邂逅

「ところで、こっちに来たはいいけど上流にある池は問題ないのかよ」

「うん、そっちは今度こそ大丈夫。川ができるなら流れもあるし湧き水ってことだから、そりゃもちろん飲むときに加熱殺菌は必須だけど、ほら噴水みたいなもので」


 結局、十メートルほど進んだ場所で二人はハルキと合流した。ハルキも突き放すようなことを言った割には背後を気にしていたらしく、二人が走り出した頃には足を止め、振り返って待っていてくれていた。


 街道近くまで辿り着いた今はもう、ハルキもすっかり機嫌を直してしまって元通りの調子である。相変わらず進路妨害も甚だしいツタをナイフでかっさばきながら、よそ見をしつつレイトの説明に耳を傾けていた。


「噴水ってぇと……ああ、むかーし市庁舎の前に置いてあったアレな。何の意味があるんだろうって思いながらよく水飲んでたわ」

「飲んでたの⁉ あそこから⁉」


 都市の中心といっても過言ではない場所で人目をはばからないその行動。今と変わりないハルキのあまりの大胆さに、レイトは目を白黒させる。


 あれはあんまりきれいな水じゃないからやめておいた方がいい、というにしても、ハルキが市庁舎に行く機会があったというだけでもう十年以上は昔の話か。今目の前にピンピンしているハルキ自身がいる以上、この無意味だろう忠告を言っておくべきなのかは悩ましいところだ。


 というよりそもそも、ハルキがここまで力をつけたのは郊外に入り浸って喧嘩に明け暮れるようになってからだと聞いていたが。それよりも以前から、この豪胆さは身に着けていたということなのだろうか。


「うん、まあとにかく、そういうことだからさ」悩んだ末、レイトは指摘を胸にしまっておくことにする。「水源の質については心配せずに、今は犬にだけ気を付けて……ニタちゃん?」

「レイ、レイちゃん……!」


 それは、異常なほどの震えだった。


 近くにいる犬の存在を感じ取ったのだ、とレイトは直感する。それを伝えようとハルキの方に向き直った時には既に、水の入った袋が目の前に差し出されていた。


「良い知らせと悪い知らせってやつだ。どっちから聞きたい?」

「悪い知らせは大体予想ついてる。良い方だけでいいよ」


 ハルキの手から袋を受け取り、鞄と一緒に肩にひっかける。途端に重みがズシリと増した。


 ハルキが二人をかばうように一歩、前進する。


「お目当ての水源が見つかったみたいだぜ。でっかいオマケと一緒にな」

「結局どっちも言うんじゃん。それで? 数は?」

「気配は遠くに複数、見えるのは一頭。……アイツらって、仲間が殺されたらカタキをとるタイプなのか?」

「さあ……都市の野犬は集団でいることが多かったけど、ああいうのって身体が小さくて個々が弱いから群れてるんだと思うんだよね」


 明確な答えの出ないまま、三人はハルキを先頭にして徐々に犬のいる場所へと近付いていく。ただそこにいるだけなら避けて進めばいいだけなのだが、他にあてのない水源がそこにあるとなると話は別だ。判断を誤ればこちらの命に関わる問題にまで波及する恐れがあった。


 ニタは、全身を震わせたままレイトの腕に両手で縋りついて目を強く閉じている。彼女が木の根などにつまずいてしまわないよう、うまく誘導するのがレイトにできる精一杯だった。


 やがて、ハルキの指示に従い三人は目的地近くの低木の影へ身を隠す。絡んだツタの隙間から、レイトにもその場所の様子がはっきりと見えた。

 全方位を森と僅かばかりの草地に囲まれた円形の池は、直径にして十メートルに満たないくらいだろうか。深さは不明だが、水が透き通っていることは遠目からでもよく分かる。


 そして、その池のほとりに一頭の犬の姿があった。黒く、触れば突き刺さってしまいそうな毛に覆われた全身は太陽の光を全て吸収しきっているかのようで、身体の大きさはニタの言うところの『最小サイズ』に近い。黄金色の瞳を鈍く光らせ、垂直に立った鋭角三角形の耳を忙しなく周囲へ向けながら頭を下げて水を飲んでいる。


「こっちが風下で助かったな」ハルキがレイトの耳元でそう囁いた。「立ち去るのを待ってもいいが、風向きが変わったらたぶん終わりだ。喧嘩して、追い払うってんなら最高の引きだけど、どうするよ?」


 即答はできない。だが、結論に時間をかけてもいけない。


 レイトとハルキだけならともかく、ここにはニタがいるのだ。近付くだけでもこの状態なのだから、万が一犬が向かってくるようなことがあればきっと一歩も動けなくなってしまうだろう。レイトだって、たとえ荷物を全て捨てたとしても四つ足の獣から逃げ切れる速度で走ることなど不可能である。


 ならば、賭けに負けて迎え撃つか共倒れになってしまう前に、ハルキに全ての命運を託した方がいいのだろうか。そんな人任せで身勝手な結論を、自身が導いてしまってもいいのだろうか。


 だけど、それで失敗すれば……また奪われることになる。

 今度は目の前で、自分の選択のせいで、大切な存在が食い破られる瞬間を瞳に映すことになってしまう。


 ハルキはレイトの答えを待っている。もう、一刻の猶予もなかった。


「……追い払うべき、かな」


 レイトが唇を噛んで発した答えを、ハルキは顔色一つ変えずに首肯一つで受け入れた。いつものように不敵な笑みを浮かべ、音がしないようにそっと腰を浮かせる。


「いいか、おまえらはここにいろよ。レイト、もし何かあったら注意を逸らすなりなんなり、ニタを守るのはおまえに任せたぜ」


 そう言い残して、ナイフ片手に足音を殺し、池の周囲に沿って犬のいる場所へ回り込んでいく。

 レイトは、勝手に震え出した自らの手を傍らで縮こまるニタの背に回した。


 遠ざかっていくハルキの後ろ姿が、重なり合う木々の向こう側に見えなくなって。


 ざわめきだけが支配する空間の中、大きな舌で水を絡めとる一定のリズムが、


 止まる。


 次にレイトが見た時、池の横には互いに睨み合う獣と人の姿が、もうそこにあった。

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