第33話 番号が素数の人、一気飲み!
気まずい空気が流れる。
松崎の顔を見るのが怖くて、私は参考書を開いて視線を移した。
私は自分のことを、平均よりも理性的だと思っていた。それなのに今、自分で自分を制御できていない。私の自己評価は間違っていたのだろうか。
恵実あたりに相談したかった。けれど、自分の気持ちがわからないまま相談したところで、きっとどうにもならない。
これは他の誰でもなく、私の問題だ。
私はそれから、ほとんど無心で授業を行った。
それから数日が過ぎても、胸にあるモヤモヤは消えてくれなかった。
「なんか、最近の鎌田先生の授業、面白くないんじゃないっすか?」
今年最後の授業が終わってから、笹垣にそんなことを言われた。
「いつもはさ、すっげー楽しそうに授業するじゃないっすか。でもここ最近、ただ仕事だからやってる、みたいな空気を感じるんすよね」
図星だった。
学ぶことの楽しさを教えたい。そう思って塾の講師になったのに、本質さえ見失ってしまっていた。
「あ、もちろん、それでもちゃんと授業してるってのはわかってますよ」
フォローを入れてくれる。粗雑で適当そうに見えて、しっかり人を見ているのが笹垣のずるいところだ。
「そう……ですね。すみません」
「なんかあったんすか? 生徒たちも心配してますよ」
「心配?」
意外な単語が出てきて、私は首をひねる。失望されているものだと思っていた。
「鎌田先生の授業を何回も受けてれば、本当の鎌田先生が今の状態じゃないことくらいわかりますって。何人かの生徒が、あたしに言ってきましたからね。鎌田先生、大丈夫かなーって」
その中に、松崎は入っているだろうか。入っていたらいいな。待って今のなし。どうしてそこで松崎が出てくるの? 思考をリセットしないと!
「本当にみんな心配そうでしたよ。『まあでも、そろそろ後がなくなるのに男にフラれたんだからしょうがないよねー』って言ってました」
「笹垣先生、それ言ってた人の名前、ちょっと教えてもらえます?」
誰が、もう後がない余りものの独身アラサー女だって?
「あはは、いつもの鎌田先生がちょっと戻ってきましたね。ちなみにそれ言ったのあたしです」
笹垣が悪びれずに舌を出す。こいつ……。
「ま、そんなわけで生徒たちもあたしも心配してるんで、早くいつもの調子に戻ってくださいね~」
どうやら、生徒たちはこんな私のことを心配してくれているらしい。安心はしたけれど、このままではダメだということもわかる。他人に、それも一回り以上も年下の子どもたちの優しさに甘えているようでは、社会人失格だ。
「できるだけ善処します」
「断言しないところが鎌田先生らしいっすね」
「できない約束はしない派なんで」
私だって、一刻も早く穏やかな日々を取り戻したいのだが、自分の感情すら見失ってしまっている状況なのだ。もちろん、胸の内にあるモヤモヤを晴らせるように努力はするけれど、人の心はたぶん、私が思っているほど単純でもない。
「よし! それなら、合コンでもしますか」
接続詞の使い方がおかしい。
「え。合コンは、ちょっと……」
知らない人間と話すのでさえ怖いのに、恋愛的な関係への発展を前提とした集まり何て耐えられるわけがない!
「呼べそうな男が十二人くらいいて、写真と簡単なプロフィール見せるんで、そっから三人くらい選んでもらっていいですか?」
「そんなに? 組み合わせが二百二十通りもあるじゃないですか」
「計算早いっすね。鎌田先生、王様ゲームで『番号が素数の人、一気飲み』とかやりそう」
「やりません」
「じゃあどんな命令します?」
「うーん……『十二の約数の番号の人が五番の人に一万円渡す』とかですかね。もちろん私が五番を引いてる前提で」
「それ、六人だったら全員じゃないですか。横暴すぎてウケるんですけど」
「あ、『自分の番号の元素食べる』とかどうよ」
「三番と四番がかわいそう!」
バカバカしい会話をしたら、少し元気が出た。
「あ、もうこんな時間。それじゃ、あたしそろそろ帰りますねー。よいお年を」
「ん、よいお年を」
笹垣はきっと、私を元気づけようとしてくれていたのだろう。ジャージの上から暖かそうなコートを羽織った彼女の背中に向かって、聞こえないように「ありがと」と呟いた。
明日から年末年始の休みが始まる。その間にしっかり気持ちを切り替えて、来年からまた頑張ろう。
正月に、大学の同級生たちで集まった。集まった、といっても、私と恵実と
「ねー、
桃華が言って、心臓が跳ねるように脈を打つ。彼女は水谷さんを紹介してくれた当の本人だ。
「え、何を?」
悪く言われていたらどうしよう。水谷さんはそういう人ではないだろうけど……。
アルコールで頬を染めていつもよりも女性らしくなった桃華の表情からは、彼がどんなことを言っていたのか、推測することはできない。
「玲央、水谷くんのこと、フったんだって?」
予想の斜め上どころじゃなく、二つくらい次元の違う話を、桃華は切り出した。
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