第13話 ビールぶっかけるぞ


「あ、えっと……それでは、千円だけいただけますか?」


 水谷さんは伝票を見ながら、少し焦るように答えた。もちろん実際は、私の分の金額は千円よりも多い。


「はい。では、お願いします」


 私は野口さんを一枚差し出した。


「すみません。ありがとうございます」


 彼は困ったように、そして心配そうに笑った。きっと、私が財布を出さなければ、全額支払うつもりだったのだろう。こういうときにどうすればいいかよくわかっていない感じを正直に表に出してくれるところがとてもよかった。


 まあ、その辺りは私もよくわからないんだけどね。


 人気女性誌曰く、男を立たせるために全額払ってもらうのがいいが、せめて財布を出す素振りをしろ。


 恋愛系ネット記事曰く、デキる女は、自分の分はしっかり払うべし!


 いや、どっちやねん! 結局、自分で考えろってことですよね。




 駅までの道を、二人で並んで歩く。


 私より十センチほど背の高い水谷さんは、たぶん歩くスピードを合わせてくれていて、そんな優しさが心にほんのり沁み渡る。


「今日はありがとうございました。楽しかったです」


 水谷さんが微笑みながら言う。


「え、本当ですか?」


 いや、本当ですかって何だよ。そこは、私も楽しかったです。にこっ。でいいじゃん。そういうところだぞ。などと、私の思考は自分にダメ出しをする。


「ええ。最初は緊張して、なかなか上手く話せなかったんですけど、鎌田さんも同じようなペースで話してくださるので……。とてもありがたかったです」


「あ、そうなんですね」


 恵実に教わった、男性を喜ばせる女のさしすせその〝そ〟を使ってみる。でも絶対にこのタイミングではないな……。会話って難しい


「もしよかったら、また今日みたいに食事でも」


「はい。ぜひ!」


 今の時点ではまだ、水谷さんとどういった関係になるのかはわからないけれど、これからの未来に期待を抱いてしまう程度に好印象だったのは確かで、私は二つ返事でうなずいた。


「では、僕はこっちなので。お気をつけて」


「はい。ありがとうございました」


 それぞれ別の路線だったので、私と水谷さんは駅の改札で別れた。


 電車に乗り込んで空いていた席に座ると、疲労感がどっと押し寄せてくる。


 今回のデートは、おおむね成功だったと言えるのではないだろうか。ところどころ、細かいところで変な人みたくなってしまったのは仕方ない。むしろ、初々しさがプラスに働いていたような気もする。


 また食事でもって言われたし、その次はきっと、食事だけじゃなく、どこかに遊びに行ったりして、そのままなんとなくいい感じの雰囲気になって、交際に発展しちゃったりして……。で、一年くらいで結婚して……。温かい家庭を……。


 って、待て待て待て。落ち着け私。なんだその妄想は!


 BGMとして脳内を流れていたゆったりした音楽が、突然、不気味なものに切り替わる。


 今までいい感じになった男どもを思い出せ。


 まともな人間だったことが今まで一度もあるか? いや、ない。


 きっと水谷さんにも何かあるんだ。


 実はカツラだとか、野菜が一切食べられなくて醤油ラーメンのネギだけ残すとか、酔ったら突然ブレイクダンスを踊りだして嘔吐物をまき散らすとか。


 そんなふうに疑ってしまう自分が悲しいけれど、後悔するよりは全然マシだと思う。ごめんなさい、水谷さん。どうか、本当に何も問題のない人であってください。もしそうだったら、喜んで謝罪させていただきますので……。




 恵実の悩みを聞いたのが、先週の日曜日になる。その翌日の月曜日には松崎がその謎を解き、火曜日には恵実に推理を伝えた。


 そして水曜日に、友人の紹介で知り合った水谷さんと食事に行った。


 木曜日から土曜日まで、塾の講師としていつも通り労働をこなし、日曜日、つまり現在、恵実と再び待ち合わせしている。


 恵実とは、こうして二週間と間を空けずに会うこともあれば、三ヶ月くらい会わないときもある。今回は、恵実が旦那の件でお礼を言いたいということで夜ご飯に誘われた形だ。もちろん私は、理由がそれだけでないことを察していた。


 少し早めに着いたので、先に店に入って飲み始めていた。ビールが美味い!


 十五分くらいしてから恵実が現れる。


 白いブラウスに黒のパンツという、オフィスカジュアルな服装。隙のないメイクも相まって、いかにもできる女といった感じの雰囲気をまとっている。


 恵実が私に気づいて近づいてきた。


「や、今日も独身オーラ全開だね」


「あ? ビールぶっかけるぞ」


 恵実のいきなりの罵倒にヤンキー口調で応戦する。


「やだ~。怖ぁい」


 恵実は一オクターブ高い声で怖がりながら、向かい側の席に腰かけた。

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