第32話 幸せそうで何より


 姿を見せたのは、竹原結佳だった。


 隠れる私の十メートル前で、松崎と竹原は並んで歩き始めた。


 ドウシテ。フタリガ。ヤスミノヒニ。イッショニイル?


 脳内が日本語を覚えたての外国人みたいになった。偶然会ったのだろうか。いや、そんな雰囲気ではなかった。だとしたら、待ち合わせていたことになる。これは世間一般ではデートと呼ばれているものではないか。ふむふむ。そうか。デートか。


 いつの間にか私の足は、彼らの後を追っていた。娘の後をつけた塾長の気持ちが少しだけわかったような気がした。


 松崎と竹原は、私がさっきマフラーを買ったお店よりもお洒落な雑貨屋に入って行った。棚を見て何かを話している二人は、どう見ても、買い物を楽しんでいるお似合いのカップルだった。


 ……なるほど。そういうことだったのか。


 私は納得した。


 竹原の相談の内容。


 彼氏に、遠距離になってしまうことを理由に、別れを切り出された。


 愛知の大学を目指す松崎の推理。


 彼氏は、彼女に嫌われるのが怖いのではないか。


 あれは、推理でもなんでもなかったのだ。


 松崎こそが、竹原の彼氏だったのだから。


 竹原の嬉しそうな報告。


 お互いに本音を話し合って、交際が続くことになった。


 つまり今も、松崎と竹原は付き合っているのだ。


 そうかそうか。幸せそうで何よりだ。


 塾でも、二人はたまに言葉を交わしているが、同じ塾に通う同級生以上に親密な関係だとは思いもしなかった。


 二人に気づかれる前に帰らなくては……。


 目的のものであるマフラーはもう購入してある。他に用事はない。


 一人で歩く帰り道。私はどうしてか、モヤモヤした気持ちを抱えていた。


 どうして、こんなにショックを受けているんだろう。


 恋人のいない私が、クリスマスを幸せそうに過ごす二人に対して嫉妬している。


 年下の子どもを相手に、そんな気持ちを抱くのはとてもみっともないことだけど、そういうことにしておいた方がいい気がする。


 それとも――目を反らしていた自分の気持ちに、向き合わなくてはならないのだろうか。


 竹原の隣で楽しそうに話す松崎の笑顔が、瞼の裏に貼りついてはがれなかった。




 時間の流れは残酷で、気持ちの整理が追いつかないまま、新しい一週間が始まってしまう。


 ショッピングモールに二人でいた松崎と竹原のことが、頭からなかなか離れない。


 三時間目は松崎の、四時間目は竹原の授業だった。社会人として、しっかりしなくてはならない。公私混同してはいけない。


 そもそも、私は何も見ていない。あれは夢だったのだ。そう言い聞かせている時点で、私の心はごちゃごちゃであることがわかる。


 二時間目の今、二人とも授業はないが、自習スペースで問題集と向き合っている。


 お互いの距離は近くもなく遠くもない。会話もなければ、目を合わせることもない。とても親密な関係には見えなかった。


 自習スペースには高校三年生の二人だけでなく、中学三年生も数人いて、各々が志望校の過去問を解いていたり、英単語長をめくっていたりする。触れたら壊れてしまいそうな、張り詰めた空気が漂っていた。


 受験が近づいてきている。


「先生、終わったよ!」


 坂本の声で我に返る。


「はいはい。今いくね」


 最近、米原たちの中学二年生トリオは、集中して授業を受けている。受験勉強をする先輩たちを見て、一年後には自分たちも受験するのだという自覚が芽生えてきたのだろう。いいことだ。私も授業に集中しなくては。


 米原たちの授業を終え、評価シートを書き終える。


 三時間目は松崎の授業だ。松崎が自習スペースから移動してくる。


「あれ。先生、そのマフラーどうしたんですか?」


 彼は、壁にかかっているマフラーを見て尋ねた。私が昨日買った新しいマフラーだ。この塾にロッカーのような設備はないため、コートと一緒に近くの壁にかかっていた。


 普段なら、こういった変化に気づいてくれるのは嬉しい。しかし今日は違った。


「昨日買ったの。友達と東京に遊びに行ってきて、そこで」


 とっさに嘘をついた。私にしては気が利いている。少し虚しいけど。


「そうなんですね」


 松崎は微笑みながら言った。


 なんとなくだけど、その表情はいつもの彼とは違う気がして――。


 私が昨日、ショッピングモールにいたことに気づいていないのだから、それは私の気のせいでしかあり得ないのだけれど。私は彼が竹原と一緒に買い物をしていたことを知っているので、その微笑みが、嘲笑に思えてしまった。


「何笑ってるの?」


 とげのある口調になってしまった。


 違う。責めるつもりなんてないのに。


「あ、いや。なんか先生が可愛いもの買ってるのが意外で」


「悪かったね。可愛げがなくて」


 これも違う。冷たくしたいわけでもない。


 だけど、今の私は自分の感情をコントロールできていなかった。


 これじゃあ、好きな子の前で素直になれない男子みたいだ。


「そんなことは言ってませんって。その、先生は、可愛くなくなんて、ないと思います」


 照れたように小さく言った松崎に、不覚にもドキッとしてしまう。同時に、私の気持ちも知らないで、という苛立ちも感じた。


「大人をからかわないで。授業始めますよ」


 また冷たい言い方になってしまった。


 照れくささと苛立ちが複雑に絡まって、ほどけなくなる。


 昨日、彼女と二人で出かけていたくせに。そんなことを想ってしまう私は、とても醜いと思った。


 鼻の奥がつんとして、少し泣きそうになる。


 自分で自分の気持ちがわからない。


「はい。……すみません」


 謝らせてしまった。そんなつもりではなかった。私も謝らなくては、と思ったが、どういうふうに謝ればいいのかわからなかった。

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