争いのおはなし②
次の日、橋本は
教室内の席順は、毎学期ごとにクジ引きで決まる。橋本の隣が本田であるのは、彼女にとって不運であった。
授業中は嫌がらせされることがなく、休憩時間中はそれぞれ友達と遊びに行くため、席が隣であろうと気にはならない。
問題は、給食の時間である。
「橋本ー、プリン食ってやろうか?」
この日も、隣の席から本田に声をかけられる。さも、橋本を気遣っているかのような言葉遣いをするが、橋本は首を横に振った。プリンは橋本の好物である。
本田はデザートを食べ足りないだけなのだ。本日は欠席者がおらず、「じゃんけん」という名のデザート争奪戦が繰り広げられることはない。そのため、橋本にたかっていたのだ。
「お前、食いきれるのか?」
「大きなお世話」
ふいと顔を逸らせる橋本に対し、本田は苛立つ。
本田は自分の机を見た。既に給食を食べ終え、皿は片付けている。
たった一つ、ぽつんと残った牛乳パック。本田は牛乳が苦手で、いつも最後まで残しては、先生に叱られながら泣く泣く飲み干すのだ。
だがこの日は、それを見てニヤリと笑った。
クラス中がシンと静かな空気の中、皆黙々と給食を食べている。橋本はスパゲティを食べ終えて、デザートのプリンを食べようとカップを持ち上げた。
その時だ。
「食らえー!」
冷たく生臭い牛乳を頭に浴びた。橋本は突然の出来事に逃げることすらできず、唖然として本田を見る。
本田は、牛乳パックにストローを刺して、橋本に向けていた。紙パックを手で押し潰すことで、水鉄砲のように牛乳を噴き出させたようである。
橋本は目を
「うおっ。やべー。こんなになると思ってなかった」
本田はゲラゲラと笑う。彼は、事の深刻さを理解していない。
担任の、女性の先生が立ち上がる。流石に、目の前で実害が出ては、見て見ぬふりなどできなかった。
だが、橋本の行動はそれよりも早かった。
「よくも……!」
橋本は勢いよく立ち上がる。その衝撃で椅子が倒れる。
途端にクラス中が騒ぎ始めた。
「本田ー! 謝れー!」
という女子の声。
「うわー、やべー!」
という男子の声。
だが、そのどちらの声も、橋本の頭には入ってこない。
橋本の怒りの表情に、本田はたじろいだ。そして、謝ることなく教室を飛び出し、廊下へと逃げる。
「待ちなさい! 絶対に許さないから!」
橋本は本田を追いかけ、彼の逃げ道を防ぐように立ち塞がる。
本田はようやく謝る気になったようだ。酷く慌てた顔で、両手を合わせて橋本に訴える。
「悪かった! ほんとに悪かった!」
「謝るくらいなら、最初からやらなきゃいいじゃない!」
橋本の怒りは頂点に達しており、最早止めようがなかった。
「いつもいつも私にばっかり嫌がらせして! 本田君なんて大嫌い!」
橋本は、感情が大きくなりすぎると泣いてしまう癖があった。この時も、大きくなりすぎた怒りを制御することができず、大粒の涙をこぼし始めた。涙で歪んだ視界を片手で拭う。
本田はその隙に逃亡を図った。橋本の脇をすり抜け、廊下を真っ直ぐ走り出す。
橋本は、それにすぐ気付いた。
「待ちなさい!」
教室の向かい側、蛇口の真下に置かれたトタン材のバケツ。中には何も入っておらず、小学生でも難無く持ち上げることができる。
橋本はバケツの取っ手を掴んだ。大きく振りかぶり、それを本田の後ろ姿へと投げつけた。狙い澄ましてなどいない、突発的な行動であった。
橋本の手から離れたバケツは、弧を描いて本田へと飛んでいく。本田はバケツの
バケツが床に落ちる。ガラガラと音を立てて転がり、やがて止まった。
「いってぇー……」
たまらず本田はその場にへたりこむ。バケツがぶつかった右肩を、左手で押さえて
教室から先生が顔をだす。
「何してるの! ちょっとどいて!」
先生は橋本の脇を通り抜け、本田の元へと駆け足で向かった。そして本田の服の袖を、肩まで捲り上げる。
本田は肩が痛むらしく、歯を食いしばり呻いている。余程痛むのだろうか。
「打撲ね……痣ができてるわ」
先生はそう呟くと、教室を振り返る。
「保健委員さん。本田君を保健室まで連れて行って」
「はーい」
先生の呼び掛けに応えたのは、本田と仲がいい人間の男の子だった。彼は本田に近付いて、手助けしようと手を差し出すが、本田はそれを断った。足は負傷していないため、歩くには支障がないのだ。
男子生徒二人が廊下を歩いていく。やがて曲がり角に差し掛かり、橋本からは二人が見えなくなった。
「橋本さん」
担任の先生に呼ばれ、橋本は肩を跳ねさせる。
衝動のままに行動した。普段から嫌がらせされており、また今回の悪質な行動も
しかし……
「物を投げるのはいけないことです。
本田君は、肩を怪我してしまいました。
橋本は歯を食い縛る。
橋本自身、
「でも先生! 橋本は本田から毎日嫌がらせされてたんだよ!」
教室から市川が飛び出して、先生に抗議した。本田がいない場所で、橋本だけ晒し者のように扱われることに、納得ができなかったのだ。
だが、先生には先生の考え方があるようで……
「今回の牛乳については、先生もいけないことだと思います。でも、友達を怪我させることもいけない」
「でも……!」
市川はなおも食ってかかるが、橋本はそれを制止した。
「いっちー。いいの。私が悪かったんだよ。
先生、ごめんなさい」
橋本は先生に頭を下げる。
牛乳をかぶった黒髪は生臭く、ぽたぽたと白い雫を垂らしていた。
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