「獣」の牙

 牽制。


 自分と同じくらいの大きさの生き物に対して、毛を逆立てるでも身構えるでもなく、ただ敵意だけをむき出しにして相手の目をじっと見据える。

 わずか二メートルにも満たない互いの間合いの中で成り立つ、その、奇跡のように危うげな、均衡。


 ――先に動いたのは、ハルキの方だった。


 右足を半歩前に出し、低い位置で左の回し蹴りを放つ。犬はそれを僅かな横移動で避けた。その蹴りを予備動作として、体を反転させながら軸足を入れ替えて。間髪入れずに反撃に転じた牙を、腰の高さまで持ち上げた右足の靴裏が受け止める。


 犬の鼻先にヒールの先端が食い込む。

 グゥ、とくぐもった声が響いて、犬が飛びのく。


 ハルキも、大きく舌打ちをして後ろに転がった。一回転して、体勢を立て直した時にはもう、次の牙が眼前に迫っていて。

 ハルキが、辛うじて腕を動かす。何も持たない左腕を横に、ナイフを握った右腕を縦に、それぞれ構えて、


 そこに、犬が喰らいつく。


 束の間、あらゆる時が止まったかのようだった。ハルキを押し倒した姿勢のまま、犬も、ハルキも、完全に静止して、


 犬がゆっくりと口を離し、身を翻して奥の木立に駆け込んでいく。


 時間にすれば、ほんの二十秒ほどだっただろう。眺めていた光景をただ受容するばかりだったレイトは、何が起こっていたのか把握するのにその倍の時間をかけた。


 そして理解した瞬間、硬直していた身体に激しい震えが走る。初めて出会ってから今まで、レイトはハルキがここまで戦闘で苦戦した姿を見たことがなかったのだ。


 もちろん、それなりに大きな怪我を負ったことはある。三十分以上勝敗がつかなかったこともある。でも、まともにぶつかっていって痛み分けのような、勝ちを譲ってもらったかのような、そんなことは一度もなかった。


 だから、ただ、怖かった。ハルキが勝てない相手がいたから、ではない。


 ハルキが逃げの選択肢を正しく選べなかった、つまり自分たちの経験の領域外の生物が存在していた。自分たちの常識で量れない、場合によっては不意打ちで致死ダメージを負いかねないモノがここには存在している。


 すなわち自分たちはそういう場所に来てしまったのだと、ようやく現実として認識できたからだった。


 地下都市で、初めて郊外に足を踏み入れた時。あの時感じた恐怖や不安も、思えばこんな感じだったような。


 やがて全てを呑み込んだ後、レイトはニタの手を引いてハルキのもとに駆け付ける。今まで俯いてばかりだったニタは、いまだ状況理解が追い付かないという風に目を泳がせながら、しかし確かな足取りでレイトの後ろをついてきた。


 ハルキはその場で起き上がり、片膝を立てて座っていた。


「……遅ぇよ。見てたんだろ、ちゃんと」

「うん、ごめん。なんだかしばらく動けなくなっちゃって」


 なんだそりゃ、と鼻で笑うハルキの傍らに、ナイフが無造作に置かれていた。それを拾い上げたレイトは、先端から五ミリほどの範囲に赤錆色の血が付着していることに気付く。


「ハルキ、この血は……犬の?」

「ああ、腕と引きかえに眉間をな。さすがに頭蓋骨を砕くなんて真似はできなかったけど、俺も骨は無事だったから痛み分けってとこか」


 そう答えたハルキが服の左袖をまくる。釘で抉ったような穴が表と裏に二つずつ、生乾きの血塊と青黒い筋模様の内出血に囲まれていた。


「ああ、でもやっぱり軋むな。っは、明日にはこの腕ぜーんぶ真っ青になるぜ」


 何度か腕を左右にひねり、ハルキは自嘲気味に頬を歪める。その生々しい傷と、ナイフと、何度も交互に見比べたニタが久々に言葉を発した。


「ハルちゃん……本当に、勝っちゃったんだね」

「勝った、って言えるかは微妙なところだけどな。獲物がお手軽に仕留められないと分かって面倒臭くなったんじゃねぇの? もしあいつが『最小サイズ』じゃなかったら、どちらかが死ぬまでの戦闘だったら、やられてたのは確実に俺の方だったさ」


 吐き捨てるようなその言い方には、悔しさと自責とがありありと浮かび上がっていた。そのまま乱暴に立ち上がり、池に向かって歩き出したハルキをニタが呼び止める。


「あ、待ってハルちゃん! すぐに手当てするから、えーっと包帯と、薬草と――」

「あーいいって。こんなんよく洗って一週間も乾かしときゃ治る」


 足を止めるどころか振り返りもせずにそう言って、ハルキは池の縁に膝をつくと腕を水に深く沈めた。鞄に両手を突っ込んだままのニタは、それでも心配そうに手元とハルキの背中との間で視線を往復させている。


 その様子を見て、小さくため息をついて。レイトはハルキの隣にナイフを持っていき、同じように水中でこすり始めた。血や草の汁でくすんでいた刀身に銀の輝きが戻ってくるのを目と指先で感じながら、口を開く。


「そう言うと思ったよ。ハルキ、前もそんなこと言って指半分取れかけたのをずっと放置してたもんね。でもさ、自信があるのもいいことだし自分を蔑ろにするのも勝手だけどさ……人間、獣、機械に限らず、致死的な危険って案外どこにでも転がってるもんなんだからね? 傷口で殖える菌とか、今の犬だってある種未知の存在だったわけだし」

「……そりゃあ、まあ。正直、俺も舐めてたけどさ。小さい犬に勝ててデカい人間に勝てるんだから、デカい犬にも勝てると思うだろ? ……何年ぶりだろうな、マジで死ぬと思ったのなんて」

「ねぇハルちゃん、本当に大丈夫ー?」

「大丈夫だっての! ……ま、でも実際これぐらいの方がいいんだよ、敵なんていうのはさ。手っ取り早い経験値稼ぎには、頑張ればギリギリ勝てるかもしれない、くらいの方がいい」


 濡れて活力を取り戻した血が、傷から流れ出して澄んだ水の中に細くたなびいていた。ハルキが腕を軽く揺らすと、その煙の様な液体はあっという間に溶けて見えなくなる。


「あの頃は俺一人だけでよかったけど、今はおまえらがいるだろ。俺より強いヤツがいるならいるで、できるだけ早くそいつらよりも強くなって、ちゃんと守り切れるようにならねぇとさ。それが俺の使命みたいなもんだし」

「結局は力一択、かあ。本当にハルキは、なんていうか……強いよね」

「まぁな。でなきゃこんな役目つとまらねぇよ」


 パタパタという足音が聞こえてきて、二人は同時に振り返る。空のペットボトルを抱えたニタが走ってくるところだった。


「なんかやることないかなって思って、持ってきちゃった。ここの水、汲んでも大丈夫だよね?」

「うん、ありがとう。あ、でも水源を見付けたってことで水は最低限の方がいいのかな」

「あるだけあってもいいんじゃねぇの? 拠点はまだ見つけてないわけだし……つか、その水運ぶの俺だし別に構わねぇよ」


 ニタが大きく頷いて、二人から少し離れた場所で楽しそうに水を汲みはじめる。レイトは新品のようになったナイフを水中から取り出し、軽く振って水滴を飛ばした。


「僕も地図を描いとかなくちゃ。街道と、池の場所と、川の流れとがあればとりあえずは大丈夫だよね?」


 ハルキが両肩を上げ、俺は知らねぇよ、と無言で返す。

 レイトは苦笑して、ハルキの腕を拭くタオルを取りに鞄の所へと戻った。

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