争いのおはなし③
「またねー」
「バイバイ」
学校からの帰り道。高架で橋本は市川と別れた。橋を渡り、真っ直ぐ進んた先に、橋本の家がある。
それ程長い橋ではない。橋本は、じわりと暑い秋の日差しを浴びながら、とぼとぼと歩いて橋を渡った。
学校に備え付けてある水道で、頭は洗っていた。それでも牛乳は綺麗に落ちず、日差しのために生臭さはより一層酷くなっていた。
校内では、橋本と本田の
泣きたい気持ちを堪え、橋を渡りきる。その先、道なりに歩いていけば住宅地がある。
だが、クラスメイトに声をかけられ、真っ直ぐ帰宅することはできなかった。
「よお」
渡りきった先に、本田が立っていたのだ。橋本を待っていたらしい。直射日光を浴びていた本田は、秋だというのに額にじんわり汗をかいていた。
果たしてその汗は、直射日光だけが原因なのだろうか。
「今日のことなんだけどさ」
本田の声が上擦っている。緊張しているようだ。乾いた唇を舐めて、小さく開いた。
橋本は、何か言われるのが怖くて、走って通り抜けようとした。だが、すれ違う瞬間に、本田に腕を掴まれた。
「離してよ!」
「聞けって!」
橋本は腕を大きく振り、本田の手を乱暴に解く。本田はパッと手を離した。
「わりぃ」
本田は呟く。
橋本は逃げなかった。顔はうつむいて、地面に落ちた自分の影をじっと見ている。
何を言われるのだろう。悪口だろうか。恨み言だろうか。
何を言われるにしても、気弱な橋本には恐ろしくて堪らなかった。逃げ出したいが、逃げ出すことも怖い。
「これ」
本田の手が眼前に伸びる。
握られていたのは、ソーダ味のアイスキャンディーだった。真ん中で二つに分けることができるアイス、それの片方を差し出してきたのだ。
「え?」
本田の意図がわからず、橋本は呆けた。
「早く食え。溶けるぞ」
本田はぶっきらぼうに言う。
今は秋だよ? と、橋本は言いたいのを堪えてアイスを受け取った。
アイスは溶けかけていた。溶けたアイスが棒を伝って流れ落ちている。アイスはいつ買ったものなのか、いつから待っていたのか。橋本は口を開くが、どの質問をしても
「今日は、悪かった」
本田が呟く。その言葉は即座に
「あー、今日は、じゃないな。昨日も、その前も……六年になってからずっと……」
本田は、橋本と喧嘩を始めた日のことを謝ろうとしていた。その期間は九ヶ月を超える。毎日嫌がらせをしていたわけではないが、日数や回数など
肝心なのは、どれだけ長い期間、どれだけ橋本を傷付けてきたかということ。
橋本は許す気にはなれない。
今日牛乳をかけられたことも、先日泥の中に突き倒されたことも、それよりもずっと前から嫌がらせをされていたことも、たった一言の謝罪で無かったことにされるのは嫌だと思った。
彼は謝ることでスッキリするのかもしれない。だが、謝られた側は許さないといけない。それは不公平だ。
「私は、許せない」
橋本は首を振る。
「謝って楽になろうだなんて、私は許さない。私はずっと我慢してきたの。たった一回仕返ししたからって責められるのは、あんまりじゃない」
本田は息を詰まらせる。謝れば許してくれると思っていたからだ。そんなに現実は甘くない。
二人は黙る。アイスはボタボタと地面に流れ落ち、地面にシミを作る。手は溶けたアイスの糖分で、ベタベタとして気持ちが悪い。
「なあ、覚えてる? 初めての日のこと」
唐突に、本田が口を開いた。橋本は首を傾げる。
「六年になって初めての図工でさ、木の筆箱作ったじゃん」
橋本は思い出す。
確かあれは、四月中旬だったはずだ。木製の筆箱に、彫刻刀で飾りを彫り込む図工の授業があった。橋本はウサギとネコを彫り、本田はツタのような何かを彫っていたはずだ。
本田のあれは何だっただろうかと、橋本は考える。
橋本の疑問に答えるかのように、本田は言う。
「俺は龍を彫って、橋本はネコを彫っただろ?」
橋本は思い出した。確かに、本田から直接聞いていた。これは龍だと。
何故教えてもらったのだろうか。その頃は嫌がらせなど受けていなかったのだろうか。
「あの時、橋本は俺に聞いたんだ。何彫ってるの? って」
橋本の脳裏に記憶が蘇ってくる。
「俺が龍だって言ったら、橋本さ、ミミズに見えるって言ったじゃん」
橋本はあっと口を開き、それを隠すように口元へ翼をそえた。はっきりと思い出したのだ。
あの時、橋本は作業を終えるのが早かった。
本田が彫るツタ模様が何か知りたくて、「なにそれ?」と
本田は胸を張って自信に満ちた顔で「龍。かっこいいだろ」と言っていた。
嘘でも褒めれば良かったのだ。だが、橋本はその時笑いながらこう言った。
「ミミズに見えるよ。それかヘビ」
橋本は、大したことの無い日常会話という認識だった。だが、本田にとっては
「俺さ、あれが悔しくてさ。つい嫌がらせしちゃってた。あの時のこと、橋本にとっては嫌味でも何でもないってわかってる。でも、それでも俺は嫌だった」
本田は顔をうつむかせる。
橋本もうつむいた。
元はと言えば、橋本が口にした一言が原因であった。それが嫌味では無いことは、本田も理解していると言った。それでも悔しいと。
橋本は自己嫌悪する。本田が嫌がる言葉を言った自分が悪かったと。相手を尊重し、その場で謝っていれば、このような仲違いはしなかったはずだと。
「嫌がらせしてた俺が悪い。それはごめん。それは本当に悪かった。
でも、知って欲しかった。あの時俺は嫌だったんだって」
橋本は頷く。
嫌がらせをしていたとはいえ、謝ることができる本田は随分と大人びて見える。それに対して、自分はどうだろうか。相手が悪いと思うばかりで、自己を省みることはしなかったのではないだろうか。
「私も、ごめんね」
橋本は消え入りそうな声で呟いた。
許してもらおうとは思わないが、それでも謝らずにはいられなかった。
二人の間に沈黙が流れる。
二人とも、相手を許すことはしなかった。
今は、それでいいのではないだろうか。
「アイス、溶けるぞ」
本田に言われ、橋本は自分の手を見る。
アイスは溶け続けており、棒からずれ落ちようとしていた。
橋本は思い切って
「うわっ、俺のもやべぇ」
本田もまた、溶けかけのアイスにかじりつく。それは、橋本に手渡したものと同じ味、半分に分けたもう片割れであった。
「いつからここにいたの?」
アイスが溶けてしまう程である。暫く待っていたに違いない。だが、本田は肩を竦めてみせた。
「そんなに待ってねぇよ」
「本当?」
「本当」
そこでようやく、橋本は視線を上げて、本田の顔を見る。
アイスで汚れた頬と手。服にも溶けたアイスが垂れて、シミを作っている。
同じアイスを頬張った橋本も、同じ格好をしている。それが妙におかしくて、橋本はケラケラと笑った。
「私達、おそろいだね」
「ふはっ。確かに」
本田も笑いを洩らした。
今は許し合わなくてもいいのだろう。明日からはきっと、クラスメイトとして仲良く話せるだろうから。
橋本はそう思った。
――――――
『争いのおはなし』おしまい
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