9. ワックス

 広樹ひろきがなんだか高そうなワックスをくれた。

 親からの貰い物だけど、広樹ぐらいの坊主だと使っても生卵がゆで卵になるぐらいしか変化がないらしい。

 坊主でも長さによってはワックスで調整することはあると思うが、広樹の場合は五分刈りなので、上手くやらないとなんかベチャッとした坊主が生まれるだけだとか。


(でも生卵がゆで卵って、例えが熱中症の脳みそみたいだな……)


 人間の脳は重度の熱中症になったら、ゆで卵のように変化してしまうらしい。つまり元の生卵の状態に戻らなくなる。

 何度聞いても恐ろしい。脳みそゆで卵理論は諸説あるらしいが、とりあえずそのくらい熱中症は怖いということだ。


 友人の頭をそんなゆで卵にするわけにはいかないので、俺は快くそのワックスを譲り受けた。というか普通に一度経験として使ってみたかった。

 普段はワックスなんて時間の無駄なのでまったくやらないが、おそらく今後社会に出るようになったら、女性のメイクのように身だしなみの一貫でつけることになるだろう。


 そういうわけで現在は朝の登校前の洗面台。

 俺は鏡の前でそのオシャレなワックスと格闘していた。


「ふむ……そんなに難しくないな。ワックス適性Aかも」


 先日バイト先のチャラめの大学生にワックスのいろはを教えてもらって、その指南を思い出しながらスタイリングしているが、思いの外スルスル進む。

 元来俺の髪はクセのないストレートな軟毛で、柏木かしわぎには『韓流アイドルみたいな髪』と評されたことがある。たぶん褒められてると思う。

 韓流な俺の髪は指先の動きに素直に従い、特に苦戦することなく数分で目的の髪型まで辿り着いた。


「なんか私大の経済学部みたいだな」


 つまり客観的に見て、そこそこの見た目になっている。

 あまりガンガンにキメすぎると、4月の中旬から謎に高校デビューしたやつになってしまうので、普段の髪型を少しだけ社会的に寄せたぐらいに留めた。

 特段カッコよくなったとは思わないが、それでも都内を歩いても景色に溶け込める青年男性ぐらいの身だしなみを得た気がする。


「よしっ、そろそろ行くか」


 普段よりわずかに弾んだ気分で学校へ行く支度をする。

 髪の毛をちょっといじるだけでこんなに心持ちも変わるもんなんだな。

 毎日はさすがにめんどくさいが、たまにだったら経験値ブーストスイッチみたいな感じでやるのもいいかもしれない。

 なんというか、己の外見という武器を磨いて切れ味を上げてる感じがして楽しい。 切れ味悪いと魚の三枚おろしもできないし。


「この切れ味だと、クラスの女子も三枚おろしにできちゃうかな!」


 将来ワックスが不要な頭になりそうな寒い独り言を飛ばしながら、玄関を開けて家を出た。


(あれそういえば、うちの高校ってワックス禁止とかなかったよな……?)


 まぁこの程度なら広樹ぐらいにしかバレないか。




 ───★




 朝のHR開始前。

 星乃渚紗ほしのなぎさは、窓際の後ろから2番目の席から、普段とは何かが違う男の子の方を見据えていた。


(なんか、今日は神道しんどうくんがキラキラしてる気がする……)


 高校に入っても相変わらず私は朝に弱いので、いつもだいたいのんびりとした登校になる。

 朝教室に入る時は大抵、既に登校して廊下側の席で話している神道くんと佐野さのくんの姿が視界に映る。


 いつもはただ視界に入るだけの景色だったけど、今日は教室に入った途端二人の方から普段のそれとは違う雰囲気を感じた。

 立ち止まって凝視するわけにもいかないので、窓際の自分の席に向かいながらその違和感の方向にチラリと目を向けると、何か分からないが神道くんの周りが少しキラキラしてるように見えた。


(なんだろう、あれ)


 盗み見るぐらいだとやっぱりよく分からない。

 一度自分の椅子に着席し、距離が離れたことを利用して改めて2人の方を観察する。

 こうして今に至るわけだけど──


(むむー……やっぱり神道くんだ。神道くんがいつもと違う気がする)


 じっくり見るとキラキラの発生源は特定できた。たぶん神道くんだ。

 もしかしたら佐野くんが女子力高く制汗スプレーを撒いてるのかと思ったけど、どうやらそんな様子もない。


「んんー……何が違うんだろ……」

「ナギおはよー。どうしたの?」


 キラキラの正体を掴めず唸っていると、陽花はるかがやってきた。

 いつもは朝のホームルームが始まるまで眠気でボーッとしてるので、今日のシリアス推理モードの私に陽花は不思議な様子だった。


「おはよう陽花。ねえ、神道くんなんかいつもと違わない?」

「うん?シンドーくん?」


 綺麗なサイドテールを揺らして陽花もキラキラの方を向く。


「んー……なんも変なとこなくない?」


 どうやら陽花は『いつもと違う』をマイナス的なものと捉えたようだ。


「えっと、そういうのじゃなくて……なんていうか、キラキラしてる気がする」

「キラキラ?ラメ入りシンドーくん?」

「なにそれ………。あっでも、ラメ入りは近いかも」


 なんとなくその類のキラキラな気がする。

 爽やか笑顔とか佇まいのキラキラというより、なんか物理的なキラキラ。

 あっ、もしかして髪……?


 結局明確な答えは定まらず、担任の先生がHRを始めたところでタイムオーバーになった。

 まいっか、今日の放課後一緒だし、その時に聞いてみよう。

 ……でもなんて聞けばいいんだろう。「なんか今日キラキラしてるね」とか言っても彼を困らせるだけな気がする。


(その時までに上手い聞き方考えとかなくちゃ)


 放課後の会話が予定されたことで、今日1日を頑張れる気がした。




 ───★




 だんだんとワックスの違和感も馴染んで、今日ワックスを付けていることを忘れかけてきた6限の授業。

 いつものように内職に精を出していると、ふと脳裏に電流が走る。

 忘れてきたワックスの感覚とバトンタッチするように、あることを思い出した。


(やべえ……今日の美化委員会、ワックス掛けだった………)


 机に肘をつき、いつもより社会的になっている頭を右手で抱える。

 今日の委員会は、週末の体操教室のための空き教室のワックスがけ。

 なんかチアリーダー同好会主催の地域コミュニケーションがなんたららしい。体育館でやってくれよ。


 そもそも今日委員会があることすら失念していた。

 覚えていたらわざわざ多くの人目に付く時に、初ワックスチャレンジなんかしてこない。

 本来人に見せるためのオシャレだが、今日のこれはオシャレじゃなく実験でやっただけだ。

 幸い広樹曰く『つまんないぐらい普通に似合ってる』との評価なので、失敗した髪型を晒すことはなさそうだが。


 しかし不格好を晒すことよりも、ワックスをつけてきたという事実自体が苦しい。

 なんで普段無加工な髪型なのに、今日ワックス掛けをする時だけワックスに染まってきたのか。

 傍から見たらどんだけワックスに染まりたいんだ思われる。ダブルワックス小僧。


(まぁ広樹ぐらいにしかバレなかったから、大丈夫だろうけどな……)


 結局今日1日で俺のワックスに気づいたのは広樹だけで、他のクラスメイトには全く気づかれなかった。

 一人だけオシャレ好きな軽音楽部の男子に「お?なんか今日違うな。朝エッチでもしてきたか?」と下ネタをぶつけられたぐらいで、俺のカモフラージュは堅牢なはずだ。

 おそらく誰も見抜けないだろう。リハクの目をもってしても。






 覚悟の6限を終え、放課後になった。


「こぼしたらえれーことだから、慎重に運んでな」

「うす」


 年配の用務員からワックスが入ったバケツ等々の道具を借りて、担当の教室へ向かう。

 ワックス掛けの他にも美化委員長としての仕事があるので、俺の担当は小さな教室だった。教師が言うにサイズ的には給湯室ぐらいのこじんまりとしたものらしい。

 そんな大きさのワックス掛けに人数は要らないので、俺と星乃の2人でやることになった。


「教室って実習棟の2階で合ってるよな?」

「……え?う、うん」


 こうして現在その教室に向かって廊下を歩いてるわけだが、さっきから星乃の様子がどこかおかしい。

 何かを話そうとしてやめてる、そんな感じがする。


(まさか、バレてるのかこの不本意のダブルワックス……)


 いやそんなわけはない。

 広樹ですら瞬時には分からなかったんだ、今さっき合流したばかりの星乃に分かるはずがない。

 きっとあれだ、ワックスの入ったバケツとか大きめのモップとか、俺が重たいものばっかり持ってるから、どれかと交換した方がいいのかなって声を掛けるのを迷ってるんだきっと。


「ね、ねえ神道くん」

「……っ!?ど、どうした?」


 思わずビクッとなってしまった。あぶねえ、ワックスこぼしかけた。

 星乃は立ち止まってどこかモジモジしている。


「えーと、なんていうんだろ……」

「ん?」

「その、

「星乃、もう教室まで近いから持ってもらわなくて大丈夫だありがとうさぁ行こう」

「えっ?う、うん」


 危うい単語が聞こえた瞬間、俺は星乃との会話を無理やり終わらせ再び教室へと向かう。

『今日さ』という始まり方から『道具をどれか持とうか?』とは絶対ならない。

 俺の儚い『荷物持ちの交換提案説』が潰えた瞬間だった。


 マジで気づいてんのかな星乃……ワックス判定士1級とか持ってんのかな。

 かくなる上は、もうこのバケツに頭ツッコんで有耶無耶にするしかないかもしれない。






 なんとか星乃の追及をごまかし目的の教室へ到着した。

 扉を開けると、既に中の机などは移動させてあるようだった。


「ホントに小さいなこの教室」

「うん。8畳ぐらい……なのかな?」

「すげえ、俺部屋の大きさ見てすぐ何畳とか絶対出てこないわ」

「いやいや、全然テキトーだよ。……それでさ神道くん」

「よーしまずは掃き掃除だな」


 振り切るように掃き掃除に入る。

 2回もやると若干の罪悪感があるが、しかし俺は逃げ切るしかなかった。

 おそらく星乃なら別にダブルワックスのことをそんなにイジっては来ないと思うが、純粋な質問として「なんで今日なの?」と聞かれても、納得させられる回答を持ち合わせていない。

 ホントになんとなくの気まぐれだったから。


 約8畳の掃き掃除は、2人でやるとあっという間に終わった。

 ワックス掛け用のプリントを確認する。


「次は『床の汚れと前のワックスを除去』をやって、その後ワックスか」

「あの機械は借りれなかったんだっけ?『ぬいーん』ってやつ」

「ぬいーん………?あっ、ポリッシャーか。あれは大きい教室で使うんだってさ」

「ふーん」

「……って言っても、もう十分綺麗じゃないか?」


 牛乳のような色をしたビニル床は、特に目立った汚れもワックスの残りもなさそうだった。

 さっきの掃き掃除も少量のゴミしか取れなかったし、教室に来た時既にもう机が片されてたので、もしかしたらワックスを掛ける以外の手順は済まされてたのかもしれない。


「んー……そうだね、汚れとかないよ?」


 星乃はしゃがんで床をよく観察する。


「だよな、もうワックス掛けちゃうか。………あ」


 ふと星乃の方を見たら、足元に星乃の物であろうやや長い髪の毛が1本落ちていた。

 さっきのしゃがんだ拍子にハラリと抜け落ちたらしい。

 その光景を見て、さっき道具を借りた時に用務員から言われた注意事項を思い出す。


「そういや星乃、ワックス掛ける時あんまり髪の毛が落ちないようにしろってさ」

「髪の毛?」

「髪が落ちた後ワックス掛けると、コーティングされて取れなくなるからだと思う。真空パックみたいな感じ」

「あぁー」

「まぁ帽子とか支給されてるわけじゃないから、あんまり髪の毛激しく動かさないようにするぐらいしかできないと思うけど」


 たぶん1本2本だったらあんま変わんないけど、無駄にはしゃいで髪の毛ポロポロ落としたら無惨なワックス掛けになるはずだ。

 そういった行動を抑止するための注意だったと思う。


「俺は短めだからあれだけど、星乃の綺麗な長い髪落ちたら目立つかもだから、一応注意しといてな」

「き、綺麗……うん……」


 少しうつむきがちになって星乃は返事する。

 やべ、キモいかもな今の。

 さっき星乃がしゃがんだ時、黒みがかった茶髪のセミロングが舞う感じが素直に綺麗だと思ったから、そのまま感想が出力されてしまった。


 ……ん?ちょっとまて、この話の流れだと。


「……神道くんも、今日なんか髪のあたりがいつもと違うよね。どうしたの?」

「………」


 墓穴を掘るとはこのことか。

 あとはワックスを掛けるだけなので、もうすぐ逃げ切れると思って油断した。


 やはり星乃は気づいてた。今日3人目の到達者。

 しかも髪のあたりと限定してきた。たしかに星乃とは1対1で話す機会が何度かあったが、その程度の関係値で気づくとは。

 やはり女子はこういうのに鋭いのかもしれない。

 ペアワークで比較的話す隣の席の女子も全く気づいてない様子だったから、男女の差異は無いと思ってた。


「い、いやその………」

「?」


 俺が答えに窮していると、星乃は不思議そうに首をかしげる。

 いや待て……まだ行ける。こういう時のために俺は冷静な思考力をバイトで培ってきたんだ。

 まだ負けてない、クールになれ神道蓮しんどうれん。きっとまだどこかに突破口が………はっ!そうだ!


「そ、そう!実は昨日、髪の毛切りに行ったん」

「あっ!ワックスだ!!」


 俺が起死回生の一手を打とうとした瞬間、星乃が弾ける笑顔で全てを見破った。


「神道くん、今日ワックス付けてるでしょ!それでキラキラしてたんだ!!」

「………キラキラ?」

「うん!いつもは『しゅらしゅら』って感じなのに、今日は『キラキラ』してるもん!」


 しゅらしゅら………キラキラ………。


 星乃の珍妙な表現に呆然とする。

 さっきの『ぬいーん』の時も思ったけど、なんだその擬音は。微妙に分からなくもないのが絶妙だ。

 そういえば今までもたまに擬音が独特な時があったような……。

 語彙力が優等生だからか?


「ね!合ってる?」

「………あぁ」

「やったぁ!」


 そんな無邪気に正解を待つ子供みたいにされたら、嘘なんてつけない。

 星乃は胸の前で小さく両手の指だけで拍手する。


 まぁいいか……。

 見破られた焦燥感よりも、見破ってきた星乃の洞察力に素直に感服する。俺もそのくらい観察眼が欲しいものだ。

 そう思いながら「そろそろワックス掛け始めようか」と言外に伝えるような雰囲気でモップを手に取ると──


「でも、なんで今日ワックス付けてきたの?」

「………っ」


 星乃のトドメが飛んできた。


「んー……あっもしかして、今日ワックスがけの日だか」

「それは違う、それは違うぞ星乃。違うんだ、断じて違うんだ」

「そんなに違うの?」

「あぁ違う。俺は決してダブルワックス野郎じゃない」

「ダブルワックス?」

「な、なんでもない……」


 辿り着いて欲しくなかった推論に全力で否定すると、思わず謎の単語も飛び出してしまった。

 女子相手に『ダブルワックス』とかいうバカみたいな単語を発してしまったのが、普通に1番恥ずかしかった。


「きょ、今日はたまたまそういう気分だったんだよ」

「ふーん。すごい偶然だね」

「……もういいから、そろそろワックス掛け始めるぞ」

「どっちのワックス?」

「おい」

「あはは」


 正解の興奮がまだ抜けきれないのか、星乃はおもちゃを見つけた子供みたいにころころと笑う。

 クレバーな星乃なら大人の対応でスルーするかと願ったが、思いっきりイジってきた。

 やはり風景の中の優等生じゃない、普通の子だ。


「ねぇ神道くん」

「ん?」

「その髪、似合ってるね」

「……どうも」


 広樹と星乃の褒め言葉以外、全てをワックスでコーティングして塞いでしまいたい。

 そんなことを思ってしまう1日だった。

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