35. 黒マスク

 なんだかんだ有意義になった校外学習が終わった数日後。

 休み時間に先ほどの家庭科の授業で触れた三大栄養素についてスマホで調べていると、前の席の広樹ひろきがポツリと言った。


「なぁ、黒マスクっていいよな」

「……珍しく意見があったな」


 何の脈絡もない発言だったが、それよりも100%同意な内容にまず驚いた。


「なんだ藪からスティックに」

「懐かしいなそれ。ほら、あの子マスクしてるから」


 広樹が指さした方向を見ると、星乃ほしのと駄弁ってる柏木かしわぎの前の席の女子が、季節外れの白いマスクをしていた。


「あぁなるほどね。どうしたんだあいつ、風邪か?」

「いや、なんか昨日カラオケではしゃぎすぎて喉がイガイガするらしい」

「よく知ってんな」

「俺の地獄イヤーを舐めるなよ」

「プライベートを盗み聞きとは、イヤーな耳だな」

「オッ」


 俺の秀逸なギャグに広樹はわざとらしくグッと背筋を伸ばす。


「お上手な言葉に座布団1枚……と言いたいところだが、あいにく座布団はない」

「残念だ」

「だがここに黒マスクはある」

「なんでだよ」


 広樹はしたり顔で、ヒラヒラと1枚の黒マスクを掲げた。

 そのマスクは透明なプラスチックに包まれており未開封のようだった。


「なのでこの黒マスクをれんにプレゼント……と言いたいところだが、あいにく蓮の黒マスク姿に興味はない」

「貰っても付けねえよ」

「そこで本題だ。お前はこの黒マスク、陽花はるかと星乃さんどっちに着けて欲しい?」

「むむ」


 突然襲来してきたクエスチョンに俺の食指が動いた。

 眺めていたスマホの画面を閉じる。


「なるほど、だからちゃんと個包装されてるのを持ってきたのか」

「あぁ、クラスメイトの男子が裸のマスク持ってきたら、俺でも付けたくねえ」

「犯罪の香りしかしないからな。……ホントにそれ未開封だよな?」

「すまん蓮、そこは信じてくれないか」

「冗談だよ」


 真剣に落ち込みかけた広樹を宥める。


「まぁマスクは顔の下着って言うからな、未開封を持ってきた選択は正しい」

「まじ?俺下着もってきてんの?」

「そうだ。恥を知れ」

「うぐっ!!で、どっちに着けてほしい?」


 どうでもいいノリをそこそこに広樹は改めて問いかける。


「ちなみにお前はどっちなんだ?」

「……蓮よ、俺はマスクを持ってきた。蓮がその先を決めるんだ。小学校の時のサッカーと一緒だ、俺が中盤でボールを運び蓮が決める。そうやって俺たちは勝ってきたんだ」

「全くもって意味がわからんが、俺に選択権が委ねられてることだけは分かった」


 謎理論をかます男子を思考の外に追いやり、二者択一の選択肢を考える。

 一見まったく無駄な思考をしてると思われるが、人生において二者択一を迫られるケースは往々にして存在する。

 これはその2つに1つを選択する訓練だ。両方のメリットデメリットを全て洗い出し、自分が納得する選択を自らの意志で決定する。

 議題が死ぬほどバカバカしくても価値のある思案だ。たぶん。

 普通に黒マスク姿の女子が好きなのももちろんある。


「とりあえず直感的にまず浮かんだのは星乃だけど」

「ほう。その心は」

「うーん……フィーリング」

「蓮にしてはアバウトだな」

「いやマジでそうとしか言えない………あ、私服を見たことがないからかも」

「あーなるほど。副委員長さんのオシャレ要素を見たい的な」

「そんな感じだな」


 漫画の貸し借りや校外学習などで何回か星乃とは学校外で会っているが、そういえば制服とジャージ以外の姿を見たことがなかった。

 星乃のプライベート的なオシャレ要素を見てみたいという欲求かもしれない。


「でも柏木も捨てがたいんだよな」

「それはなぜだ?」

「だってアイツ、絶対マスクとかしないだろ」

「たしかに。そもそも陽花が風邪引いてるの見たことねえな」

「バカは風邪を風邪と分からないからな。多少の病だったら体動かして勝手に吹き飛ばしてるんじゃないか?」

「ありえすぎる」


 きっと柏木なら些細な不調も全部『体育』っていう万能薬で治癒してるんだろうな。そう思うぐらい普段の彼女は元気オーラに纏われてた。


「それに、もし柏木がマスクをすることになっても、黒は絶対に選ばない気がする」

「わかる。絶対ノーマルの白だな。ワンチャン給食マスクとか着けてきそう」

「さすがにそれは無いだろ……」

「なんか失礼なこと言われてる気がするんですけどー?」


 広樹の侮辱的発言に気づいたのか、柏木はジトーっとした目で抗議の視線をぶつけてきた。


「いやいや、陽花のピュアさを褒め称えていただけだよ」

「ほんとー?その割にはなんかコソコソしてた気がするんだけど」

神道しんどうくん、なんの話してたの?」

「二者択一の論議」


 星乃の問いかけに重要な部分を抜け落として答える。

 どうやら俺らの怪しい密談に、女子達は少し前から気づいてたようだ。

 そして明らかに俺の回答が抽象的だったので、彼女らの怪訝さは深さを増してしまった。


 もはや猶予はないな。選択の時は来た。

 広樹にだけ聞こえるよう小声で伝える。


「……決めた。柏木だ」

「承った」


 俺は黒マスクの行き先を元気少女に決めた。

 やはり大きな理由は、柏木の黒マスクはおろかマスク姿すらレアなことだった。

 反対に星乃はイメージ的に黒マスクを選ばなそうであっても、マスク姿自体は割と想像できた。

 俺の選択を受理した広樹は、例のブツを柏木の方に掲げる。


「陽花、突然なんだがちょっとこれ着けてみてくれ」

「えっ何いきなりキモ」


 柏木から拒絶withドン引きが返された。

 当たり前だ、そんなストレートに言ったらそりゃそうなる。

 言葉足らずな要望をフォローする。


「柏木、実はこの前このマスク使ってみたら結構着け心地良くてさ、他の人はどうなんだろうって話をしてたんだ。大丈夫ちゃんと未使用だから、ちょっと着けてみてくれないか」

「あ、そういうことね。いいよー」


 嘘で塗り固められた理由を話すと、柏木はコロっと態度を翻して受け取ってくれた。

 柏木がガサガサとマスクの袋を開けてる中、再び小声で広樹に話す。


「こうやるんだバカヤロウ」

「お前詐欺師とか向いてそうだな」

「せめて政治家と言ってくれ」


 小声で問答してると、柏木の少しくぐもった声が聞こえてきた。


「すごーい、マスクってこんな感じなんだ」

「ほぅ~」

「おぉ……」


 声の方を見ると、黒マスクを装備した柏木の姿があった。

 広樹と俺は感嘆の声を漏らし、すかさずヒソヒソと感動を分かち合う。


「これは正解だったみたいだな」

「あぁ、なんか柏木が急にギャルに見えてきた」

「実際ギャルだぞ。中身が小学生なだけで」

「あいつマスクしてたら男子人気爆上げじゃないか?」

「ありうる。所作を封じれば美少女ギャルだからな」


 密談をしながら改めて美少女ギャルの方を見やる。

 黒マスクというシックなアイテムに普段の子供っぽい表情が隠された柏木は、外見が一般的な女子より整っているため普通に美人に見えた。

 さらに、外国の遺伝子を感じるブロンド混じりな茶髪のサイドテールと、オシャレな黒マスクの組み合わせは、都内を気だるそうに歩くギャルを彷彿とさせる。

 普段とは全く違う姿を見せる柏木に、星乃も感動していた。


「わぁ……陽花マスクつけるとなんかカッコよくなるね」

「ほんとー!?くーるびゅーてぃーかな?」

「うん、CDジャケットとかに載ってそうだよ」

「「たしかに」」


 星乃の例えに俺たちは思わずハモって同意する。

 褒められた柏木はひとしきりそれっぽいポーズを取った後、着けたマスクをムニムニしながら言った。


「でもすごーい、シンドーくんの言う通り全然息苦しくないねー」

「そうなの?陽花マスク初めてなのに」

「うん。このマスクが良いのかなぁ~。あっ、ナギも着けてみる?」

「うん」

「「えっ」」


 思わぬ展開に俺達は再びハモる。

 柏木から黒マスクを手渡された星乃は、そのまま何の躊躇いもなくそれを自分の耳に掛けた。


「わーほんとだ。息吸いやすいね」

「でしょー?」


 先ほど柏木がやったようにマスクをムニムニしながら星乃は感動する。

 黒みがかったブラウンのセミロング少女は、黒の布を纏うとより落ち着いた雰囲気になり、普段の星乃の『可愛い』が『美しい』に変化されていくのを感じた。

 いつもは清涼飲料水のCMに出てそうな雰囲気だが、今はシャンプーの紹介とかしても全然違和感がない。


 観察すればするほど星乃の黒マスク姿に滾るものがあったが、それよりも何よりも気になることがあった。


「……星乃って、人のマスクとか平気なんだな」

「えっ、そんなことはないけど。でもちょっとしか着けてないし、まぁ陽花なら別に」

「私もナギのなら大丈夫かなー」

「まじかよ」

「はえー」


 俺の声に続いて広樹も間延びした驚きの返事をする。

 てっきり俺たちは他人のマスクを着けるのは論外だと思ってたので、勝手に二者択一の選択としていた。

 しかし彼女たちは互いのマスクなら別に平気らしい。それほど仲が良いってことか?


「あっ、ヒロキくんのは無理かも」

「おい、その剣、今刺す必要あったか?」

「あはは!!あーでも、シンドーくんなら平気かな~」

「わ、私も、神道くんなら大丈夫そう……」

「お前ら俺のことを植物だと思ってないか」

「男性ホルモンが足りて無いんじゃないかー?」


 ついでに星乃にも刺された広樹は投げやりに俺をイジる。

 男子の使ったマスクが大丈夫って、それは清潔感あるってことで好印象なのか、そもそも男子として見られてないのか。

 まぁ俗にいう俺は『絶食系男子』だからそういう風に思われても特に問題ないけども。いや、むしろ好都合なのか?


「神道くんは他の人が使ったマスクとかダメなの?」

「まぁ……男子は無理だな」

「蓮は回し飲みとか基本しないからなー」

「へー、シンドーくんナイーブー」


 柏木が珍しそうに目を丸くする。

 いや、回し飲みダメってやつ結構いると思うけどな……。


「女の子だったら大丈夫なの?」

「うーん……女子だったら……まぁ」

「ほんと?じゃあはい、着けてみて」

「は?」


 そう言って星乃はスルっと耳からマスクを外し、そのまま黒い布を俺に手渡してきた。


「黒いマスクの神道くん見てみたい」

「あーたしかにー!シンドーくん韓流感出そう!」


 星乃の要望に柏木も期待の眼差しを向ける。

 少し温もりを感じる黒マスクを手に、隣の男子に小声で話す。


「……広樹、これはどういう状況なんだ」

「無駄に清純イケメンな弊害だな」

「なんだそれは」

「別に減るもんじゃねえだろ。楽しめ、蓮」

「減るんだよ俺の何かが。……広樹、お前着けるか?」

「いや俺他人のマスクとか無理だし」

「なんでそこは繊細なんだよ」

「シンドーくーん、アタシも着けてあげたんだから早くしてー」

「ぐっ……」


 コソコソしてると柏木からブーブー催促の文句が飛んできた。

 お前が着けた時とはマスクの状態が違いすぎるだろ……そう反論しかけたが「女子のは平気」と言った手前、拒否する他の理由が思い浮かばなかった。

 「今ちょっと体調が優れなくて……」というお決まりの断り文句を言っても、「じゃあ尚更着けろよ」となってしまうだろう。


 仕方ない……潜水の訓練だと思って息を止めよう……。

 匂いを知覚してしまったらこの後の授業に支障が出る、耐えねばならない。

 全てを諦め、一度深く息を吸ってから温もりを感じる黒マスクを耳に掛けた。


「わぁ………」

「シンドーすごーい!韓流アイドルじゃん!」

「初回限定盤に居そう」

「……」


 星乃の感嘆と柏木の興奮と広樹の謎評価が聞こえる。

 俺は無の境地に辿りつくため目を瞑り、この嵐が過ぎるのをひたすらに待っていた。

 止まない雨は無い、明けない夜もない。きっと俺はこの難局を乗り越えられる。

 でもどんくらい着けてればいいんだ……1分ぐらいか……?


「ねぇねぇ!シンドーくんめっちゃ黒マスク似合ってない?」

「あっホントだー、神道君CMの人みたい」

「雰囲気変わるね~」


 残り時間を計算していたら、興奮気味の柏木が近くにいた女子を巻き込み始めた。

 やめろや。なぜギャラリーを増やすんだ。

 女子達がワーキャーしながら感動を述べ合っている声がする。


 何の罰ゲームだこれは……。何か俺は間違った選択をしたのだろうか。

 そう後悔の念が押し寄せてきたその時──


 カシャ。


 不意に乾いた電子音が聞こえた。


「……!?」


 思わず目を開ける。

 星乃が少し頬を赤くしてスマホのカメラを俺に向けていた。


「……おい」

「ごめん、撮ってもいい?」

「いや、それは事後報告と言うん……っ!?」


 しまった。

 星乃に抗議するべく言葉を紡ごうとしたら、無意識に息を吸ってしまった。

 即座にマスクを引き剥がす。


「あっ……」

「あー!アタシも写真撮りたかったー」

「撮って良いとは言っていない」


 残念がる女子達に苦言をいい、静かに息を整える。


「どうだった?甘美なマスクは」

「……布の匂いしかしなかったな」


 ニヤニヤと聞いてくる広樹をあしらう。

 実際、一瞬だけ鼻を伝ってやってきたのはほとんど無機質な布の香りだった。

 ただそのなかにほんの少しだけ、知覚してはならないような甘い香りがあったような気がした。

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