約束のおはなし②

 一週間後、裕太は再び本屋にやってきた。

 学校からの帰り道を全速力で走ってきたようで、肩を上下させている。

 ニコは、常連客に釣り銭を渡しながら、裕太を横目で見た。目を細め、笑みを浮かべる。


「ありがとうございました」


 支払いが終わり、店を出ていく客の後ろ姿へ、ニコは深々と頭を下げる。そうして再び顔を上げると、裕太へと視線を向けた。

 店の中には、他に誰もいない。二人きりである。


「いらっしゃいませ」


 ニコは裕太に声をかける。

 裕太はもじもじしながら、一冊の本をニコに差し出した。先日貸した『シャノワールの冒険譚』である。


「ありがとう、お姉ちゃん」


「どういたしまして」


 ニコは本を受け取った。


「どうでした?」


 そして、裕太に問いかける。

 裕太は問いかけの意味をすぐに理解した。きっと、話したくて堪らなかったのだろう。せきを切ったように、裕太の口から言葉が溢れ出した。


「猫に変身する主人公ってすごい! ネズミの女の子、可愛いね。あ、あと、お師匠様かっこいいね!」


「ふふ。気に入ってくださいましたのね」


 夢中になって語る裕太の言葉を、ニコは微笑ましい思いで聞いていた。

 優太にとっては、この本が初めての読書体験だ。彼が語る感想は、拙いながらも熱がある。きっと、良い読書体験をしたのだろう。


「ねえ、お姉ちゃん。あの、その……」


 感想を語り終えた裕太は、まだ何かを言いたいようだ。ニコは、裕太が何を言いたいのか分かっていたが、あえて何も言わない。


「あのね、二巻も貸してほしいです!」


 裕太はきっと次も求めるだろうと、ニコは踏んでいた。だから、きちんと準備をしていたのだ。


「ええ、勿論」


 ニコは、カウンターの下から本を取り出す。ボロボロに擦り切れた表紙には、『シャノワールの冒険譚2』と書かれていた。


「兄ちゃんが欲しいのは、これかい?」


 ニコは小説の台詞を引用する。裕太はそれを理解し、声を作る。


「ああ、これだ。助かるよ、闇商人ダークマーチャント


 裕太は本を受け取り、恥ずかしそうに笑った。

 ニコも、こんな風にはしゃぐことはあまりない。照れながら、クスクスと声に出して笑っていた。


「いらっしゃいやせー」


 買い物に出ていた礼哉らいかが、店に帰ってくる。裕太は肩を跳ねさせて、反射的に本を背中に隠した。

 礼哉らいかにはその様子がおかしく見えた。アハハと笑い、裕太に語りかける。


「ここは魔導書の聖域サンクチュアリ! 何を遠慮することがありましょうか!」


 その台詞もまた、『シャノワールの冒険譚』からの引用であった。その言葉を聞いて、裕太はホッとため息をつく。


「隠さなくていいんスよ。ニコさんから借りたんでしょう?」


 裕太は頷きながら、本を胸に抱える。

 礼哉らいかはそれを見て、へらりと笑った。


「シャノワールだけじゃなくて、他にも読んでみりゃいいんスよ。最近流行りの異世界転移とか如何いかがで? オイラが貸しやしょうか?」


 礼哉らいかは店内の棚を見上げて問いかける。


「異世界転移? 何それ」


 裕太は目を輝かせる。初めて聞く言葉に、ワクワクしているのだろう。

 礼哉らいかは文庫本を一冊取り出した。


「ライトノベルに多いんスけどね。冴えない主人公が、異世界に飛ばされて冒険するんスよ」


「へえー。面白そう! あ、でも……」


 裕太は腕の中にある本を見る。


「『シャノワールの冒険譚』が終わるまで、他のは読めないや」


 そう言って、はにかんだ。

 どうやら、『シャノワールの冒険譚』を相当気に入っているらしい。ニコは悪戯いたずらっ子のように目をにんまり細め、礼哉らいかを見つめる。


「ニコさん、なんスか、その目は」


「何でもありませんわ」


 クスクスと笑うニコに、礼哉らいかは肩をすくめる。

 裕太はそんな二人を見て、笑いそうになる口元を本で隠した。


 ポッポーと音が鳴る。店に備え付けられている鳩時計の音だ。鳩はきっかり五回鳴き、午後五時を知らせた。


「さあ、本を学校に隠して来るっスよ」


 そろそろ店を出てしまわないと、帰る頃には真っ暗だろう。礼哉らいかは裕太を心配して声をかけた。

 裕太は鳩時計を見ると慌て始めた。


「僕、走って帰るよ」


 裕太はランドセルに本を入れる。

 ランドセルの中は、教科書だけでなく参考書も入っており、ぎゅうぎゅう詰めになっていた。中学受験用の参考書が見える。親は余程教育熱心なのだろう。


「そういえば、裕太はどこに住んでますの?」


 ニコは唐突にそう聞いた。深い理由はない。帰宅時間があんまり遅くなるようであれば、送ってあげようかと考えただけだ。

 裕太は答える。


鳥美咲町とりみさきちょうだよ」


 隣町の名前が出てきたことで、ニコは心配を顔に浮かべた。


「隣町じゃないですか。送りましょうか?」


 送ると言っても、ニコは車を持っていない。歩きで見送るつもりなのだ。裕太はそれに気付いていたのだろう。ニコの問いかけに首を振る。


「大丈夫だよ。ちゃんと帰れるから。

 またね、お姉ちゃん、おじちゃん!」


 裕太は手を振って本屋を後にした。

 ニコはひらひらと翼を振る。裕太の姿が見えなくなると、頬杖をついて、ぼうっと店の外を眺めた。


「どうっスか? 年下の男の子に懐かれて」


「どうって……」


 礼哉らいかのからかいに、ニコは目を伏せる。

 弟ができたようで嬉しい。読書仲間が増えて嬉しい。そんな明るい感情と一緒に、もやもやとした不安も湧き上がっているのを感じていた。


「裕太の家庭環境が、ちょっと心配ですわね」


 裕太の「読書をしたい」というささやかな思いを、親から否定されていることが、心配で仕方なかった。


「あー……そこには首突っ込まない方がいいんじゃありやせんか?」


 礼哉らいかの言う通りだろう。家庭環境に口を出せば、どんな問題が起きるかわからない。もしかしたら、裕太が本屋に来ることを禁止されてしまうかもしれない。そうなれば、親に隠れて読書することも、できなくなってしまう。


「オイラ達は、事なかれ主義でいやしょうや」


「……そうですわね」


 ニコは渋々同意した。

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