約束のおはなし③

 前日は酷い雨だった。

 冬の雨はタチが悪い。冷たい空気に触れた体を、更に冷やしてしまうのだから。

 今日は雨が止んでいるものの、どんよりと暗雲が垂れ込めている。天気予報では曇りと言っていたが、いつまた降り出してもおかしくなかった。

 ニコは暗い空を窓越しに見上げる。傘を差して帰るのは億劫おっくうだと思い、ため息をついた。


 店の外に、裕太の姿を見つけた。


「ああ、前貸してから一週間経ちやしたからねぇ」


 礼哉らいかも裕太に気付いたようだ。裕太の姿を見て、掃除の手を止める。

 裕太の姿を見ていた二人は、やがて眉をひそめた。


 裕太はふらついていたのだ。


 大切そうに本を抱え、本屋を目指している。しかし、前が見えているのか疑うほどに、歩く姿は覚束無おぼつかない。


 ニコは立ち上がり、店の外へと駆け出す。裕太に近づいて、彼の肩を支えた。


「裕太、大丈夫ですの?」


 返事はない。

 裕太の息は熱を帯びていた。息苦しいのか、時折息を詰まらせている。

 ニコは裕太を両腕に抱えると、本屋へと走って引き返した。


「ニコさん? どうしたんで?」


 礼哉らいかは訊ねる。

 ニコは焦りを抑えるため深呼吸する。


「熱を出しておりますわ」


「熱!」


 礼哉らいかは慌てた。直ぐ様、店に置いてある長椅子を引っ張って来る。ニコはそこに裕太を寝かせた。

 裕太はびっしょりと汗をかいているにも関わらず、ガタガタと体を震わせている。寒いのだろうと思い、ニコは自分のコートを裕太にかけてやる。


「お姉ちゃん」


 裕太が薄らと目を開く。


「裕太、大丈夫ですの? なんで真っ直ぐ家に帰らないの……」


 ニコの問いかけは裕太に遮られた。『シャノワールの冒険譚』を差し出されたのだ。


「昨日、読み終わったんだけどね。雨に濡れたら大変だから、持って来れなかったんだ。返すの遅くなって、ごめんなさい」


 裕太の言葉に、ニコは目を見開く。胸がはち切れてしまいそうだ。彼は、ニコとの約束を守ろうとしたのだ。


「だから、今日?」


「うん。早く返さなきゃって、思って」


 ニコは裕太の前髪を撫で付ける。


「おバカさんですわね。体調が悪いなら、無理して来なくても、来れないと連絡してくれればいいのです」


「……あ、ほんとだ」


 発熱のせいで、裕太の思考は鈍くなっているらしい。ニコにさとされて、裕太は弱々しく笑った。


 ニコは決心する。裕太を送り届けなくてはならないと。


礼哉らいか、飛ぶ準備をお願いできますか?」


「え? 裕太を背負しょって飛ぶんスか?」


「責任を持って、裕太を家まで送り届けますわ」


 本来、鳥は必要に迫られていなければ飛ぶことは無い。鳥子も同様に、飛ぶよりも歩くことを好む。何故なら、飛ぶには膨大なエネルギー、すなわち体力を消費するからだ。

 子供とはいえ、人を背負せおって飛ぶとなると、体力の消費はどれほどのものだろうか。ニコは不安を抱くが、やらなければ仕方ない。


「裕太、背中に」


 ニコは裕太に背を向けて屈む。裕太はぼんやりとした顔でニコの背中を見て、そこに抱き着くように腕を回した。礼哉らいかは、ニコと裕太の体を固定するため、襷掛たすきがけに綿ロープを結び付ける。


「おんぶ紐なんてないっスからね。これで我慢してくだせぇ」


 礼哉らいかの言葉に、ニコは頷いた。

 ちらりとランドセルを振り返る。教科書がぎっしり詰まったそれは、本屋に置いておくことにした。裕太一人でも飛ぶには重いのだ。荷物を抱えたら飛び上がれないだろうと判断した。


「では、行って参りますわ」


 ニコは、自分のショルダーバッグを肩にかける。


「くれぐれも気をつけてくだせぇ」


「承知しておりますわ」


 ニコは本屋の外に出る。

 空気は冷たいが、風は無い。

 翼を広げ、バサリと空気を叩く。何度か羽ばたきをして、ニコは頷く。

 大丈夫だと判断した。


「裕太、しっかり捕まってくださいまし」


 裕太は、ニコの首にしっかりと腕を回した。


 ニコは再び空気を叩く。地面を蹴り、宙へ飛び出す。

 ニコの体がふわりと浮いた。


 バサバサと、何度か羽ばたきを繰り返す。地面から離れた体は、ぐんと空へと進んでいく。

 建物の二階ほどの高さまで浮かぶと、ニコは鳥美咲町とりみさきちょうへと急いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る