第30話 自分が傷つかないために


 竹原の恋愛相談を受けた翌日、土曜日の四時間目。松崎の授業。


「もしも、恋人と遠距離になることがわかってるときってさ、別れようと思う?」


「どうしたんですか、突然」


 松崎は驚いたように答える。


「いや、友達がちょっと悩んでるみたいなんだ。その子、付き合ってる彼氏が、来年度に東京から北海道へ異動することになったんだって。距離は遠くなるし、お互いに忙しいから、なかなか会うこともできなくなる。それで、その子はどうするか迷ってるらしいんだよね」


 そんな友達はいない。竹原のことだということは伏せて、さらに年齢や場所などでも嘘をつかせてもらう。


 松崎と竹原は、私が見ている限りだと、たまに雑談をする程度の仲だ。恋愛相談などの個人的な話をするような間柄ではないけれど、念には念を入れておく。


「彼氏さんは、なんて言ってるんですか?」


「彼氏の方は、遠距離は耐えられないから、お互いのためにも別れようって言ってるんだって」


 お互いのためにも。とても便利で都合のいい言葉だと思う。同時に、とても卑怯な言葉だとも。


「北海道は遠いですもんね」


「まあ、そうね」


 やっぱり、物理的な距離というのはどうしても障害になる。本当は北海道じゃないけどね。


「でも、私はその彼氏のこと、自分勝手だなって思う。ちゃんと彼女のことが好きなら、離れてたって関係を続けることはできるんじゃないかな。どうしても、優しい言葉で騙してるように思えちゃうんだ」


 距離が理由で上手くいかなくなるくらいなら、最初からその程度の関係だったのだ。今では電話もメールもある。新幹線だって、飛行機だって、高速道路だってある。距離なんて些細なものだと、私は思う。


 けれども、距離が理由でダメになってしまうカップルが多いことも知っている。やっぱり、私は現実を甘く見ているのだろうか。


 数秒の沈黙が流れて、


「もしかすると、彼氏の方は怖いのかもしれないですね」


 松崎がぽつりと呟いた。


「どういうこと?」


「彼女さんの方から離れて行ってしまうかもしれないのが、怖いんじゃないかって、そう思ったんです。その彼女さんを大事にしているのなら、なおさら。だから先に、自分から別れを切り出した。自分が傷つかないために。人って、臆病だから。……なんとなく、そんな気がするんです」


「そっか。臆病……たしかにね」


「もちろん、全部想像なんですけど、俺もそういうとこあるんで」


「そうなの?」


「はい。結構、臆病な人間なんです」


 彼はどちらかというと、やると決めたらやり切るタイプだと思っていたので、少し驚いた。


 松崎の台詞には実感がこもっている。


 もしかして……松崎も今回の竹原のように、相手のことが好きだからこそ距離を置きたいと思ったことがあるのだろうか。だとしたら、私が知らないのはなんとなく面白くない。


 恋愛のことなんて、本当に親しい人にしか話さないだろう。だけど、私は彼とかなり親しいと自負しているんだけどなぁ。


 って、どうして私は拗ねかけているのだろう。ただの講師と生徒という関係なのに。


「あ、すみません。なんか生意気なことを言ってしまって」


 私が黙り込んでいると、松崎が慌てたように付け足した。


「ううん。大丈夫」


 彼の言いたいことは私にもわかった。


 上手くいきすぎてて怖い。


 高校のとき、好きな人と付き合い始めた友達が、そう言っていたことを思い出した。当時はただの自慢だと思っていたが、半分くらいは、本当に怖かったのかもしれない。


 人の気持ちは移り変わるものだから。それは、人間が意思のある生物である以上は仕方のないことなのかもしれないけれど、虚しくて切ないと思う。


「だとしたら、二人ともお互いのことが好きなのに、すれ違っちゃってるよね」


「そう……ですね」


 やっぱり、恋愛は難しい。


 そもそも、部外者が細かいところまで助言できるわけがないのだ。本人たちにしかわからないことがある。今まで二人が積み上げてきたものや、お互いの好きなところ、嫌いなところ。一緒に過ごしてきた日々で見つけた幸せ。そういったものは、当事者にしかわからない。


 お互いに本音で話し合ってみたら? という私のアドバイスは、案外、的を射ていたのかもしれない。


「そういえば先生、前から思ってたんですけど、そのマフラー、ずっと同じの使ってません?」


 松崎が、壁にかかっている私のマフラーを見る。


「あー、なんか、新しいの買うの面倒で。でも、さすがにそろそろ買わなきゃだよね」


 紺と白のチェック柄のマフラーは、毛糸がほつれていて、近くで見なくてもボロボロになっていることがわかる。持ち主の私ですら、どのくらい前から使っているかわからない年代物だ。


 松崎は私のマフラーを凝視している。だんだんマフラーが、私のだらしなさそのものみたいに思えてきた。そんなに見られると恥ずかしくなってくる。


「よし、そろそろやろっか」


 わざと大きめの声を出して、彼の注意をマフラーから逸らした。




 そして、翌週月曜の四時間目。


「先生、この前はありがとうございました。昨日、彼と話をしました」


 授業を始める前に、竹原は再びお礼を言った。すっきりしたような笑顔だった。


「うん。それで、どうなったか聞いてもいい?」


 すがすがしい笑顔の理由が、遠距離で付き合い続けることになったからのか、きっぱり別れることになって気持ちを切り替えられたからなのかはわからなかった。

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