第2章 娘の彼氏
第15話 月給五万円アップしてください
「いや~、聞いてよ
「どうしました、塾長?」
私は小テストの採点をしながら返事をする。
この口調はおそらくのろけだ。顔を見なくても、声だけで表情が緩み切っているのがわかる。
「昨日、嫁がね~」
ほら始まった。
私の勤める塾の塾長である四十七歳の
奥さんとは大学の同級生で、同じバンドサークルだったという。塾長はギターで、奥さんはボーカルだったらしい。
結婚式では自作の曲の弾き語りを披露し、奥さんは泣いて喜んだとのこと。
どうして私がそんなに詳しいかというと、何度も彼ののろけを聞かされているからに他ならない。話を聞く限り、今でもラブラブのようだ。
私も塾長の奥さんには何度か会ったことがあるが、とても綺麗な人だった。
「こんな夫ですが、よろしくお願いしますね」と、とても上品に微笑んでおられた。
そして塾長はといえば、どこにでもいるような普通のおじさんである。身長は低くもなく高くもない。少し白くなった髪に、眼鏡をかけた穏やかそうな顔。私がこの塾で働き始めたときと比べて、お腹も出てきた気がする。
この美女と野獣な夫婦を見ると、私も素敵な男性と結婚できるのではないかと錯覚してしまう。でも、現実はそんなに甘くないのだ。正直、死ぬほど羨ましい。
「――って感じでさぁ~」
泉澤塾長は週に一度のペースで、奥さんと自分がいかに仲良しかを語りかけてくる。
奥さんの作った弁当が天才的に美味しかっただとか、肩をマッサージしてもらって羽が生えたように軽くなったとか、内容はそういった些細なことだ。その内容の薄さが逆に仲の良さを証明しているようにも思える。
今回は膝枕をしてもらっていたらいつの間にか寝てしまっていたという話だった。要約すれば三秒もかからない話を、冗長極まりない心情描写を交えながら、泉澤は十分ほど語っていた。私が校正だったら八割くらいトルにする。
「結婚はいいよ~。鎌田さんも早くいい人が見つかるといいね」
泉澤ののろけは、最終的にはそこに落ち着く。
「それ、セクハラですからね。月給五万円アップしてください」
私のこの返答も決まりきったものだ。別に泉澤の言葉が不快というわけではない。
というか、こちらからもさんざん、結婚したいーとかそういうことを世間話で言っているのだ。泉澤の方も、私だからそういう軽い冗談的なやり取りをしてくるのだろう。
「月給アップかぁ。今年、鎌田さんが受け持ちの生徒が、全員志望校に合格したら考えようかな……」
「録音するのでもう一回言ってください」
スマホをポケットから出しながら私は言うが、泉澤は下手な口笛を吹いて目を反らす。このオヤジ……。
すでに八年ほどの付き合いになる私たちの間には、上司と部下というよりも、年の離れた友達みたいな距離感があった。塾長という肩書とは裏腹に、泉澤はとっつきやすい人間なのだ。悪く言えばなめられやすい。小学生や中学生にタメ口を使われていることもしばしば。
しかし、塾講師としての指導力は本物で、ポイントとなる箇所をしっかりと複数回に渡って教え込み、生徒たちの学力を上げている。保護者からの信頼も厚い。普通にすごい人である。
「そういえば、まどちゃんは元気ですか?」
それは何気ない私の質問だった。
泉澤まどちゃん。泉澤家の、高校二年生の娘さんだ。彼は愛妻家だが、一人娘のことも溺愛している。まさに〝溺愛〟という言葉がふさわしい。
泉澤は、休日や夏休みなどの学校が長期休暇のときに、たまにまどちゃんを塾に連れてきて勉強させている。個人経営の塾なので、そういったところはかなりゆるい。
まどちゃんも大人しく勉強しているし、たまに小学生の生徒に勉強を教えたりもしている。むしろ戦力になっている部分すらある。将来はこの塾を継がせようと考えているのかもしれない。
まどちゃんはとても可憐な女の子だ。大切に育てられてきたのが伝わってくる。私は彼女のことを小学生のときから見ているため、今では親戚の姪っ子のような感覚だ。
泉澤の期待通りの成長をしていると言っていいだろう。父親が過保護であることを少しうざがってはいたけれど、それだって思春期の女の子にしては可愛い方だと思う。
私は最近まどちゃんと会っていなかったので、元気かな、と思い質問してみただけだったのだが――
「あー、まあ、元気だよ」
泉澤は歯切れの悪い返事をした。
……おかしい。
「何かあったんです?」
いつもならこっちが聞いていないことまでべらべら喋ってくるのに……。
「うん。まあ、ちょっと……ね」
今までも、まどちゃんのことに関して泉澤が凹むことは何度かあった。
父の日に毎年くれていた手紙をくれなくなったとか、授業参観に行ったら嫌そうな顔をされたとか、とても些細なことだ。それはさほど深刻ではなく、塾長の方も軽く落ち込むくらいだった。
けれど、今回は少し違う気がする。いったいどうしたのだろうか。
「私でよければ聞きますよ。テストの採点も終わったことですし」
赤ペンのキャップを閉め、泉澤の方へ向き直る。
「本当? 給料は上げられないけどいい?」
「別にいいですよ」
できれば上げてほしいけど。
「お金持ちのイケメンも紹介できないよ?」
私をなんだと思っているのだろう。できれば紹介してほしいけど。
「最初から期待してないですよ。で、どうします? 授業まで少し時間もありますから、今でもいいですけど……」
「うーん。ちょっと長くなるかもしれないし……。今日の授業が終わったあと、少し話を聞いてもらってもいいかな?」
助けを求める子犬のような目になっている。きっと、思春期の娘を持つ男親は私が思っている以上に悩みがあるのだ。
「わかりました」
面と向かっては照れくさくて言えないけれど、泉澤にはいつも世話になっているので、それくらいのお礼はしてもいいだろう。
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