影も形も
さて、いざ掃除を全て終わらせてみれば、拠点と定めた元酒場は予想を遥かに上回る良物件だった。
一階奥の右扉の先は酒場の主人の自室と思われる部屋で、腐りかけの布と木材が散乱する中、湿った香りのする革張りの長椅子が窓際でまだ辛うじて生き残っていた。ベッドとして活用するには少々心もとないが、座って休憩するぶんには本来の役目を果たしてくれそうだ。
暗闇に包まれていた地下の部屋は食料倉庫で、見たこともないような野菜や魚、ワインなどが冷暗所で保存されている。驚いたのは、塩分濃度や密閉性が高いもののいくつかは未だ食用に足るだけの鮮度を保っていることだった。
三人はこの場所で数泊し、減ってしまった食料の補充と進行方向の調査、体力の回復を終えてから先に進む……はずだったのだが。
レイトが目を覚ました時、建物の外では雨が降っていた。いや、天井に穴が開いているのだから、正確には建物の中にも雨が降っていた。
建物が土台ごと傾いているのだろう、降り落ちた雨水は床の上で川を作り入り口の方向へと流れていく。猛烈な雨の勢いは地下都市で体験していたものとはまるで別物で、これなら来る途中に水たまりがたくさんあったことにも納得だった。曇天の薄明かりを反射する透き通った直線は、一瞬下に立っただけで針のむしろのごとく刺し殺されてしまいそうである。
タイミングよく、奥の扉が開いてニタが駆けだしてきた。レイトは掃除した残りの廃材を持ってくるように指示して、自身もそれに加わり川を隔離する簡易なバリケードを作る。荷物を地下に移動して、雨の当たらない場所を探し、そこに二人並んで腰を下ろし、そして気付く。
やけに静かだと、思ってはいたのだ。
こういう時、真っ先に大騒ぎしそうなハルキの姿がどこにも無かった。
「ニタちゃん、ハルキは?」
レイトが訊くと、二つ折りになった一枚の紙が手渡された。そういえば、ニタも口数がやけに少ない。不穏に高鳴る心臓の鼓動を押さえつけながら、紙を開く。
『どうしても必要な用があって、ここを離れる。一週間戻らなかったら、先に進め』
間違いなく、ハルキの筆跡だった。
「朝起きたらね、あそこの折れたカウンターの上に置いてあったの。そのままだと濡れちゃいそうだったから、私が持ってたんだけど……どうしても必要な用、ってなんだろう?」
ニタが不安そうにレイトを見上げる。こういうときに力強く励ますのが頼れる男というやつなのだろうが、咄嗟にそんな行動がとれないくらいにはレイトも同じ気持ちだった。
「僕にも、心当たりはないよ。分かるのは……どこへ向かったにしろ、この雨の中で追いかけるのはやめておいた方がいいってことくらいかな」
と、その時だった。地を裂くような轟音が大気をビリビリと震わせ、地面が共鳴したように揺れる。
近くに、大きな破壊力のある何かが落ちたらしい。
あまりにも率直にすぎる、命の危険だった。
先ほど鞄を避難させたばかりの地下へ、二人は肩を寄せ合うようにして小走りで潜り込む。
レイトは鞄の奥底に手を突っ込み、地下都市から持って来た懐中電灯を取り出して明かりをつけた。電池がもったいないと今まで使用を避けてきたものだが、さすがに今回ばかりは渋っていられない。これがなければ地下は真っ暗なのだ。
しっとりとしたむき出しの岩壁が丸い光に照らし出される。雨音が少し遠くなったのを感じて、ほんの少しだけ平穏が戻ってきたような気がした。
「……あ、水が減ってる。ほらレイちゃん、あそこあそこ」
レイトにとっては照らされている部分だけが視覚情報の全てだったが、どうやらニタはレイトよりもかなり夜目がきくらしい。ニタが指さした近くの暗闇に、レイトは懐中電灯を向ける。
そこに転がっていたのは、ハルキが背負って運んでいた水の袋だった。五本あったペットボトルが三本になっている。二本は、きっとハルキが持って行ったのだろう。
ついでとばかりに鞄の中身もひっくり返してみたが、タバコ一箱とライター一つ、残っていた干し魚が数枚なくなっていただけだった。
食料と水、それは当然としてそれ以外の減りがほとんどないことの方が心配だ。ナイフすら置いて、この森の中で長期の単独行動だなんてとても正気の沙汰じゃない。
「きっと、大丈夫だよ。だってハルキだし」うわごとのように、自分に暗示をかけるかのように、レイトの唇の隙間からそんな言葉が流れ出る。「それよりも……そう、それよりも。僕たちのことを、考えなくちゃ」
「ハルちゃんがいないと、あんまり無茶なことはできないよね」ニタが相槌を打つ。「獣から絶対に逃げなきゃいけないのはもちろんだけど、道がふさがれてるところも通れなくなっちゃう」
「時間はかかるけど、ツタを切るくらいなら僕にもできるよ。でも、岩を動かさなくちゃいけないような場所は迂回が必要になってくるかな……アイゼルさんが教えてくれた地下への入り口、一回身軽な状態でそこまでの進路確保だけしておいた方がいいかもね」
そう言ってしまってから、ひょっとしてハルキもその目的で出て行ったのではないか、などと考えつく。そして、その考えはすぐに自分自身によって否定される。
今までにも、進路を先に確認しておくような場面はあった。しかしその時は決して長時間にならないように気を配っていたし、なによりハルキが二人を置いて行く理由がない。
声をかけずに出て行ったのならなおさらだ。話せば止められると踏んでのことだろうが、レイトが過剰なまでにハルキを信頼しているのはハルキ自身も知っているはずである。しばらく頭をひねってみても、自分が身体を張ってまで意地でも止めたいと思うような理由は、レイトにはどうも考えつかなかった。
「とにかく、ここで一週間待ってみよう。それまでにハルキが帰ってくればいいし、帰ってこなければ……その時は、うん。僕たちだけでもこの先へ進めるように、準備だけはしておいて損はないよね」
保留。それが、最終的にレイトの出した結論だった。ニタは半分頷きかけて、ふと思い出したようにレイトの顔を見上げる。
「あの。私の街に戻るのは、ダメなの?」
「その方が本当はいいんだろうけど、それだけはダメかな」レイトは地上への階段に視線を向け、雨の飛沫と共に差し込む長方形の薄明かりを瞳に映す。「あの街に戻っても、そりゃ生活はしていけると思うよ? 思うけど……せっかく、地上で生きていくことを自分の意思で決めたんだ。もう袋小路の世界も、抑圧された社会もこりごりだし」
あの海沿いの廃墟街は、凶暴な獣がうろつく森に阻まれている限り、あれ以上の発展を見込めないだろう。街の在り方としてはそれでいいのかもしれないが、レイトにはどうにも我慢ならなかった。
せっかく、こんなにも広大な世界に包まれているというのに。圧倒的な権力で民意を理不尽に呑み込む、権威的な為政者はいないというのに。
何にも制限されず自由に開進を遂げられないだなんて、もったいない。
今まさに好奇心をもって自己の世界を広げようとしている、ニタという存在。彼女に出会ったことで、レイトの中の淡い期待は強固な希望へと変わりつつあった。
「ていうかこの旅を企画した段階で、はなから無鉄砲な選択肢を選んでるのは分かり切ったことなんだよね。度合いが一層酷くなっただけで、結局生存確率の低い賭けに出てるのは変わらないしさ。だったら、やるだけやってみた方が後悔しなくて済みそうじゃない?」
湿っぽいのは天気だけで十分だ。レイトが明るい口調でニタに笑いかけると、ニタも笑顔で応えてくれる。
「そうだよね。私だって、外に出るって自分で決めたんだもんね。私も後悔はしたくないし、レイちゃんと一緒に頑張ってみようかな」
いつしか雨の音はすっかり聞こえなくなっていた。二人がおそるおそる地下から首を出すと、さっきまでの凄絶さが嘘だったかのように辺りは澄んだ空気に満たされている。周囲の全てを混ぜ合わせたような雨上がりの独特な匂いは、地下でも地上でも同じらしかった。もう聞き慣れたあのやかましい鳥が、どこか遠くで太陽を取り戻した喜びを高らかに歌い上げている。
レイトは豪雨を耐えきったバリケードに手を触れ、びっしょりと濡れた廃材を一本抜き取った。ニタに向かってそれを掲げ、左右に振ってみせる。
「振り返ってみれば僕たち、今までハルキに頼りすぎだったんだよね。だから、これはある意味でいい機会なのかもしれないしさ。少しの間、自分たちの力を確かめてみるってことで」
期間はほんの一週間、安全な拠点だって確保されている。これで何もできないなんてことがあったら、それこそ役立たずどころの騒ぎじゃない。
やるべきことは分かっているのだから、いっそ帰ってきたハルキが目を丸くして仰天するほどに。ニタも大いに意気込んで、両腕で作ったガッツポーズを力強く胸の前に引き寄せた。
「そうと決まったら、いつハルちゃんが帰って来てもいいように準備だね! よーし、張り切って――きゃあ!」
外に向かって走り出そうとして、濡れた木材で足を滑らせ、後ろ向きにバランスを崩す。盛大に尻もちをつく寸前でその身体をなんとか受け止めたレイトは、バツの悪そうな笑顔を見下ろして深々と息を長く吐いた。
「本当にこの調子で大丈夫かな……時間はかかるけど、二人で一緒に行動した方が良さそうだね?」
「えへへ……うん、その方がいいかも」ニタが立ち上がり、数歩先でレイトに向かって両腕を広げる。「今日は日が暮れるまで、食べられる草とキノコを探しに行こう。雨が降った後だから、きっといつも以上に元気で新鮮な食材が取れるはずだよ!」
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