って」


星乃にグイグイ押されながら近くにあった丸椅子に座らせられる。

たまに頑固なこの優しい女の子は、きっともう何を言っても手当するんだろうな。

別に嫌というわけではないので、素直に好意に甘えることにした。


事前にクロカワさんに道具の場所は聞いたのか、戸棚の鍵を開けた後星乃は特に迷うことなく手当に必要な道具を取り出した。

そしてそれらを机に置き、俺の前にもう一つ丸椅子を持ってきて座った。


「もう水で洗ったの?」

「あぁ。転んだ周りに汚いもんとかなかったし、消毒も要らないと思う」

「え?消毒要らないの?」


星乃は持ってきた消毒液を手にして小首をかしげる。


「あぁ、このくらいの擦り傷なら消毒すると傷を治そうとする菌も殺しちゃうって、どっかで読んだ気がする」

「へ~。そっか、いらないんだ……」

「なんで残念そうなんだ?」

「消毒って一度やってみたかったなーって」

「俺を実験台にしようとするんじゃないよ」


親切心だけで傷の手当を申し出たのかと思ったら、ちょっとだけ興味の部分もあったらしい。


「まぁでも、俺もちゃんと洗えてる自信はないから、一応消毒お願いしようかな」

「ほんと?じゃあ、やりすぎないように気をつけるね」


俺の提案にわずかに明るくなった星乃は、弾むような手付きで机にあった脱脂綿を取った。

まぁせっかく持ってきてくれたしな。俺も久しぶりに消毒を食らってみたい興味もなくはなかった。

星乃は消毒液を脱脂綿につけ、膝の傷口にそーっと当てる。


「大丈夫?痛くない?」

「あぁ。どちらかと言うとくすぐったい」

「そうなの?結構当ててるんだけど」

「……そうか」


くだらないことに、星乃の言葉に『あててんのよ』のセリフが連想してしまった。

気づけば星乃は、俺の膝の患部を消毒するため若干前かがみの姿勢になっている。

そして時期はもう気温の上がった6月、平均的な女子より発育の良い星乃は当然体操服姿をしており──


「……っ」


即座に星乃から顔を背ける。

これ以上の思考は危険だ。俺の目が破滅的光景を脳に焼き付けてしまう。

忘れろ。消し去るんだ水色の何かを。


逃げるように移動した視線の先には、純白のシーツに包まれた2台のベッドがあった。


「よし、これくらいでいいかなっ」


視界の外から満足そうな女の子の声が聞こえる。


「じゃあ、絆創膏貼っちゃうね」

「あぁ」


ベッドの方を見ながら星乃に返事をする。

中学の時とは内装が違うから、今まですっかり忘れていたな。


「はい、できた」


患部が保護される感触の後に、あの時の声と非常に似ている声が聞こえる。

そのせいかもしれない。あの日のことを今思い出したのは。

懐かしいものを感じながらベッドの方を見て口を開く。


「そうえいば昔さ、保健室で寝てたらすげー優しい女の子が来たことあったわ」

「………え?」

「なんかペットが死んじゃったって言って休みに来てさ。俺なんか惰眠をしにきただけなのに、保健室の使い方でこんなに人格の差が出るのかよって思ったわ」

「……」

「そん時すげえ眠くて顔はあんまり覚えてないんだけど、でも声からしてあれはガチの優しい子だな。星乃と比肩するぐらい」

「そう……なんだ……」


優しい思い出も振り返って落ち着いてきたし、そろそろ星乃の方を見ても大丈夫かな。

そう思って優しい女の子の方を向き直すと、彼女は小さく呟いた。


「……神道くん、覚えててくれてたんだ」

「え?」

「その子、『熱帯魚が死んじゃった』とかって言ってなかった?」

「ん?あー……あっそうだ!言ってたわ!」


『熱帯魚』という単語であの時の光景をより鮮明に思い出す。

そうだ、熱帯魚を飼ってる女子ってちょっと珍しいなって思ったし、しかも保健室に来てしまうほど愛を注いでるなんて随分優しい子なんだなって、だからやけに印象に残ってたんだ。


「うわー思い出した、めちゃめちゃフラッシュバック。ていうかなんて知ってるんだ?もしかして星乃ってあの子と友だ………」


尋ねようとしてふと引っかかる。

ペットの死を人一倍悲しむ優しい子で、さらに熱帯魚を飼うぐらい魚が大好きで、そして似たような温かみのある声の女の子が、俺と同じ中学に2人在籍していた?


いや、そんな奇跡の連続みたいなことよりも、もっと現実的な帰結がある。


「もしかして………あれって、星乃だったのか………?」


俺は考えれば当然の結論を彼女に投げかけた。


「………やっと気づいたの?」


再び会えた優しい女の子は、少しイタズラめいた微笑みで答えた。


「マジ?」

「うん。まじ」

「いや……先に言ってくれよ……」

「だって神道くん、日直の手伝いしに来てくれた時、全然覚えてる様子なかったんだもん」

「いや、あの時マジで眠かったし……ワンチャン夢だった説もあったから」

「夢じゃない、ちゃんと私いました」

「そうっすか……なんかすまん……」


一瞬しか顔は見なかったとは言え、この優しい性格と少し可愛らしい声で、なおかつ同じ中学、この情報で十分辿り着ける結論だった。

しかも、最も大きなヒントもあった。


「だから最初に会った時、俺のこと『神道くん』って分かったんだな」

「そう。ベッドの利用記録に名前あったから。あと最初じゃないから」

「そうだな、2回目か」

「……2回目っていうわけでもないんだけど」

「え?うそ、俺中学の時星乃と話したことあったっけ」


まったく記憶にない。

でもよく考えたら星乃と柏木かしわぎは親友だから、柏木と広樹と遊んだ時に星乃も一緒にいたことがあったのか……?


「ううん、ちゃんと話したことはないよ」

「そ、そうか、だよな……」


自分の記憶が再び信じられなくなる事実が来るかと思ったら、そんなことはなかったらしい。


「でも、私はずっと話したいと思ってた。お礼が言いたくて」

「お礼?」

「あの時神道くんが言葉をかけてくれて、私は前を向けたから」

「あ、あぁ……あれか……」


俺が優しい女の子をもしかしたら元気づけられるかもと思って掛けた言葉。

思い返すと若干恥ずかしくなるので、もしかしたらあの部分だけは夢の中の出来事だったのかなと淡い期待をしていたが、どうやらバッチリ現実だったらしい。


「まぁ……ちゃんとあれに意味があったんなら良かったよ」

「意味があるどころじゃないよ」


星乃は俺の言葉をかき消すように即座に答える。

そして彼女は手に持ってるガーゼを見つめながら続けた。


「あの時優しい神道くんが居てくれたから……神道くんが優しく接してくれて、優しく温かい言葉をかけてくれたから、私はあの後すぐに前を向けるようになったんだよ」

「……そうか」

「だからね神道くん、もし話すことができたらずっと言いたかったんだ」


そう言うと彼女は顔をすっと上げて──


「ありがとう、神道くん。あの時すごく……嬉しかった……!」


俺をまっすぐ見据えてそう言った。


「……っ」


これを見てしまってはまずい。俺の理性がそう囁いた。

お礼を受け取るだけでいい、彼女を見る必要はない。理性が必死に警鐘を鳴らす。


しかし意志とは反対に、その抵抗の音は次第に薄れていく。

そして俺の感覚は、遠くから聞こえる校庭の喧騒を閉ざし、消毒液が混じった香りを消し、膝の痛みを拭い去るようにして、目の前の光景を脳に焼き付け続けた。


あの日カーテン越しに悲しみに沈んでいた少女は、わずかに潤んだ瞳を細め、優しさと温かさに満ちた笑顔で俺の前に座っていた。


俺の中で、何かが動き出す予感がした。

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