「ネズミ」
「うぅ……あっ。やっとついた!」
そんなニタの声と同時に、たった数分ぶりの橙の炎が周囲を球形に照らしだした。たかが松明の灯でこんなに安堵する日が来るとは、数時間前のレイトなら思いもしなかっただろう。
大きく息を吐きながら、レイトは使い終わった布を丸めて部屋の隅に放り投げる。あれからもう一つ角を曲がり、五つの部屋を探索する中で、紅い瞳に出会ったのはこれで三回目だった。
灯りを消してしまっているため、あれの正体が何なのかは毎回確認できていない。少ない情報から判明しているのは、とてつもなく巨大な体躯を持つ四足の獣だということ、その巨躯のためか部屋には入ってこられないこと、その二つだけだった。
「ふぅ……それにしても、弱ったな。防護服どころか、ゴーグルやガスマスクの類すらないとは思わなかったんだけどなあ」
「でも、さっき拾ったこれは? 使えそうじゃない?」
ニタが差しだしたフルフェイスのヘルメットは、鍵のかかっていない金庫の中で保管されていたものだった。密閉状態にあったためか劣化もほとんどないそれを、レイトはすっぽりと被ってみる。多少息苦しくはあるが、わざわざ片手の自由を犠牲にして鼻と口を押さえる以上の効果は果たしてくれそうだった。
「ここの淀んだ空気にはいいけどね……放射線対策にはならないと思う。これ、僕がつけちゃっていいの?」
「うん、だってレイちゃんそのままじゃ大変でしょ。それに、私が被ると引っ掛かっちゃうんだよね」
ニタが残念そうに首元のヘッドホンに触れる。一旦取り外すという選択肢には至らなかったらしい。
獣の足音が聞こえなくなったのを確認して、二人は物陰から立ち上がった。松明をしっかり握ったニタが、先に立ってレイトの手をとる。
「それじゃあ、私が手を引っ張ってあげるからね! レイちゃんは安心してついてきて!」
「え、なんで突然?」
「え? だってそれじゃあ前が見えないでしょ?」
ああ、とレイトは手を打つ。シールド部分の素材になっている、偏光レンズのことを指しているのだとすぐに合点がいった。
「これね、遮光っぽいけど中からはちゃんと見えてるんだよ。そういうプラスチックの種類なんだ」
「そうなの? 不思議……私の顔、映ってるのになあ」
ニタがシールドのギリギリまで顔を近付ける。本人は鏡でも覗いている気分なのだろうが、レイトからすればなんとも落ち着かない。どうしても身体がそわそわと動いてしまう。
「ちょ、近いってば……ほら、あの紅目がまた帰ってくる前に先へ進まなきゃ」
「あ、そうだった。えっと、次はどの部屋だっけ」
「通路の扉は全部確認したはずだから……あと残ってるのは、もう一つ下の階かな。どこかに階段か何かがあると思うんだけど」
通路に顔を出したところで、獣の気配がないことと計器の数値に異常がないことを再確認する。部屋を出て後ろ手にドアを閉めたレイトは、ヘルメットを外して小脇に抱え込んだ。
通路は一本道で、事前に確認した限りでは行き止まりになっているはずだった。しかし、下にもう一つ階層があるのは確かなのである。まさか、あの箱から飛び降りるしか方法がないなんてことはないだろう。
レイトは十歩ほど進んだ場所にある奥壁に近づき、そっと表面に手を触れる。別段変わった様子も、何かが隠されている感触もない。他の壁と、特に素材の違いもないように感じられた。
「ええ、絶対ここだと思ったんだけどなあ……本当に? 本当に何もないのここ?」
今度は遠慮なく、手のひら全体を使って強めに叩いてみる。
バァン、という音が身体を貫いていった。てっきり中身の詰まった味気ない音が鳴ると思っていただけに、レイトは酷く度肝を抜かれる。
慌てて耳を澄ませたが、どうやら獣は運良く遠くに離れているようだった。こちらに向かって走ってくる音は聞こえてこない。
「わっ! ねぇレイちゃん、見て見ておっきな穴!」
と、横の壁を調べていたニタが、腕を後ろに伸ばしてレイトを手招きした。松明の灯りに照らし出され、壁の高さいっぱいに広がった円形の穴が浮かび上がっている。中は通路とうって変わって土一色で、明らかに施設の一部ではなかった。
「どうするレイちゃん、この先に何かあったりするかな? 行ってみる?」
「いや、絶対にやめておいた方がいい」
レイトは自身の松明を下に降ろし、ニタの足元を照らした。握りこぶしを二つ合わせたくらいの黒い塊が散らばって落ちている。そのうちのいくつかは、まだ湿っているようにも見えた。
「分かる? これ、あの紅目のフンだよ。この穴はあいつの巣穴の一部なんだと思う。あの身体のサイズじゃ、この通路だけでは手狭だろうからね」
「じゃあ、この壁に穴を開けたってこと? こんなに硬いのに」
「うん。だからたぶん、あれはネズミの仲間なんだろうね。虫や犬の比じゃない、数千倍クラスの巨大化だ」
もしこの通路でまともに遭遇してしまえば、細い尻尾の一振りだけでも致命傷を負ってしまうことだろう。それだけじゃない、この巣穴を掘れるということは、部屋に繋がる壁ですらかじり取れるということになる。
部屋の扉を通り抜けられないと分かったときに、慢心することなく松明を消し続けたことが功を奏したのだ。そう理解したレイトの全身を、じっとりと滲み出た嫌な汗が流れ落ちた。
「すごいなあ……どうやってるんだろ」
ニタは巣穴に松明を突っ込んで照らしながら、周囲の壁をぺちぺちと叩いている。その音こそ、レイトがさっき奥壁に期待した『詰まった音』だった。
「ああそうだった、この壁……たぶん奥に空間があるはずだから……」
レイトは奥壁に向き直り、懐中電灯を取り出して他の部分との接合部に光を当て始める。すなわち、左右の壁と、床と、天井と。
それらのうち、天井と床の部分には黒ずんだ銀色の縁取りがあった。やっぱり、と呟いて、レイトは床に膝をつく。ほどなくして、地面と壁との間に一センチにも満たない隙間が発見された。
もしハルキなら、こんなまどろっこしい行動なんてせずとも。古びたシャッター程度、勢いだけで吹き飛ばしてしまいそうなものだが。
「ニタちゃん、ちょっと訊きたいんだけどさ」
「ん、なに――って、どうしたのレイちゃん⁉ お腹痛いの⁉」
身体をくの字に折り曲げ、地面に這いつくばっている姿勢はよっぽど苦しそうに見えたらしい。気が動転した様子のニタが駆け寄ってくる。
「あ、ごめんそうじゃなくて」近くに転がってきたフンを踏まないよう、レイトは地面を照らしながら身を起こした。「この壁、ハリボテみたいなんだ。たぶん電気駆動のシャッターだと思うんだけど、今までに見た場所で操作盤みたいなものってあったかな、って」
「操作盤? うーん、機械っぽいのはいくつかあったけど……。私、見ても分かんないかも」
「そっか。いや、念のためにね。僕も見た覚えがないから、たぶんまだ見付けてないんだと思う」
もし操作盤が見つかったとして、実際にそれが稼働しているかといえば正直疑わしい。回路自体は独立していて照明用のそれよりも単純なはずだが、そもそも電気がなければ意味がないのだから。
と、すればだ。レイトはもう一度、シャッター全体をくまなく照らしてみる。
こういった隔絶目的のシャッターには、通常閉じ込められた時のために非常口が備え付けられているはずだ。そのほとんどはシャッターの隣に設置されているものだが、ここにはそれがない。つまり、その扉は見えないところにあるのだと推測される。
「この扉の横って、さっきの部屋と違うよね?」レイトは巣穴がない側の横壁を拳で軽く打つ。「ここに入れれば、向こう側にも行けると思うんだけど……心当たりはある? 入り口は、間違いなくこっち側にあるはずなんだ」
「んー……毒が危なくて入らなかった部屋は、確か二つだったっけ。そのどっちか? でも、二つとも結構手前にあったよね」
「そうだね。あの部屋がそうなら異様な部屋の形状になっちゃうし、でも、この通路は一本道なんだよね……」
考えた末、二人は一旦通路を引き返してみることにする。松明の限られた灯りで探索してきた以上、見落としがあってもおかしくはない。
「あ……また足音だ。近くの部屋は――」
「レイちゃん、こっちこっち! おっきな棚があったはずだよ!」
ニタの手招きに従って、レイトはなるべく足音を殺しながら部屋に駆け込む。ヘルメットを乱暴にかぶって棚の裏側に身体をねじ込み、もはや慣れ切った手つきで松明の灯を消した。
緊張感に溢れる暗闇の中で、これじゃあまるで監視されてるみたいだ、などと考えて。
あれは野生の動物だから、もちろん腹は立たないけれど。
絶対的強者に脅かされるのは、どこに逃げても結局同じなのだろうか。ニタにとっての犬のように、誰かが不敗神話を終わらせてはくれないだろうか。
逃げる選択肢は選べても、乗り越えようと思えば人任せになってしまう。理不尽に真っ向から立ち向かうハルキのような強さが欲しいと、心から願ったのはこれが初めてではなかった。
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