想い出のおはなし②

 明くる日。夕方。

 正司が公園にやって来ると、モコは既に入口付近で待っていた。正司が片手を上げると、モコは応えるように手を振っている。


「おにぃ、早いね」


「急いで帰ったからな」


 正司はすっかり息が乱れている。短く息をし、肩を上下に動かしている。中学校から走って帰ってきたのだろう。

 その甲斐あって、待ち合わせには早く到着できた。午後四時、少しだけ過ぎている。

 

 正司は公園の中を見回した。

 公園には、ゲーム機を持ち寄る小学生のグループや、幼い子供を連れた女性がちらほら見える。


 公園の奥、裸になった木の下で、一人の老人がぽつんとベンチに座っていた。

 頭も翼も、黒がかった灰色だ。ぼんやりとした目は、どこを見ているのかわからない。だが、口元には常に微笑みを浮かべており、柔らかな雰囲気をまとわせていた。


「あ、あのおじいちゃんだよ。

 おじいちゃーん」


 モコは、何の躊躇ためらいいもなく老人に駆け寄る。警戒心がないモコの様子に、正司は苦笑いした。モコを一人で行動させるわけにはいかず、正司もモコの後ろを追いかける。


 老人は、モコの姿を見つけると、顔いっぱいに笑みを浮かべる。シワが深まったその顔からは、優しさしか感じない。


「ああ、マナちゃん。そこにいたのかい」


 老人はモコに語りかける。モコは老人の目の前まで向かうと、彼の顔を見下ろし、首を傾げた。


「モコだよ。マナちゃんじゃないよ」


「さあ、こっちに座りなさい。

 ああ、ショウタロウも。ほら、ここに座りなさい」


 老人は正司の顔を見るなり、別人の名で正司を呼んだ。先程は、モコのことも別人の名前で読んでいた。それがおかしくて、正司は笑う。


「爺ちゃん、俺は正司。ショウタロウじゃないよ」


「何を言っとるんだ。ショウ」


 老人は怪訝けげんな顔をする。その顔は真剣であったが、ややぼんやりとしている。

 正司は気味の悪さを感じて顔をしかめた。


「爺ちゃん、ボケてんの?」


 そう問いかける。

 しかし、それに対する返事は無い。老人はモコに向き直り、ポケットから何かを取り出してモコに差し出した。


「はいキャラメルだ。マナちゃんは、ここのキャラメルしか食べんからなぁ」


 食玩がオマケでついてくる、昔ながらのキャラメルだ。ポケットに入っていたからだろう。箱はへしゃげて潰れていた。キャラメルは無事だが、食玩は壊れてしまっている。

 モコはキャラメルが苦手であった。歯にくっついてしまうのが気持ち悪いのだと言う。だから、この時は首を振って受け取りを拒否した。


「おじいちゃん、いらないよ。キャラメルは苦手なの」


「はて、そうだったかな……?」


 老人は首を傾げる。腑に落ちない、といった顔である。

 正司はモコの手をぐいと引っ張った。自分の背中に隠して、老人に問いかける。


「爺ちゃん、家どこ?」


「家? はて……はて……」


 老人はキャラメルの箱をベンチに起き、再びぼんやりと公園の景色を眺めた。

 何かを思い出そうとするように。だが、上手くいかないようだ。眉をしかめた表情で、暫く考え込んでいた。


「そうだ、マナちゃん、キャラメル食べるかい?」


 先程、モコが拒否したばかりだというのに、老人は再び問いかける。モコはようやく老人の様子がおかしいと気付いたようだ。不安げに正司を見上げる。


「もしかして……」


 正司は思い当たることがあるようだ。


「マナゃんって、誰のこと?」


 老人に問いかける。

 老人は正司の顔をじっと見た。


「誰って、ショウ、お前の妹だろう?

 ワシの――父ちゃんの可愛い可愛い娘。お前の可愛い妹だ」


 正司は、先日テレビ番組で、認知症という病気の特集をしていたことを思い出す。その番組では、同じ話を延々と続けたり、家族の顔を認識できなかったり、といった症状が取り上げられていた。

 目の前の老人と、症状が合致がっちする。彼は認知症を患っているに違いない。


「爺ちゃん、俺はショウタロウじゃないし、こいつもマナちゃんじゃない。

 家まで送るよ。家はどこ?」


 正司は老人に手を差し伸べる。老人はそれを見て、きょとんとした顔をした。


「今日は、あそこに行くんじゃなかったか?」


「あそこ?」


 突然問われ、正司は面食らった。あそこと言われてもわからない。第一、何処にも行く予定なんてない。


「いや、帰ろうよ。あそこが何処かわかんねぇけど、もう夕方じゃん」


「今から行くぞ。ほら、よっこいしょ」


 老人はおもむろに立ち上がる。杖を持ってきていることも忘れ、痛む膝をさすった。


「おじいちゃん、杖」


 老人が杖を忘れる前にと、モコは声をかける。だが、老人は杖を見ても自分のものだと認識できないようであった。自分のものではないと言うように、何度か首を横に振る。


「爺ちゃん、膝痛いんだろ? 杖あった方が楽だよ」


 モコの困った顔を見た正司は、そう言った。

 認知症の患者に対しては、患者の境遇を否定するのではなく、肯定してあげる方が良いのだと言っていた。正司はそれを思い出していた。

 老人の持ち物でないと言い張るのであれば、嘘でも老人に杖を持たせる理由を作ればいいと、瞬時にそう考えて発した言葉であった。


「ああ、そうだなぁ……じゃあ、使わせてもらおうか」


 老人は言うとベンチに立てかけていた杖を持つ。


「じゃあ、行こうか」


 老人は再度言うと、杖をついて歩き始めた。

「あそこ」とやらに行くのだろうか。それは何処なのだろうか。そんなことを考えながら、正司は老人を見つめる。


「おにぃ。おじいちゃん、大丈夫かな?」


 モコは呟く。

 幼いモコも、老人の様子が普通では無いことに気付いたようだった。不安げに正司を見上げる。

 正司は悩む。老人とは初対面で、名前さえ知らない。何処に行こうとしているのかも知らない。だが、老人が迷子になっているところを想像すると、放っておけなかった。


「爺ちゃん、俺も一緒に行くよ」


 正司は老人に声をかける。


「私も!」


 モコも声をあげた。


 老人は立ち止まり、二人を振り返る。にっこりと微笑んで、「おいで」と手招きした。

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