ハシゴを登って

 通風孔は、レイトが想像していた規模の三倍近い空間だった。大型のトラックが三十台は止められそうなコンクリートの床に、黒く塗装された円筒形の壁。その高さは、どんなに低く見積もっても五十メートル……いや、その十倍くらいはもしかしたらあるかもしれない。


 ぽっかりと空いた天井から、丸く切り取られた青空が覗いている。管理施設に入る前、最後に見た偽天球と全く同じ色をしていた。


「さすが通風孔、風が強い……。構造に何か、風力を安定させる工夫でもあるのかな」


 レイトは壁を撫でて、表面の素材を確認する。鈍く光を反射していて、表面にはざらりと細かな砂の感触があった。磨けばつやつやと輝きそうだ。


「なーレイト、こっちにも扉ついてんだけどさ。何だと思う?」


 対岸からハルキの声が飛ぶ。振り返れば確かに、ハルキよりも若干小さいサイズの扉があった。しかし遠い上空から垂直に降ってくるだけの天空光は乏しく、レイトのいる場所からは輪郭以上のものをはっきりと視認することが出来ない。


 仕方なく、レイトはハルキの所まで直径を横断した。長年放置されていたらしい鉄製の扉は塗装の剥げと錆が酷く、印字されていたであろう部屋名すら読み取れない。見るからに開けるのは不可能そうだ。


「んー、機械室じゃない? 一応ここが、地下都市の空調を担ってるわけだし」

「てことは……今、俺たちの体臭が風に乗って地下都市全体に流れ込んでる訳か」

「なんでそういう想像をするかな⁉」


 レイトが顔を背けた数メートル先に、他の壁面とは違う妙な窪みがあった。一目見ただけでは分からなかったが、壁に埋まるようにして上まで続く金属製のハシゴが備え付けてあるらしい。付近を軽く見回してみたものの、エレベーターやエスカレーター、せめて階段……どうやら、他にそんな親切設計は存在しないようだった。深く溜息をついたレイトは、大きく手を振ってハルキを呼ぶ。


「ここから上に登れそうだよ。正直、僕、体力と筋力には自信ないんだけど……」

「じゃあ俺が下だな。おまえが落ちたらクッションになるから、全力でバウンドして衝撃を和らげてくれ」

「う、受け止めてくれる訳じゃないんだ……ね?」


 思わず、レイトは未だ半開きの扉に視線を向ける。


 あそこから管理施設に戻って、クッションか何かを引きずってくるべきだろうか。あるいは作業用の特殊グローブ。落ちる前提で思考を巡らせているのが、無性に悔しくてたまらない。


 ……と。ほんの一瞬だけ、躊躇はしたが。


 地を這うように流れ出す、機械の微かな駆動音。ここよりも更に薄暗い通路が放つ、重々しく陰鬱な雰囲気。


……やはり、もう一度戻る気にはなれなかった。


「レイト? どうした?」


 ハルキの呼ぶ声で我に返る。眉根を寄せた怪訝なその表情は、レイトを心配しているというよりも、早く登りたくてうずうずしているようだ。


「……いや、なんでも。いいスプリング、期待してるよ」

「落ちる気満々じゃねぇかよ」


 ちょっとは努力しろ、とハルキがレイトの背を叩く。立てた親指をその眼前に突き出し、レイトはハシゴに手をかけた。



 踏めば踏むほど健康になっていきそうな硬い棒の感触を足裏に感じる度、地面が少しずつ遠ざかっていく。もちろんエレベーターのようにハイスピードでもスムーズでもない、上を見上げても、近付いているとは到底思えなかった。


「いやー、だってさ。考えてもみてよ、今のこのハイテクノロジーが浸透してる時代だよ? こんな途方もない長さのハシゴを登るなんて、普通に生きてたらそんな経験あるわけないじゃん。不安になるのも当然じゃない?」

「俺はあるけどな。仕事で追っかけてたヤツが工業用地で排気処理の煙突に登り始めてよ。何メートルあったかは知らねぇけど、郊外全部が見渡せるくらいの高さはあったぜ」

「……ハルキは普通に生きてなくない?」

「んなこと言ったらおまえだって普通に生きてねぇだろ。……なぁ、今おまえが手ぇかけてる辺りさ。そこ、何かないか?」


 言われて、レイトはハシゴの周囲を手で探る。確かに固い感触があった。


 どうやらこの通風孔には一定間隔で、幅一メートルくらいの通路もどきが設置されているらしい。壁面と同じ塗料で塗られているせいだろう、下から見た時には気付かなかった。


 これ幸いとレイトは通路に転げ込む。レイトは肩で息をしていたが、ハルキはまだまだ余裕そうだった。飛び移るように通路へ降り立つと、手すりもない縁に腰掛けて、楽しそうに足をゆらゆらさせながら下を覗き込んでいる。


「おまえも来いよ、わりと面白い眺めだぜ!」

「無理無理なんでそんなことできんの」


 本当に心から勘弁してほしいお誘いだ。レイトは鞄を下ろすと壁に背を寄せ、抱えた膝を胸に引き寄せる。ついでに首も激しく左右に振ったが、下を向いたままのハルキに見えるはずもなかった。


 呼吸音すら反響するほどの沈黙。幻聴か、あるいは未だ知らぬ地上の環境音なのか、ノイズを濾したような音が遠いどこかで絶えず鳴っている。


「……そういえばさ」ハルキが通路の縁を押して後退し、レイトの隣に移動してきた。「ナントカ政務官、だっけ? 今も宇宙船で実権握ってるってことは、おまえの両親を殺したっての、内部で揉み消されてるんだよな。現場にいなかったおまえはどこから知ったんだ?」

「政務官本人じゃなくて、犯人はその息子だけどね。遺品を取りに行った時に、母さんと仲の良かった同僚の人がこっそり教えてくれたんだよ。もちろんハルキの推察通り、公には不幸な事故ってことで処理されてる」


 思い返してみれば、ハルキにここまで具体的な話をしたのは初めてだったか。今や互いのことはほとんど知っている仲だと思っていたが、知り合う前の過去のことは盲点だった。


 突然家に黒スーツ姿の人が訪ねてきた、五年前のあの日のことは今でも鮮明に思い出せる。「お悔やみ申し上げます」「心中お察しします」「惜しい方々を失くしました」事情を知らないレイトにも、薄っぺらい軽薄なセリフに聞こえたものだ。


 やけに大袈裟な葬式が挙行されて、直接の上司で監督官だった犯人が素晴らしい演技で涙のスピーチをして、真実を知らない参列者たちが自分と犯人に次々と慰めの言葉をかけて。


 そうやって同列に扱われるのが悔しくて仕方なかったのに、報道関係者もいたその場で全て話してやろうと思ったのに、レイトにはそれができなかった。

 立ち上がろうと思うたびに足の感覚はすっかり麻痺し、口を開いても息の音すら漏れ出ない。犯人の前に立つ機会すらあったのに、黙って目を逸らしてしまった。睨むことすら、できなかったのだ。


 そのうち、学生は都市から家賃の補助が出る郊外の住宅に引っ越すことになって。ようやく現状を受け入れられるようになった頃には、周囲の環境も人間もすっかり様変わりしてしまっていた。そのとき初めて会ったハルキは既に郊外の若者を纏める存在で、とにかく怖くて乱暴な人なのだと震えっぱなしだったのを覚えている。


「……政府高官とやらも、ましてやその息子だなんて、そんなに偉いもんなのかねぇ」


 しかし今、ため息交じりにそう呟くハルキの声は、どうしようもないほどの諦観と憐憫に満ちていた。労るような視線と共にレイトの頭に乗った手は、大きくてただ温かい。


「……僕は、内閣府の人間なんかじゃないし、ああいう人たちの偉さとか重要度は分からないけどね。でも、人間の命より優先される地位なんてあるわけがないし、あらゆる罪を無かったことにできる権限なんて存在していいはずがない。そう思うよ」

「そうだな。そんなのがまかり通っている時点で、あの社会はとっくに終わってたんだろうって、俺もそう思うけど」


 ハルキは立ち上がって鞄を拾い上げると、そのまま左肩にぶら下げた。重力に逆らうレイトを苦しめた圧倒的体積も、ハルキの背にあるとなんだか子供の遠足みたいだ。


「これ、上まで持ってってやるよ。このペースじゃ夜になっちまうもんな」

「うん、ごめんね僕の荷物の方が多いのに……でも、こういうのは両肩でちゃんと背負わなくちゃ。落ちたら大惨事だよ」

「…………おう」


 眉尻を下げて微笑むレイトを見て何か言いたげな沈黙を呈した後、ハルキは大人しく右腕もショルダーハーネスに突っ込んだ。賞味期限切れのちょっぴり不味くなった飴玉を口に放り込んだ時のような、なんとも言えない表情だった。


 そして再び、二人は無骨なハシゴへ。両手と片足をかけたところで上を見上げたレイトは、出発時とほとんど変わらない空の面積に思わずため息を漏らす。


「わあ高い……あと何回休めるかな」

「意識の低い大学生みたいな発言すんなよ」


 人類脱出前に設けられた一年半の準備期間、あらゆる教育機関は資源優先活用という名目で活動を停止していた。大学どころか高校すらまともに通えなかったレイトにとって、ハルキのその言葉は届きそうで届かないどこか遠い空の上、ふわふわと朧気な幻想のように聞こえたのだった。

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