賢いおはなし③
誰も彼も、クーを殴り付けるには動機が不十分だ。誰がこのようなことをしたのだろう。
そもそも、これは他殺なのだろうか。
「いや、まあ死んでないけど」
センはクーのそばで膝を折り屈む。
クーはすっかり気を失っている。
両手を頭上に突き出したポーズ。指の先に転がる銀のボウル。散らばった小麦粉は、クーの頭に薄らと積もっている。
胸元にはイチゴソース。おそらく、倒れた際に紙パックを胸で潰してしまったのだろう。
他には何も無い。
そう、何も無いのだ。
「あれ? これって……」
センは呟く。
「センも気付いたかい?」
センを見下ろしていた店長が、そう声をかける。
二人は重大な事実に気がついたのだ。
「店長、凶器も外傷もありませんよ」
センは立ち上がり、店長を振り返る。
センの言う通りであった。一見他殺に見えるこの事件――そもそもクーは気絶しているだけなのだが――凶器が現場にないのだ。それどころか、
「私が厨房に入った時には、小麦粉の粉が舞っていたんだ。ほら」
店長はそう言って、自身の服を指さした。店長が着ているジャケットには、落としきれなかった白い汚れがこびりついている。おそらく小麦粉だろう。
「だから、事件が起きたのは、私が厨房に入る直前。七時前後と考えられる」
「その時には、ちょうど店長とチイさんが到着したばかり。その後すぐ俺らが来た。
あれ? 犯人、逃げる隙なんてないですよね?」
「そもそもだ。犯人なんて、いたんだろうか?」
店長の言葉を聞き、センの
消えた凶器。
存在しない外傷。
崩せないアリバイ。
これが意味するところは、つまり……
「失礼いたしますわ」
突然、店内に声が響いた。皆の視線が、カフェの入口に注がれる。
そこにいたのは、青い髪、青い
「初めまして。いつもクーがお世話になっております」
静々と、彼女は頭を下げた。
突然の来訪者に、皆呆気に取られる。クーの名前を出したということは、彼女は客では無いらしい。
「クーが忘れ物をしておりましたので、届けに来たのです。今はどちらに?」
女性の手には、ボストンバッグとは別に紙袋が下げられていた。
店長はハッと我に返り、女性に近付いて頭を下げる。
「クーさんのご家族の方でしょうか。実は、クーさんは……」
店長がそう言うや否や、女性は厨房の様子に気が付いて口をポカンと開いた。店長の脇を通り抜け、厨房へと向かい、うつ伏せに倒れているクーを見付けてため息をつく。
「全く……心配した通りになりましたわね……」
女性はセンを押し退けてクーに近付く。クーの腕をむんずと掴み、体を持ち上げると激しく揺さぶった。
「クー、起きなさい! このアンポンタン!」
すると、どうだろう。クーが薄らと目を開けたではないか。
「……あと五分……」
そして再び目を閉じる。
「何を
女性はクーの髪を掴み、引っ張ってガクガクと揺さぶった。頭皮が引っ張られる痛みに耐えられず、とうとうクーは目を覚ます。
「いだだだだ! ニコちゃん、やめて! 痛い!」
「ここが何処だと思ってますの!」
女性の
「昨夜十二時にミケモンをダウンロードしたと思ったら……あなた、ずーっとミケモンやってたでしょう!」
「あー……うん……」
「何時までやってらしたの?」
「朝四時まで」
「…………全く」
センは理解した。
クーも、どうやらミケモンを発売初日からやりたくて、ダウンロード版を昨夜購入したらしい。彼はゲームに夢中になってしまい、寝不足のまま出勤した。そして、睡魔に耐え切れず、仕込みの途中で倒れてしまったのだ。
「ってことは」
「ただ寝てただけ?」
ソラとセンは、揃ってクーに
クーは何が起きているのかわからず、厨房をキョロキョロと見回している。何か
「紛らわしいんだよテメー!」
「朝四時までゲームとか馬鹿なんじゃないの!」
「ひい……! ごめんなさーい!」
自分が置かれた状況があまりに悪いものだと気付き、クーは髪を逆立てて怯えてしまう。そして、弾かれたように厨房から逃走してしまった。
「あ、待て!」
「逃がすか!」
「お待ちなさい!」
その後ろ姿を、セン、ソラ、ニコが追い掛ける。店の外まで逃げることはできず、四人はホールを走り回った。
それを見つめる店長は、驚く様子も怒る様子もなかった。
「店長、あなた気付いてたでしょ?」
そんな彼に、チイは
店長はチイを見下ろして、食えない笑みを浮かべるのだった。
――――――
『賢いおはなし』おしまい
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