第9話 結婚っていいなぁ……


「旦那さんはたぶん、スマホゲームに熱中しているんだと思います」


「スマホゲーム?」


 予想外のワードが出てきたので、思わず聞き返してしまった。


「はい」




「鎌田さん、今日もお疲れさま」


 塾長の泉澤いずみさわが言った。彼は中学受験を控えた小学六年生の見送りを終えたところだ。


「お疲れさまです」


 泉澤憲造けんぞうは十年ほど前に、勤めていた大手の予備校を退職し、この塾を開いた。綺麗な奥さんがいて、高校生の娘と三人で暮らしている。五十歳らしいが、とてもそうは見えない。登山が趣味ということもあり、全体的に若々しい。


「あ、そうだ。一つだけ、聞きたいことがあるんです」


「何かな?」


 恵実のことについてだった。


 さっき松崎から聞かされた仮説は、どこにも矛盾がなく、私も納得するものだった。しかし、だからといって、恵実の旦那が浮気をしていないと断定することはできない。


 誠実な人間だという印象はあったけれど、他人のことなんて、すべてを理解することは無理なのだ。


 松崎の推理が合っているかどうかは別として、信じたい人間を信じ切ることができない状況にあるとき、人はどんな気持ちになるのだろうかと、疑問に思ったのだ。


 昨日の恵実は、どうすればいいのかわからない様子だった。


 問い詰める。見て見ぬふりをする。探りを入れる。


 思いつく選択肢は色々あったけれど、どれも間違っている気がした。


 恵実は、いい意味で女子らしくないサバサバした性格で、知りたいことがあれば、たとえ聞きづらいことでも正直に言葉にするような人間だ。


 それなのに……。


 ――結婚って、いいことばっかじゃないよ。私も最近ちょっとね……。


 昨日の恵実の悲し気な表情が脳裏に焼きついている。


 私には、恵実と同じような状況に陥ったことがなかった。というかそもそも、恋愛の経験自体がない。あれ、私まで悲しくなってきたな。


「もし、奥さんが浮気をしているかもしれないとしたら、塾長はどうしますか?」


 だから、他の人に聞いてみようと思った。ただそれだけだったのに。


「妻が……浮気を? まさか、そんなことが……そんな馬鹿なことがあるわけが……」


 どうやら、質問する相手を間違えてしまったみたいだ。


「だから、もしもの話ですって! 塾長の奥さんは塾長のことが大好きなので大丈夫です! 絶対に」


「そうだよね。うん。それはわかってるんだ」


 と、さりげなくのろける。


「しかし、仮定の話だとしても、こう、つらいんだ。妻が、私以外の男にあの笑顔を向けていることを想像するだけで、心臓発作が――」


「あ、じゃあもう大丈夫です。今度こそお疲れさまでしたー」


 左胸を抑えてうずくまる泉澤に背を向けて、私は帰路についた。


 時刻は二十二時すぎ。塾から家までは自転車で十分ほど。


 途中で深夜まで開いているスーパーに寄り、安くなったお惣菜を買って帰ると、時刻はだいたい二十三時。


 ご飯は、炊くか、冷凍してあったものを解凍するか。合間に洗濯やお風呂掃除をしながら、食事の準備。


 パソコンでネットサーフィンをしつつ、効率よくすべきことを詰め込んでいく。夜中の三時までには布団に入り、一人で寂しく眠る。


 私は、大学を卒業すると同時に一人暮らしを始めた。実家までは二駅ほどだから、あまりする意味もないような気もするけれど、精神的に自立したかったのだ。一人で全部のことをするのは意外と大変で、親のありがたみがわかった。


 そしてそれ以上に、家に一人でいるというのは、意外と寂しいもので。


 結婚っていいなぁ……。


 そんな気持ちは年々膨らんでいる。




 恵実の悩みについて松崎に相談した次の日。つまり、彼女と飲んでから二日後、私は電話をかけた。


 私が起きるのは基本的に午前十時ごろだ。塾の講師という職業の都合上、どうしても生活は夜型になってしまう。


 恵実がちょうど昼休みのタイミングでコールする。


〈もしもし〉


 恵実の声は、心なしかこわばっていた。事前に、旦那さんの件について話す、とメッセージを送っていた。


 私は松崎の推理を彼女に話して聞かせる。


 浮気ではないという確証はないけれど、旦那さんはスマホゲームにはまっていて、それなりのお金を使っている可能性がある。


 隠したカードというのは、ゲームに課金するためのプリペイドカードではないか。


 月曜日にスマホをいじらないのは、ギルドポイントの集計が行われているためではないか。


 帰りに買ってきた大きな箱は、そのゲームの関連グッズなのではないか。


 一つずつの説得力は低いけれど、まとめるといかにもそれらしく思えてくる。


〈スマホゲームかぁ。その発想はなかったな〉


 恵実の声は、幾分か柔らかくなっていた。少しでも安心してくれたのならよかった。


「私も思いつかなかったんだけど、うちの生徒がね」


〈ちょ、あんた、生徒に話したの?〉


「別にいいじゃない。こうして解決の糸口がつかめたかもしれないんだから」


〈まあ、いいけどね。とりあえず、ちゃんと旦那と話してみるよ〉


「頑張って。心臓発作起こさないようにね」


〈心臓発作?〉


「なんでもない。こっちの話」


〈ああ、うん。そういえば玲央、あれ、明日だったよね?〉


「へ? あれって?」

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