0. 保健室の熱帯魚

「ふわぁ~ぁ……」


 幾度となく漏れるあくびを噛み殺しながら、歩き慣れた廊下を進む。

 中学3年生となった最初の朝、俺は始業式が行われる体育館ではなく保健室に向かって歩いていた。


 理由は始業式が終わるまでぐーすか寝るため。

 昨日たまたま始めたトランプマジックの練習が、思いのほか熱中してしまって寝不足だった。

 普段は学校行事をサボっての保健室は俺の流儀に反するが、始業式はそれを度外視するぐらい価値が無いためセーフってことした。終業式だと賞状授与の時間があってちょっと面白いんだけど。「なんだよその賞状」みたいのがたまにある。


 ぼーっとした頭で始業式の価値を今一度考察しながら歩くと、ようやく保健室までたどり着いた。

 重い身体を鞭打つようにドアを開ける。


「すいませーん、ベッド借りていいすかー」


 返事はない。

 ベッドを囲むカーテンも全部開いていた。


「誰もいない……あ、始業式に出てるのか」


 だいたい学校の集会では貧血で倒れるとかの生徒が1人ぐらい出てくる。

 その時のためにここの主の養護教諭は、現在体育館にいるのだろう。


「じゃ、ベッド借りまーす、対戦よろしくお願いしまーす」


 眠すぎて変なテンションになってきた俺は、謎の挨拶をしながら『ベッド利用記録』のところに自分の名前を書く。

 そして、流れるように上履きを脱ぎながらカーテンをシャッと閉め、ベッドに仰向けになる。


 事前に担任には許可を取ってあるからこのまま勝手に寝てしまっても問題ないだろう。

 もし戻ってきた養護教諭に詰問されても、「クラス替えが不安で眠れなかった」とか言ってセンチメンタル男子中学生を演じればいい。


「つーかまた広樹ひろきと同じクラスだったな……」


 保健室の天井を見ながら呟く。

 今日は中3最初の日であると同時に、クラス替えの日でもあった。

 結局3年間同じクラスになった坊主を頭の片隅に追いやり、俺はこの後の初対面のクラスメイト達との会話をシミュレーションする。


 普通はクラス替え初日に保健室直行するのは幸先悪いものだと捉われがちだが、俺はそうは思わない。

 逆に始業式をブッチすることで『始業式どうだった?』と会話のきっかけができると思う。そして『いなかったの?』と聞かれれば『めんどくさいから保健室で寝てた』と返す。

 そうすればだいたい男子なんてよっぽどの真面目ちゃんでない限り『なんだこいつオモロイな』みたいな評を頂き、それなりに好印象を与える。そしたらもう始業式の感想やら眠かった理由やらでコミュニケーションは勝手に続いていくだろう。

 これが今日登校する時に考えた、始業式ぶっちコミュニケーション法。成功するか楽しみだ。


「よし、じゃあ始業式に出てるみなさん、おやすみなさい」


 誰もいない保健室であえて独り言を発する異質感を愉しみながら、俺は無機質な真っ白のベッドの中で眠りに落ちた。






「失礼しまーす……」

「ん?」


 響き渡る入室音で眠りの世界から引き戻される。


「……あれ?誰もいない」


 続けて聞こえてきた高めの声に脳が覚醒し始める。どうやら入ってきたのは女子らしい。

 だいぶすっきりしたな、結構寝られたか?

 ポケットからスマホを取り出し確認する。


「うぉっ」


 驚いた。スマホの故障で無ければ、あれから5分ぐらいしか経ってなかった。

 完璧な睡眠をしたのか?5分とは思えないぐらい脳がすっきりしている。


「えっ……!?」


 カーテンの向こうの女子が驚いた声を上げる。

 そりゃそうだ、誰もいないと思ったら急にカーテンの向こうから声がしたんだもんな。


「あぁすまん。先生ならたぶん体育館に行ってると思うぞ」

「あ、そっか……」


 カーテン越しから納得したような女子の声が聞こえる。

 自分は中3で一番の上級生だから敬語とかは使わずに話したが、向こうも敬語じゃなかった。同学年か?


「ここで待っててもいいと思う?」

「いいんじゃないか?担任には言ってあるんだろ?」

「うん……」


 姿も見えない女子からの質問に、部屋の主でもない俺はテキトーに許可まがいの返事をする。


「俺も勝手にベッド使ってるから」

「あ、そうなんだ」


 同じ境遇のやつが居ると伝えると、少し安心したような声が返ってきた。

 会話の声を聞く感じ、たぶん俺の知らない女子だな。一度も同じクラスになったことない奴だと思う。と言っても声だけ聞いて分かるの柏木かしわぎぐらいしかいないけど。


(……ん?ちょっとまて、保健室に来たってことはもしかして)


 カーテンの向こうの女子の声は落ち着いてる感じだったが、それでも俺はわずかに焦りながら上体を起こして──


 シャッ。

 カーテンを少し開けて、来訪者の女子生徒を視認する。


「あ……」

「怪我してるか?」


 こんな特殊な時間に保健室に来てるんだ、何か緊急的な外傷を負ってる可能性があった。

 例えば登校途中に転んで鼻血を出してしまったみたいな。


「ううん、大丈夫……」

「ほんとか?」


 一応念のため目視で確認する。

 その少女はどこにも外傷はなさそうで、そしてどこかを庇う様子もなく普通に立っていた。顔色も問題ない。

 少し黒みがかったセミロングの茶髪、赤いリボンを付けた黒のセーラー服、平均点な長さのスカート、そのどれも転んだような痕跡も何かに巻き込まれた形跡もなかった。


「そうか、なら良かった」


 シャッ。

 たまたま現場に居合わせた者の責務的なものを果たし、カーテンを閉めてもう一度ベッドに横になる。

 顔を見たけどやっぱり知らない女子だったな。


「あ、ありがとう……」


 再び姿が見えなくなった少女から、カーテン越しにお礼を言われる。


「いや別に。ていうか座るか横になってたりしたら?具合悪いんだろ?」

「え?そ、そうだね、悪いと言えば……悪いかな……」


 困惑気味に肯定を返された。

 正直なんでこんな変な時間に来たが少しだけ気になったが、女性には生物学的に辛い日もあると言うから、あまり深くは追及できなかった。今の歯切れ悪い返事も、もしかしたらそこから来てるのかもしれないし。


 とにかく、俺にできることはもうやったと思う。

 怪我の有無は確認したし、受け答えも問題ない様子だから、きっと寝れば治る一時的なやつだろう。


 少女の気配が隣のベッドに近づくのをカーテン越しに感じながら、その方向に背を向ける形で再びスリープモードへと入る。

 5分でやたらスッキリできたとは言え、結局は5分。どうせまた後で眠くなるのだから、今のうちに寝とかないとな。

 まだ覚醒状態からは戻らなそうな脳を落とすため、目を深くつぶる。

 すると、年季の入ったスプリングが軋む音と共に、先程よりも近い位置で声が聞こえた。


「昨日ね、ペットが死んじゃったんだ……」


 その声は呟くような、しかし誰かに聞いて欲しそうな声だった。


「あっその、猫とか犬とかじゃなくて熱帯魚なんだけど………でも、最後の一匹で」

「……」

「しかも、死んじゃってるのにすぐに気づいてあげられなくて……最期に辛い思いさせちゃって……」


 落ち着いていた声は、だんだんと悲しみの色を増していく。

 このまま黙ってたら言葉にならない声が聴こえてくるのは時間の問題な気がする。

 寝たフリを続けることもできたが、それよりも今の話を聞いて湧き出た率直な感想を伝えることにした。


「……犬も猫も魚も同じ生命だぞ。生きる年数と母体数が違うから、等しく見るのが難しい時もあるけど」

「っ……!う、うん、そうだよね、ごめんなさい」


 返事がなかったので少女は俺がもう寝たと思ってたのか、少し驚いた声色だった。


「いやごめん、怒ってるわけじゃないんだ。わざわざ他の動物と比べる必要なんかないって言いたかった」

「そう……?」

「あぁ。どんな動物でもペットにかける愛情はみんな一緒で、100の愛情をかけるんだから、死んでしまった時もみんな同じで100悲しむものだと思う」

「……うん」

「だから亡くなったペットがどんな動物でも、悲しみの感情に違いはない……と思う」

「……そうだね」


 少女は落ち着きを取り戻したように返事を溢す。

 ……もうちょっと分かりやすい例えができたかもな。

 やはり寝起きの頭だと完全には回ってくれなさそうだ。


 しかしそういうことか。どこも外傷がなく顔色も健康だったのに保健室に来たのは、心の不調が原因だったのか。

 この様子だと、一晩明けても悲しみは軽減してくれなかったらしい。沈んだ雰囲気で新しいクラスメイトと交流はしたくないと思うのは想像に難くない。

 だからと言って初日から欠席するのもそれはそれで交流が難しくなりそうだし、苦肉の策で一旦ここでリセットすることにしたのだろう。

 俺の保健室コミュニケーションを応用すれば、今日学校を欠席してもむしろ交流を好転させられる可能性もあるが、この少女はそんな謎理論のことは知らない。


「……俺、5分ぐらい保健室出てようか?何分でもいいけど」

「ううん、大丈夫。もう昨日たくさん泣いたから」


 俺がここに居たら泣きづらいと考えたが、余計なお世話だったらしい。


「あっ!ご、ごめんね!具合悪いのにこんな話しちゃって……」

「いや大丈夫。俺寝に来ただけだから」

「そうなの?」

「あぁ、昨日トランプマジックの練習しすぎてめっちゃ眠い」

「……ふふ、なにそれ」


 カーテンの向こうで少女の苦笑する声が聞こえる。少しは気分を紛らわせてやれただろうか。

 やはりこのコミュニケーションは使えるのかもな。別に狙ってマジックの練習してたわけじゃなくて、大層真面目にトランプを触っていたが。


「だから、すまんがもう少しで寝落ちすると思う」

「ううん、全然気にしないで。ありがとう話聞いてくれて」


 やはり5分の睡眠は一時しのぎでしかなかったようだ。

 少女の話を聞きながら横になってると、仮初の覚醒がだんだん解けてきた。


(でも……)


 眠る前に最後にこれは伝えたかった。

 ふと思ってしまったことだが、伝えて損はないと思った。


「なぁ、世の中に熱帯魚って何匹いると思う?」

「え?」

「俺は飼ったことないから分かんないけど、きっと世界中の熱帯魚の中には輸送中の事故とか店で売れ残ったりとかで、人間の都合であんまり良い最期を迎えられないのって少なくないと思う」

「うん……」

「だから、誰かに愛されて綺麗に最期まで見てもらえるっていうのはすごい奇跡的なこで、それで、その奇跡的な最期を迎えられた奴は、絶対飼い主のことを悪く思ったりなんかしないと思う」

「……」

「だからまぁなんていうか、今は悲しいの感情が大きいと思うけど、でも絶対そいつといた時間はお互いに悲しかっただけの時間じゃないはずだから、絶対いつか素敵な時間だったと思える日がくるから、そんなに落ち込まなくてもいいと思うぞ」

「……」


 少女からの返事はない。『いきなり何言ってんだコイツ』とか思われたかな。


 たまたま居合わせた者の責任感とか、落ち込んでる子を慰めたいという純粋な気持ちもあったが、ほとんど自分のために話したのかもしれない。

 もし今の考えを言わないまま寝てしまったら、『あぁ~言ってみるべきだったかなぁ』みたいなモヤモヤが残ると思った。

 やらぬ後悔よりやる後悔、自分の今後の作業を妨害するモヤモヤを排除したいがために、一方的に話してしまった面も否定できない。


 ややクサいセリフの恥ずかしさで顔に熱が上がってくるかもしれないが、それが到達する前に夢の世界に避難してしまおう。


「うん……そうだね……」


 伝えた言葉を噛み締めたような少女の声が返ってきた。


 そしてその後、少女のお礼ような言葉が聞こえ、その言葉から後ろはだんだんと耳に入るだけで言葉として認識できなくなっていく。

 やがて形を失った言葉は声になり、音に変わり、次第にその音も聞こえなくなっていった。




 ───★




「ありがとう……こんな話、こんなにちゃんと聞いてくれるなんて思わなかった」

「………」

「一人で居たら、やっぱり泣いちゃってたかも」

「………」

「ねぇ、名前……聞いてもいい?」

「………」

「うん?」


 シャッ……。

 控えめにカーテンを少しだけ開ける。

 そこには清潔な白のベッドに横になって、スヤスヤ寝ている男の子がいた。

 その安らかな寝顔に、どこか見覚えがあった。


(あれ…?この人、たまに陽花と話してる人かな?)


 優しい男の子の寝息が小さく響く保健室で、私は『ベッド利用記録』を確認するため、一度ベッドを離れた。

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