8. 天野飯店
「シン!1-3の人はネギ抜きで頼むなー!」
「うす」
家庭ではまず握らない中華鍋を振りながら、3個先の伝票にある『ネギぬき』の文字に目を通す。
だいぶ高校生活にも慣れてきた4月の放課後。
俺は中華料理屋『
『天野飯店』は昭和な感じの店長とその奥さんの二人で経営してる、いわゆる街の小さな中華屋。客席から厨房の様子が伺える、テーブルとカウンター合わせて20席ぐらいのありふれた飲食店だ。
規模の小さい個人店なので、バイトは俺含めて二人。
今日はいないもう一人は、店長の親戚らしい大学生のチャラい兄ちゃん。だが見た目に反して普通にいい人。
時刻は夕食のピークを迎えたあたりで、店内はだいぶ賑わっていた。
「シンちゃん、半年ですっかり頼もしくなったわね~」
喧騒な店内とは打って変わって、非常に穏やかな店長の奥さんに褒められる。
店長は俺を『シン』と呼び、奥さんからは『シンちゃん』。今だけは春日部の園児の気分にさせられる。
「ありがとうございます。店長の速さには敵わないですけどね」
「そりゃあねぇ~あの人は鉄人だから」
うふふと穏やかに奥さんは笑う。
何気ない会話だが、よく考えたらありえないやり取りをしている。
俺が高校に入ったのは今月からなのだから、半年前はまだ中学生。基本的に中学生にアルバイトはできない。
中3の夏休み、1人暮らしの下見をしに来た時たまたまこの天野飯店に入った。
中学生がソロで入店するのは珍しいらしく、人懐っこい店長に散々絡まれながら食事した。
その時頼んだのはたしか餃子と酢豚だったがとにかく美味かった。自分で作るのとは次元が違うレベルに。
料理が趣味な俺は、せっかくだからレシピの一部だけでも聞けないかなと尋ねてみたら「じゃあ働くか?」みたいな話になった。
「いや俺まだ中学生ですよ」と返しても「店の手伝いってことならいいだろぉ!高校生になったらその時まとめて払ったるわ」というスレスレどころではないアウトな理論を店長に持ちかけられてしまった。
業務レベルで料理をするのは以前から興味があったし、降り注ぐ伝票を捌いていく飲食店のバイトはやってみたかったので「まぁ最悪怒られるのは俺じゃないだろう」というクソガキな理由でお世話になることに決めた。
天野飯店の一員になって約半年。
実際ここで働き始めてほとんどいいことしかない。
料理の知識は増えるし、複数の作業を同時にこなすマルチタスクの練習もできる。
それらを経験値を得ながらついでにお金も貰えるので、ここでの労働は俺にとって有意義でしかなかった。
まぁたまにめんどくさいことはあるけど。今みたいに。
「少年~!!この中華セットおかわり~!」
「……そういうノリでおかわりする料理じゃないですよ」
テーブル席に料理を運びに来たら、へべれけな常連のおっちゃんに絡まれた。
無謀な注文に思わず商売に不向きなツッコミを入れる。
麻婆豆腐とチンジャオロースとエビチリのセットだぞ。ビールのノリでおかわれるような注文じゃない。
俺が怪訝な態度をとっていると厨房から店長の声が飛んできた。
「だーいじょうぶだよシン、なんだかんだそのじじいは全部食うから」
「まじっすか?」
「当たり前よぉ~!俺の胃は、マザー・テレサの腹よりも深いんだぜぇ~」
「聖女のことを遠回しにデブって言うのはやめたほうがいいですよ」
不敬な発言を窘めながら伝票に注文を書く。
注文受けてしまったからには作らざるを得ないので、厨房に戻って調理を開始する。
ホントに料理が残らないのかという疑念の調味料を加えながら。
「シン、それ終わったら2丁目の病院と、3丁目の工場に配達頼むなー!」
「わかりました」
具材を冷蔵庫から取りながら店長から次の指示を受ける。
天野飯店は配達のサービスもやっている。
元々そんなに精力的じゃなかったが、俺が入ったことで本格的に注文を受け始めたらしい。
それでも基本俺しか配達に行かないし移動手段は自転車のみなので、ホントにおまけ程度のサービスだ。
頭の中に病院と工場の配達ルートをなんとなく考えながら、中華セットの調理を進めていく。
不敬な酔客に料理を無事提供し終えたので、配達の準備を始める。
調理場のエプロンのまま出てもいいらしいが、それだと普通に恥ずかしいので配達用のウインドブレーカーを羽織る。夜間に配達することが多いので、事故防止用にライムみたいな蛍光色のウインドブレーカーだ。
この出動前の準備を整えてる時間は戦隊ヒーローの変身シーンみたいでちょっと好き。わぁ、アクション仮面だぁ。
昼間はだいぶ暖かくなってきたがまだ夜は冷えるので、しっかりとウインドブレーカーの前を締め、いざ配達バックを背負って店の入口から春の夜に出る。
その瞬間、入店しようとした人とぶつかりそうになった。
「わっ」
「おぉっ、すいません」
「あっ、シンくんじゃん」
「え?あぁ、
お店のお客さんかと思ったら、『芽衣ちゃん』だった。
芽衣ちゃんは天野飯店の一人娘で、店長溺愛の愛娘。
しかしその愛は一方通行。悲しいね。
「これから配達?」
「そう。芽衣ちゃんは部活帰り?」
「うん、最後の大会近いから練習ながいんだよねー」
芽衣ちゃんは今年高校受験を控えた、中学3年の水泳部。
主将をやっているらしく、丸みを帯びたショートボブな黒髪はまさに運動系少女って感じだ。
ちなみに芽衣ちゃんは1個年下なのに、俺のことを『シンくん』と呼び敬語も使わない。
敬意がないとかじゃない。たぶん芽衣ちゃんは俺のことを同い年だと思ってる。
おそらく店長は俺の歳を彼女に伝えていないのだろう。大雑把な店長にそこら辺の気遣いができる機能はない。
俺自身別に年下にタメ口とか聞かれてもなんにも思わないし、このままでも特に弊害はないので誤解を解かずに放置している。
「あっ、配達遅くなっちゃうね。いってらっしゃい!」
「おう、いってきます」
歳の真相を知らない一人娘に見送られながら、配達用の自転車に足をかけ、夜の街に走り出す。
配達の業務も俺にとって経験値の玉手箱だ。
地図を読む感覚に強くなるし、配達のルート決めも柔軟に対応する力を求められる。ついでに運動にもなる。
業者への配達もしょっちゅうなので、普段行かないようなところへ行けるのも楽しい。工場の事務室とか病院の医局とか。この前なんてデパートのショーの裏側に入れた。
考えれば考えるほど、天野飯店のバイトは俺のためにあるようだった。
「でも病院から工場って、あっさりすげえ配達投げられたな……」
たぶん今日のバイトはこの配達で終いになるだろう。そのくらいの距離だった。
このくらい長いと、色んな思考が頭を巡る。
(そういえば……芽衣ちゃんはこんな暗い中一人で帰ってきてたようだけど、彼氏は家まで送ったりしなかったのだろうか)
さっき元気に俺を送り出してくれた芽衣ちゃんには、絶賛ラブな彼氏がいる。たしかもう1年ぐらい付き合ってるとか。
まぁ店長溺愛の甲斐もあって、見た目も中身も魅力的な女の子に育ってるから当然だと思う。
しかし残念ながら店長はその彼氏のことは知らない。悲しいね。
「でもそういえば、『女の子を家まで送る』って何歳ぐらいから意識し始めるんだろう……」
少なくとも俺は中学生の時にはその意識があった。
夜道を一人で歩く危険性は男女等しくあると思うし、非力な女の子なら当然危険度は上がる。
別にそこに中学生の男子が一緒に居たからって、実際問題何か起きた時戦力になるかと言われたら微妙だが、抑止力にはなる。
自転車の盗難と一緒だ。自転車のカギは盗難を阻止する力よりも、盗難を牽制する意味合いの方が強い。『盗むならカギを付けてない自転車の方を取れ』みたいな。
まぁこんな感じにつまんない考え事ばっかりしてた中学生だった俺だから気づけたのであって、普通に部活マンな中学生だと気づけなかったりするのかもな。
でも家まで送るっていう文化を知っても知らなくても、普通に感覚として彼女が夜道一人で歩くの心配じゃないのかな。俺なら心配すると思う。
だから恋愛はしない。
一人で帰らせた時に気を揉みたくはないし、けれど彼女を家まで送るとか時間の無駄すぎるし。
きっと俺は彼女との下校の待ち合わせに向かうよりも、病院の配達へ行くほうがウキウキする人間なんだと思う。
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