第42話 ゼロに近似できるんだから!


「それで、自分でつけてるの?」


「なんか、もったいなくて」


 小さく微笑んだ松崎の顔からは、情けない自分を卑下するような空気が漂っていた。


「先生にマフラーを渡せなくて、竹原さんに怒られたんです。うじうじするなって」


 竹原がそういうことを言うのは意外だった。


「そう……なんだ。それはなんというか、意外だったな。あ、意外っていうのは、竹原さんがそういう勝気なことを言うってところであって、あーでも、柊が私のことを……その、好きとか、そんなふうに思ってくれてるってのも意外……でした、はい」


 どうやら、私の脳の六割くらいは活動を停止していて、頭の悪い会話しかできないみたいだ。羞恥がこみあげてきて、つい下を向いてしまう。


「あはは……なんか、今さらですけど、恥ずかしくなってきちゃいました。共通テスト、頑張ります。それじゃ」


 松崎はそう言って帰って行った。


 え。どうしよう……。こういうとき、どうすればいいの?


 まったくわからないときは、そうだ、解説を見ながらとりあえず解答を一回丸写しして、それでもわからなければ……って、解説も解答ないじゃん。ダメだ……終わった。なんてアホみたいなひとりコントを繰り広げている場合ではない。


 ――俺は、鎌田先生のことが好きです。


 松崎の真剣な表情を思い出して、うわああああああああ! と叫び出したい衝動に

 駆られる。


「あれ、鎌田先生、まだ帰ってなかったの? 寒くない? 風邪引いちゃうから早く帰りなよ。じゃ、気をつけて。お疲れさま」


「はい、お疲れさまです」


 私の横をすり抜けるようにして駅へ歩き出した泉澤に頭を下げて、私はようやく、意識を取り戻した。




 共通テストが終わった。


 松崎の点数は、自己採点の結果、決していいとは言えないが悪くもない。


「これなら、大宮大学に挑戦できるね」


 安心はできないけれど、希望は十分にある。


「よかったです。これも先生のおかげですよ」


「そんなことないって。頑張ったのは柊だよ。でも、本当にいいの? この点数だったら、愛国大はかなり安心して受けられると思うんだけど」


「はい。もう決めたので」


「そっか」


 国公立大学への願書の提出までにはまだ時間があった。ギリギリまで考えることもできたが、松崎はもう決意を固めたみたいだ。


 さて、あとは……。ふと思い浮かんだ、この前の衝撃的な出来事を振り払って、私は自分がすべきことをしっかり確認する。


 これから、泉澤と柊の両親を交えた面談が行われるのだ。


「ところで先生、さっきから目が合わないんですけど、どうしてですか?」


 松崎の声が、耳元で小さく響く。なんか距離が近くないですか⁉


「それは……柊も知ってるでしょ。私の恋愛経験値なんて、ゼロに近似できるんだから!」


「ですよね。すみません。なんか、効いてると思うと嬉しくて」


 松崎の口元に小悪魔的な笑みが浮かぶ。


 ひえぇ……こんなに恐ろしい子だったのか……。


「逆に、柊はなんで平気なの」


「俺も別に平気ではないですよ。先生と話してるだけでドキドキします」


 そんな目で真っ直ぐにこっちを見るな!


 私は露骨に顔を反らす。


「でも、今は受験生なので、まずは真剣に、大学のことを考えないとですよね」


「そ、そうだね……。うん、ちょっと挙動不審になる部分もあるかもしれないけど、許して」


「わかりました」


 幸い、松崎から告白されたとき、受験が終わったら考えてほしいと言われている。つまり、私があれこれ考えなくてはならないのは、しばらく先のことだ。


 そうだったとしても、動揺しないでいられるわけではないんだよなぁ……。




「柊がいつもお世話になっております」


 松崎の父親が頭を下げた。仕事帰りで着替えずに来たのだろう。整髪料で髪を固めて、黒いスーツを身に着けている。誠実そうな印象だ。母親も同じように頭を下げる。張り詰めた雰囲気の中でも、柔らかい雰囲気を醸し出している。バランスがいいな、と夫妻をひと目見て思った。素敵な年齢の重ね方をしている二人だと感じる。


「本日はご足労いただきましてありがとうございます」


 塾長が丁寧に頭を下げ、私もそれに倣った。


「今日は、柊くんの進路について、ということでよろしいですか?」


「ええ」


 父親が神妙な顔でうなずく。


「じゃあ、まず柊くんから、率直な気持ちを話してもらいましょうか」


 泉澤が塾長らしく場を仕切る。


「はい。俺は、大宮大学に行きたいです。まだ小学生で、勉強する意味とかがあまりわからなかったとき、尊敬する先生に言われたことがあるんです。『勉強の面白さが、そのうちわかると思うよ』って」


 私の心臓が跳ねた。まさかここで、そんな昔の話が出てくるとは思わなかった。


「その言葉が、すごく印象に残ってました。だから、どれだけ嫌だって思っても、最低限、授業についていけるくらいに勉強はしてました。勉強なんて面白いわけないじゃんって、ちょっと思ったりもしましたけど……。でも、今ならちゃんとわかります。学ぶことの面白さとか、この世界にはまだたくさん知らないことがあるってこととか。少しでもたくさんのことを学びたいと思ってます。あと、大宮大学は、俺の尊敬する人の出身大学でもあります」


 最後の言葉で、落ち着きかけていた私の心臓が、再び鼓動を強めた。


 塾長が生暖かい視線をよこす。こっち見るな! なんだその、よかったねとでも言いたげな顔は! そうだよ、よかったよ! めちゃくちゃ嬉しいよ!


「大宮大と愛国大で、やることはそんなに変わらないんじゃないかと思うのですが」


 松崎の父親が言う。


 たしかにその通りだ。どこの大学にいくかというのも大事だが、それ以上に、大学で何をするかが重要になってくると思う。その点を考えれば、松崎が学びたい分野であれば、どちらの大学にも専門とする研究室はある。どちらかに、飛びぬけて権威のある教授がいる、というわけでもない。


 だけど――。


「少しでも上を目指した、という経験は、今後の人生で、大きな財産になると思います。まだ三十にもなってないくせに、何を言ってるんだって思われるかもしれませんが」


 私は緊張しつつも、はっきりと答える。


「それはわかりますが、もう少し、現実的な話をさせていただきたいのです。柊は、私立の受験はしていません。そんな状況で、受かるかどうかもわからない大学を受験するというのは、無謀だと考えます。国公立大学なら後期試験もあるとは思いますが、競争率は高くなるのではないでしょうか」


 松崎の父親は、無表情で言葉を並べる。

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