文明の道しるべ

 獣は火を怖がるが、人に慣れているものは夜の炎を獲物の指標とする。この日、池のほとりで三人が一晩を明かした時、飲料水の煮沸と調理以外で火を灯さなかったのは無知ながらにファインプレーというべきなのかもしれない。


 レイトは池の上空に広がる満天の星空を何にも邪魔されずに見たかっただけ。

 ハルキは薪にする枝を大量に拾ってくるのが面倒臭かっただけ。

 ニタは周囲が明るいと眠れなかっただけ。


 ただそれだけの理由が、夜に活発化した犬から三人の身を守った。レイトがそれを知り得たのは、半年も後のことになるが――



 ともあれ、翌日の朝。閉じた瞼に強い光を感じてレイトは目を覚ました。目を開けた瞬間に、キラリと光るナイフが視界を占有する。


「えへへ。おはよう、レイちゃん。起きた?」

「いや、起きたけど、起きたっていうか、え、なに」


 これ面白いよね、とニタがナイフをくるくると左右に回転させる。ナイフが一回転するたび、穏やかな日差しを煮詰めて凶悪にしたような屈折光がレイトの瞳孔を通り過ぎていった。

 なるほど、どうやらさっきの光と猟奇的な光景は、ニタが日光をナイフの腹で反射させてレイトを起こそうとした結果らしい。


「ああ、何事かと思った……。ハルキは? まだ寝てる?」

「ハルちゃんならさっき起きてタバコ吸って、それから道の確認に行ったよ。そんなに遠くへは行ってないはずだし、もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」


 昨日と比べて、ニタが目に見えて元気になっている。たとえ最弱個体相手の辛勝だったとしても、ハルキが犬を追い払ったという事実はニタにとって大きな安心材料になったのだろう。


 自分たちが決して敵わない、絶対的な強者であり脅威。主観的に見れば不敗神話ともいえるその固定概念が覆されたことは、レイトにとっても自分のことのように嬉しかった。


 自分にとってのそれが、既に宇宙の彼方にあって今更どうにもできないからこそ、ほんの少しだけ羨ましくも思うけれど。


「それじゃあ、今日は拠点探しだね。水も補給したし、地図も描いたし、あとは……ここから徒歩一時間圏内くらいで見つかってくれれば言うことなしなんだけどなあ」

「少なくとも今日中には見つけたいよね。気持ちいい空気の中で寝るのも好きだけど、やっぱり危ないもん。昨日の犬が、いつ仲間を連れて復讐しに帰ってくるかも分からないし!」

「あー、それ一番嫌なパターン」


 草が生えているとはいえ、土の上で寝ると身体が固まってしまう。立ち上がったレイトが我流の体操もどきをやっているうちに、ガサガサと茂みをかき分けながらハルキが帰ってきた。


「あ、おはようハルキ! 傷の調子はどう?」

「案の定、ここら辺一帯が痣でゾンビみたいになってるぜ。重いもん持つのは問題ないけど、何かを殴るとか振動系はしばらく無理だな、これ」


 ハルキが袖をまくって傷を見せてくれる。穴にはかさぶたができており血も完全に止まっていたが、昨日は筋模様だった内出血が前腕のほぼ全域に広がっていた。


「うわぁ、痛そう……」

「おいニタ、珍しいからってつつくんじゃねぇ。俺にだって痛覚はあんだよ」

「いや、でも本当に骨が無事で良かったよね。それでハルキ、道の方はどうなってた?」

「ああ、そうそう。街道はまだしばらく先まで続いてるっぽいのと……あと、ちょっと気になる場所を見つけてな。とりあえずそっちに向かってもいいか」


 ハルキの意見に同意し、三人は荷物をまとめて池の周囲を離れる。進行方向は池から街道沿いにまっすぐ、森の奥の方へ進むルートだった。


「さっきここらを見回ってた時に、何頭か犬を見たんだよ。隠れて観察してたんだけどな。どうも、あの木の辺り……つっても、似たようなのばっかりで分かんねぇか。とにかく、あそこら辺から先に入ろうとしねぇんだ、あいつら」


 そう言ってハルキが円を描くように指し示した場所は、一見他と変わらない森の一部分に見えた。特に植生の乱れも無ければ、変な音や臭いがするわけでもない。


 と、奥から身体の大きい犬がのっそりと姿を現した。ハルキが素早く手のひらを下に向け、三人は姿勢を低くする。


 犬は、特に警戒もしていない様子で周囲をゆったりと見回していた。空気の匂いを嗅いで、街道の方向を向き、少し進んで……唐突に足を止める。まさにハルキが示した辺り、まるで見えない壁に阻まれたかのようだった。


 しばらく犬はその場でうろうろと足踏みを繰り返していたが、やがて諦めたのか逆方向に歩いていく。黒い影が森の奥に消え去ってしまうのを確認して、三人は知らぬ間に止めてしまっていた息を大きく吐いた。


「いいタイミングだったな。分かるか、不自然だろ?」

「うん、何かを忌避しているように見えた。背中が木の葉っぱに触れてしまいそうなくらいの……あのサイズでも阻めるんなら、物理的な罠や壁じゃなさそうだね」


 しゃがんだまま、レイトとハルキは額を突き合わせるようにしてそう話す。そんな二人の肩を、ニタががっしりと掴んで揺さぶった。


「とにかく行ってみようよ。行ったら分かるよ!」

「そりゃまあ、そうだけど。人体にも有害だったらどうするのさ」

「その時は……その時じゃない?」

「あのなぁ。ほんっとにおまえ、犬以外には好奇心百パーセントで動くよな」


 とはいえ、このまま推測ばかりしていてもらちが明かないのはその通りだ。二人は顔を見合わせて頷き、問題のエリアへ進むことを決める。近くに犬がいない今のタイミングがちょうど良さそうだった。


 ニタに背中を押されるようにしてやや急ぎ足に。三人が辿り着いたそこは、やはりなんの変哲もなさそうな木とツタと草の塊だった。レイトは五感に大きな影響がないのを確認して『見えない壁』の中に踏み込んでみたが、あの犬が感じていたような、そこに入るのを躊躇う感覚は今のところ感じられない。


「……大丈夫、そうだね。うーん、木に何かついてたりするのかな」

「周りには……ん。あっちに何かあるか? ここからじゃよく……レイト、俺ちょっとあっち見てくるけど」


 目を細めていたハルキが二人の方を振り返って奥の方を指さす。ニタがすぐさま片手を高く上げた。


「あ、私も行く!」

「ニタちゃんも? えー、じゃあ僕も……いや、でもなぁ……うーん。やっぱり、僕はもう少しここを調べてるよ。あとから有害なのが発覚したらシャレにならないし」


 レイトがそう言うと、二人は頷いて奥の方へ向かっていった。木々の向こうで、ニタが大きく手を振って居場所を知らせてくれている。


 本来、こういう場所で単独行動をするのはあまり褒められた行為ではない。レイトはさっきの犬の忌避行動を信じて残る選択をしたのだが、問題はそこだけではなかった。二人が自分から離れていくと、孤独に対する本能的な恐怖が襲ってくる。


 やはり、調べるのは後回しにして今は二人と合流すべきだろうか。そう考えたレイトが視線を背後に向けた瞬間、ツタに覆われた奇妙な鉄の棒が視界に飛び込んできた。


 細く高い形状は交差点のカーブミラーにも似ているが、上端についているのは鏡ではなくさらに細い金属製の棒。それの配置はカーブミラーと同じく直角方面に数本ずつで、範囲外に背を向けて……地下都市のどこかで、これに似たものを見た記憶がある。一体どこだったか――


「「ああっ!」」


 驚きの声は、二か所で上がった。どうやらハルキとニタの方も、同時に何かを発見したらしい。時を待たず、ハルキがやけに興奮した面持ちでレイトの所へと帰ってくるのが見えた。


「ハルキ、分かったよ! これ、獣除けの超高周波音響装置だ! 人間なら可聴域外だけど獣には聞こえるからって、ほら、都市で鳥や虫から畑を守るのに使われてたやつと同じ種類の」


 早口でそう話すレイトの腕を、ハルキが掴んで引き寄せた。じんわりと締め付ける圧力が、跳ね上がったレイトの気分を急速に落ち着かせていく。


「そんなことより、レイト。いいから来い、見つけたぞ……街だ!」


 レイトの背筋を電流にも似た震えが急速に駆け上がる。


 腕を引かれるまま進んだ先、朽ち木とレンガで建造されたアーチの前で、ニタが満面の笑みを輝かせ両手を大きく振っていた。

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