第4話 半径かける半径かけるさんてんいちよん!


 恵実と会った翌日。


 私は数学の授業をしていた。


「鎌田先生!」


「はーい」


「この問題、答えが合いません!」


 坂本さかもとめあが元気よく言った。


 空いている机で別の授業のプリントの採点をしていた私は、キャスター付きの椅子で彼女の席まで移動する。


 坂本めあは、普段からはきはきした元気な女の子だ。誰とでも分け隔てなく接することのできる彼女は、男女問わず友人が多い。塾での様子を見ているだけでも、そのことがわかる。


 でも、間違えたときくらいはもう少し落ち込んでほしい。


 その問題、基礎の基礎なんだけど。公式に当てはめれば答えが出るはずなんだけど。


 後ろの席では、米原よねはら流星りゅうせい鶴岡つるおか政樹まさきがなにやら楽しそうに喋っている。私の配ったプリントには目もくれずに。もちろん解答欄は白紙のまま。


 月曜日の午後五時十分から始まる二時間目。いつも通りの授業風景だった。


 科目は数学。だいたい、三人中二人はやる気がない。一人でも真面目にやってくれているのなら御の字だ。


 まあ、授業時間は九十分と長めだし、ある程度はしょうがないとこともあるのだけれど。


「どれどれ?」


 坂本のプリントを覗き込みながら、彼女の解答をざっと見る。


 簡単な図形の問題。扇形の周の長さを求めよ。ということは……。ああ、やっぱり。彼女の立てた式を見て、原因がすぐに判明した。公式を間違えていたのだ。その式だと面積が出てしまう。


「どういう計算をしたの?」


 答えを教えるのではなく、答えに誘導する。集団授業と個別授業の一番の違いはここだと思う。


「半径かける半径かけるさんてんいちよん! あと最後にさんびゃくろくじゅうぶんのここの角度!」


 坂本は中心角を示しながら、元気よく答える。


「うん。じゃあその半径かける半径かける円周率っていうのは、何を求める公式だったか覚えてる?」


 さりげなく、円周率という言葉を使って、私は彼女に問いかけた。


「えっと、円の面積……あっ! そっか!」


「そうだね。問題は、周の長さを答えなさい、だよね」


 よかった。なんとか誘導できた。思わず笑顔になる。ここまで教えればあとは大丈夫だろう、と思ったのだが……。


「あれ、円周の長さってどうやって求めるんだっけ?」


 笑顔を保ったまま、私は心の中で大きなため息をついた。


 こういうときは……。


「はい、そこの男子二人!」


 坂本の後ろの席でアニメだか漫画だかの話をしていた米原と鶴岡を巻き込むことにする。


 この三人は同じ学校に通う中学二年生で、塾内でも仲が良い。


「えー、俺ら今話してんだけど? 見てわかんない?」


 米原が、雑談を遮られたことに対し、不機嫌そうに眉をひそめる。


 今は授業中なんだけど? 見てわかんない? などと反論してもあまり意味はない。私はさっさと切り出す。


「円の周の長さの求め方ってわかる?」


 人間というのは、自分がわかることについては話したくなってしまう生き物なのだ。


「小学生レベルじゃん。先生、そんなのもわかんねーのかよ」


 米原は生意気な口調で私を馬鹿にしにかかる。


「わからないのは私じゃありませーん」


 もしそうだったら給料もらえんわ!


「あはは。冗談だって。そんな真面目だとまた男にふられるぞ」


 爽やかな笑顔でそんなことを言う。残念ながら男にふられたことはありません。そもそも付き合ったこともありません。告白したこともありません。恋が始まる前にだいたいダメになります。もちろん口には出さないけど。


「坂本さんに教えてあげてほしいんだけどな」


「めあ、それくらい覚えとけよ。バカだなー。次のテストに出すってコバヤシが言ってたぞ!」


 学校の教員と思われる小林先生をを呼び捨てにして米原は言う。


「あー、そういうこと言うんだ! じゃあ流星が言ってみなさいよ」


 坂本も応戦する。


 なんだ、この低レベルな争いは。まあ、中学生なんてそんなもんか……。


「簡単だろ。半径かける半径かけるさんてんいちよんだ!」


「はぁ……」


 私はおでこを押さえた。


「それ、円の面積だから! 流星、バッカじゃないの?」


「う、うるせー! バカって言った方がバカなんだよ!」


 坂本の罵倒に、米原は顔を赤くして反論する。


 米原くん、先にバカって言ったのは君ですよ。それに坂本さん、あなたもさっき同じ間違いしてましたよね。と、心でツッコミを入れておく。


「小学生みたいなこと言ってるし。でも流星は一月生まれでまだ十三ちゃいだからしょうがないでちゅねー。ってわけで私には敬語使ってくださーい。敬ってくださーい」


「学年は一緒ですー。早生まれなのに同じ授業受けてるので俺の方が優秀なんですー。残念でしたー。バーカバーカ」


 収拾がつかなくなりそうなので、最後の一人に尋ねる。


「鶴岡くんはわかる?」


 鶴岡政樹。眼鏡をかけていて一見真面目だけど、周りに流されやすい男の子。数学は得意。


「えっと、直径かける円周率……でしたっけ」


 先ほど米原と話していたときの楽しそうな雰囲気と打って変わって、自信がなさそうな様子で、ぼそぼそと呟くように答えた。


「そう、正解!」


 思わず大きな声が出てしまう。いや、本来なら全員に覚えててもらわないと困るような公式なんだよ……。うん、でも本当によかった。


 鶴岡も、少し嬉しそうな表情をする。


「なっ、お前。わかるなら最初っから答えろよ! お前のせいでめあにバカにされたじゃねーか!」


「いや。だって小学生レベルの公式だし、さすがに流星でもわかるかなって」


 本人はそんなつもりはないのだろうが、ナチュラルにバカにしている。煽り性能が高いな、と変なところに感心してしまう。


「うるせー! ってか円周率なんて難しい言葉使ってカッコつけてんじゃねーよ!」


 円周率は別に難しい言葉じゃないんだけどなぁ……。


「はいはい。静かに! じゃあ坂本さんは今の公式を使ってもう一回解いてみましょう」


「ん、やってみる!」


 坂本はそう言いつつ、すでにシャーペンを走らせていた。やる気があるときの彼女は、とても積極的でありがたい。その分、集中力がないときは本当に何もしないけど。


「米原くんと鶴岡くんもそろそろ勉強するよ!」


「はーい」


 しぶしぶといった感じで返事をした米原だったが、とりあえず机に向かい始めた。

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