巨影
曲がり角の先に、奇妙な四角い箱があった。
箱と言っても、三枚の金属板が壁を背に床から天井までを貫いているという代物。部屋と呼ぶにはあまりにも狭く、倉庫にするにしても収容面積が少なすぎる。
通路に面した板に人が通れるほどの入り口らしきものがあった。そこも二枚の金属板で塞がれているが、空いた穴から首くらいは突っ込めそうだ。
中を確認しようと、レイトは箱に近付く。その様子を隣で眺めていたニタが、寸前でレイトを制止した。
「レイちゃん待って、針がすごいことになってる!」
レイトは反射的に手の中の計器に視線を落とす。針の示す数値は5を超えていた。明らかな異常数値にレイトが慌てて後ずさると、針はまた0.3程度にまで戻る。
「な、これ……正常に動いてるってこと、だよね」
「うん、適当には見えないよ。この箱に反応してるみたい」
「これそのものというよりは、中に何か……うーん、気になるなぁ」
通路の反対側でしゃがみ、レイトはなんとか中を覗きこもうとする。松明が照らせていたのは穴の先のほんの僅かな範囲だけだったが、それにしては中がやけに薄明るいような気がした。
「レイちゃん、私が見てみようか?」
熟練カメラマンのごとき姿勢になっているレイトを見かねたのか、未知の不定形生物を見るような表情でニタがそう進言する。レイトは上半身を起こし、ニタの顔と箱の穴とを何度も見交わした。
「でも、ニタちゃんもさっきの数値は見たでしょ? もし危ないものだったら」
「そうかもしれないけど、私は毒に強いってアイゼルさんが言ってたじゃない。そうやってずっとうにょうにょしてても分からないままだと思うんだけど……」
「んんん。それを言われちゃうと……そうなんだけどさあ」
大丈夫、息は止めておくから。そう言ってニタは大きく息を吸い、レイトが止める間もなく身を翻して思い切ったように穴へと首を突っ込む。下を見て、上を見て、そして同じように勢いよく首を引っこ抜いた。
「――っぷはぁ!」
「だ、大丈夫? どうだった?」
やや食い気味にレイトがそう訊くと、ニタは得意げな顔でブイサインを返す。特に変調はないらしく、いつもと変わりない様子でニコニコ微笑んでいた。
「えーっとね、下には床があったんだけど、ここじゃないみたい。もう一個下の階かな? あんまりよくは見えなかったけど」
「つまり、下にまだフロアがあるわけか……この階の床は? 崩れてる感じはあった?」
「ううん、そうは見えなかったよ。それとね、上には空が見えたの。木は見えなくて、青空と雲だけ」
ニタが言ったことを総合すると、この箱の中は地上から地下二階までのぶち抜き構造になっているらしい。やはり、何かの部屋ということではなさそうだ。
似たような構造物といえばエレベーターが思い浮かぶが、レイトの知るそれは透明なガラスチューブの中を移動するカプセルである。もう少し原形を留めていれば、判別もできたかもしれないのだが。
とはいえ、情報としての収穫は十二分にあった。一つは地下の存在。そしてもう一つは、計器の数値を増大させる要素。もし地上が見えたことに由来するものなら、それは十中八九放射線量やら放射能濃度ということになるだろう。自分たちの命を守るため、欠かせない指標だ。
「やっぱり、防護服探しは最優先にしないといけないか……」
レイトは小声でそう呟き、通路の少し先に向けて松明を掲げる。この先にいくつかの扉があることは、既に確認済みだった。
真っ暗闇の中で、古ぼけた無機質な扉は禍々しいオーラを放っているようにも見えた。中には一体何があるのか。そもそも、扉はちゃんと開くのかどうか。場合によっては、パンドラの箱になってしまうかもしれない。
次々と浮かび上がる不安に押し潰されそうになったレイトは、今の今まで部屋の探索を後回しにしようとしていたのだ。
だがこうして証拠が出てしまったからには、ドアノブに手をかけずに進むことは不可能だと悟るしかない。レイトは諦めて、近付くものを呑み込まんとする重圧と向き合うことを決意する。
まずは、一番手前から。部屋名も何も記載されていない扉は、やはり錆びついているのか簡単には開かない。両手でドアノブをひねって強めに押し引きすると、ザリザリと錆のこすれる音がしてドアが前後にずれた。何度か繰り返せば、わりとすぐに開いてくれそうだ。
「ね、レイちゃん。……今、なにか聞こえなかった?」
二本の松明を持って照らすニタは、不安そうな顔でキョロキョロと周囲の暗闇を見回している。やめてよ、とレイトは強く首を左右に振り、浮かんできた恐ろしい考えを無理矢理振り払った。
「た……ただでさえ廃墟なんだから、風の音とか鉄骨が軋む音とか、そういうのだと思うよ。あとはほら、虫の羽音とかさ」
「えー、足音に聞こえたよ……? トトトトト、って、細かく走るみたいな」
「……誰かが大根でも切ってるんじゃない?」
「そっちのほうがもっと怖いよ!」
何がいてもおかしくないのは、レイトにだって分かっていた。ドアノブを握る手に、更に力がこもる。
そして、それから十秒ほど。ガヅ、という音を皮切りに、目の前のドアはついにその道を明け渡した。辛うじてその役目を果たしている蝶番がゆっくりと回転していくにつれて、中からホコリとカビを極限まで煮詰めたような臭いが這い出してくる。
レイトは横を向いて何回か咳をすると、片手で鼻と口を覆いながら今まで通りの確認作業に入った。荒れ果てた部屋の中に散乱する、かつて机と椅子と棚だったものたち。倒れたロッカーもかなりの数があり、さらにその奥には更衣室らしき空間も垣間見えた。この部屋はおよそ事務室に相当する役割だったと考えられる。
この場所に防護服がある可能性は、十分にあると言っていいだろう。そう判断したレイトは、ニタから松明を受け取り部屋の中に入ってみることにした。計器の数値が低い値を保っているのも、やや遅ればせながら確認する。
瓦礫の隙間を探し当てながら、一歩、また一歩と。
劣化しきったプラスチックが、足の下でクシャリと抵抗なく潰れるのを感じる。
「うぅ、気持ち悪い……長居すると、卒倒しかねないな、ここ」
「こういう時は換気が一番! ……って言いたいけど、窓がないからそれもできないね」
「換気扇も、壊れてる、だろうしね……ていうか」
レイトが悪臭に耐えながら振り返ると、ニタは苦しむ様子もなく平然とついてきていた。机の天板らしきものを持ち上げたりその裏を覗き込んだりと、むしろ余裕すら感じさせる様子だ。
「ニタちゃん、この空気、平気なの?」
「うーん、すっごいもわっとしてるよね。私は好きじゃないなあ」
「いや、好きとか、好きじゃないとか、それ以前の、問題なんだけど……」
そうか、確かにこういうのも毒と言えば毒なのか。
そうなの? と不思議そうに小首を傾げるニタを見て、レイトは一人で納得する。
何度か瓦礫に足をとられつつも、二人はようやく更衣室の前まで辿り着いた。歪んだロッカーが一つ、倒れ掛かって入り口をふさいでしまっている。レイトはそれを押しのけようと考えたが、空いている方の手は鼻と口を押さえるために使ってしまっていた。手を離すかどうかで少し逡巡して、最終的に足裏で思い切り蹴っ飛ばす。
ガランガラン――と虚ろな音が響き、一回転したロッカーは仕切り壁の向こうで四百年もののホコリを盛大に巻き上げた。
「すっごい、レイちゃん豪快! ハルちゃんみたい!」
「ゲホッ、ヴェホッ……代償は、大きかった、けどね……」
更衣室のロッカーは壁面に据え付けられているらしく、原形を保っているものがほとんどだった。レイトが端から順に一つ一つ確認している間、ニタは心ここにあらずといった様子で視線を通路の方へ向けている。扉は開けっ放しになっているはずだった。
「ニタちゃん、何か気になる? 良い感じの遺物でも見つけた?」
「ううん……また、足音が聞こえる気がして。さっきより大きくなってる気がするの」
冗談を言って、レイトを怖がらせようとしているとはとても思えなかった。半分まで確認したところで作業を中断し、レイトもニタの隣に並んで音を立てないように通路の方向を注視する。
視界に動くものはない。目を閉じて聴覚に全神経を集中させると、確かにそれらしい音が聞こえてきた。二人がこれから進もうとしている方向から、小走りにしては重たいような。
近付いてきているのかはよく分からなかったが、とてつもなく嫌な予感がする。レイトは目を開けると、ニタの腕を引いて仕切り壁の陰に身を隠した。懐中電灯を取り出し足元に置いてから、松明の両方に水をかけて火を消す。残量が限られているだけに、ここで水を消費するのは非常に心苦しかったが仕方がない。
静寂に包まれた暗闇の中、壁から外を覗くとほんの少しだけ薄明かりが見えた。おそらく、さっき調べていた箱から漏れている光だ。それを頼りにして、入り口の場所におおよその見当をつける。
もう、わざわざ耳を澄まさなくても足音ははっきりと聞こえてきていた。確実に近づいてきている。部屋の中にさえ踏み込まれなければ、二人の居場所はバレないはずだが……。
足音が、にわかに小さくなって止まる。薄明かりが何かによって遮られて見えなくなり、それと同時に、強烈な獣の臭いが部屋に流れ込んでくる。
そして、そこから覗き込んでいたのは、
そこにあったのは、
レイトの顔より大きいのではないかと思えるほどの、
あふれ出る凶暴さで真紅に染まった、
水晶のような丸い瞳だった。
途端、レイトの身体の中身全てが一斉に跳ね上がって暴れ出す。
逃げなければ。ここの出口はあの場所以外にないけれど、とにかく、今すぐ立ち上がってどこかに逃げ出さなければ。
そう叫ぶ本能を、消耗しつつある理性でなんとか抑え込む。
衝動に耐えかねた片手が大きく床をこすった。何かに触れ、握られて、それがニタの手であることに気づく。
ニタは、あの瞳を見ていない。おそらく、この手も何の意図もなく反射的に握っただけなのだろう。
しかしそこから伝わる暖かさが、レイトに残った理性の最後の糸を繋ぎとめてくれた。
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