第7話 コミュニケーション初心者


「できました」


 松崎は小さく息を吐いて、背伸びをしながら言った。


 九十分間ある授業のうちの、ちょうど四十分ほど経過したところだった。


「はいはい。……うん。できてるね。不安なところとかあった?」


 それなりに難しい積分の問題だ。積分の知識はもちろん、三角関数の知識も必要になってくる。


「ここの置換なんですけど、正しく覚えられてるか不安でした」


「あー、ここか。tan(x/2)をtって置くことだけ覚えてれば、導出はできるはずだけど、時間がかかるから覚えちゃった方が楽だね。とりあえずそこだけ確認しちゃおうか」


「はい」


 xの正弦と余弦を実際に紙に書いて導出しつつ、最終結果をインプットしていく。


「ちょっと休憩する?」


 少し疲れてきているようだったので、私は松崎に尋ねる。


「そうします」


 松崎はペンを置いて背もたれに寄りかかった。


 沈黙が流れる。


 小学生のときは単純な質問をしていればそれなりに先生と生徒の会話っぽくなったけれど、今はそうはいかない。高校生というのは、もう子ども扱いできない年齢だ。


 今日は学校どうだった、とか、テストどうだった、なんて聞くのも何か違う気する。思春期の息子を持つ母親の気持ちが少しだけわかった。


 あれ、いつもはどんなふうに会話を始めてたっけ……。最近、松崎の授業でそう思うことが増えた。


 とりあえず何かきっかけを、と思い、パッと浮かんだ質問を私は投げる。


「最近どう? なんかあった?」


 なんだそれは。


 自分で自分の発言に驚く。話題の振り方が下手すぎて死にたくなる。


 最近っていつだよ。なんかってなんだよ。


「んー、特にこれといってないですけど、もうすぐ球技大会があるんですよね」


 よかった。私のノーコントロールな送球をちゃんとキャッチして投げ返してくれた。ありがとう。


「へぇ~。柊はなんの競技に出るの?」


 彼が小学四年生のときからの付き合いということもあり、下の名前を呼び捨てで呼んでいる。松崎だってもう高校三年生で、もしかすると嫌だと思われているかもしれないが、今さら呼び方を変えるのも違和感がある。


「俺はバスケです。下手なので、なるべくクラスに迷惑をかけないように頑張ります」


「そっか。いいね、バスケ。頑張って」


 本人は下手と言っているが、おそらくそんなことはない、と私は思う。彼は小学生のころから、びっくりするほどに謙虚だった。


 中学生のときはハンドボール部にも入っていて、運動神経は悪くないのを知っている。だから、バスケでもきっとチームに貢献できるのではなかろうか。


 それに、彼は身長も高い。百八十近くあるんじゃないだろうか。


 昔はあんなに小さかったのに……なんて、親戚のおばちゃんみたいなことを思ってしまった。


 さっきの中学生たちほどフランクに話してはくれないが、だからといって不愛想というわけではない。年相応の落ち着きがある、というべきだろう。


「先生はどうですか?」


「どう、って?」


「最近、何かありました?」


 私のした質問を、今度は松崎がする。


「やー、何もないかなー」


 うん。これは聞かれると困るね。反省。


「そうですか。今の時期は、色々と忙しいですもんね」


 松崎は少し残念そうな顔をする。なんだか申し訳なくなって、私はどうにか最近あった出来事をひねり出す。


 ……って、昨日、恵実と飲みにいったじゃないか。


「あ、そういえば昨日、大学のときの友達とご飯を食べたかな。安い居酒屋だったけど、焼き鳥が美味しかった」


「へー。いいですね。俺も二十歳になったら、先生とお酒を飲んでみたいです」


「嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 おそらく社交辞令なのだろうけれど、松崎の言葉は私を浮かれさせるには十分だった。でも、酔っ払った姿は絶対に見せられないな、とも思う。


「美味しいお店、連れてってくださいね」


「柊が二十歳になったらね」


 とは言ったものの、退塾した生徒とプライベートで会うことなんて今までなかった。きっと、松崎もそうなるだろう。寂しいけれど、それでいいと思っている。


 それなのに――


「約束ですよ」


 松崎があまりにも真剣な瞳を向けてくるから、講師と生徒という関係でなくなった私たちが一緒にお酒を飲んでいる未来を考えてしまう。


 そのときの私たちにの関係には、どういった名前がつくのだろう。


 友達同士。先輩と後輩。元講師と元生徒。……どれもしっくりこない。


「あ、そうだ。休憩ついでに、ちょっと考えてもらいたいことがあるんだけど」


 話を逸らすかのように、私は提案する。


「なんですか?」


「その友達のことなんだけどね。彼女、結婚してもうすぐ一年が経つの。でも最近、旦那が怪しいんだって」


 昨日の会話を思い出しながら話す。


「怪しい……というのは?」


「あー、怪しいってのは、つまり、その、別の女の影が……みたいな……感じの……」


 高校生に話すようなことではなかったかもしれないな……と少し後悔しながら私は説明する。


 何も考えずに話し出すからこういうことになるのだ。もう少し会話の先を読め。私はコミュニケーション初心者かっての。いや、正真正銘の初心者だわ。


「ああ、なるほど。浮気してるかもってことですね。で、考えてほしいというのは?」


 浮気、というワードを松崎の方から出してくれた。ありがたいけれど申し訳ない。塾の授業中に話す話題としては非常に不適切な気がする。ボリュームを落として話を続けることにした。


「浮気をしていないとしたら、どんな可能性があるのかってこと」


「していない可能性……ですか?」


 松崎が眉をひそめる。


 そうだよね。普通だったら、旦那の浮気の証拠を突き止めてほしい、とかだもんね。離婚のときに慰謝料ふんだくれるし。……というのは、昼ドラの見すぎかもしれない。


「うん。友達は旦那を信じたいんだって。まあ、私もその旦那さんと何回か会ったことはあるけれど、とてもそんなことをするような人には見えなかったし、きっと何か理由があるんじゃないかって思ってる」


 昨日の恵実の、彼女らしくない自信なさげな表情を思い出す。




「実はね――」


 昨日、心配する私に向けて、恵実は話し始めた。


「最近、旦那がちょっと変なの」


「変、っていうのは?」

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