錆びた扉の向こう側
「なあ、開けていい? まだ? なあなあなあなあレイトってば」
「だから、もうちょっと、待ってってば……! ねえ、なんで、そんなに、元気なの」
金属製の丸いドアノブを両手で握りしめ、ハルキが蝶番の緩んだ扉をガコガコ言わせている。通気口を登り切った先、コンクリートの地面に倒れ伏したレイトは、縋るように右手を伸ばしてハルキを制止した。
「僕だって……地上、一緒に見たいんだから……あと一分、一分だけ」
「あ、やべドアノブとれた」
「ちょっとお‼」
がば、と身を跳ね上げ、疲労どころではなくなったレイトはドアに駆け寄る。不完全な金属球となった元・ドアノブを片手で弄び、ハルキは空洞となった直径十五ミリメートルの穴をしゃがんで覗き込んでいた。
「……向こう、見えるの?」
「いやー? 向こうのドアノブは落ちてないっぽいけど……なあ。見てみろよ、コレ」
ハルキが穴の縁を指でこする。差し出された指先には、赤茶色の錆と共に白いざらざらした粉が付着していた。
「下の扉には無かったよな、こんな白いの」
「うん。ありそうなのは……酸化マグネシウムとか、硝酸化合物とかかなあ……匂いは?」
「ん――しなぁああっくしゅ‼」
「なるほど」
余程勢いよく吸い込んだのだろう、ハルキが特大のくしゃみをする。バラバラと、指先から零れた粉は重たそうに地面に落ちた。
「グスッ……ああもうめんどくせえ! 確かめりゃいいんだろ確かめりゃ‼」
声を荒らげたハルキが指を口に含む。レイトが制止する間もない早業だった。
「あっハルっ……大丈夫?」
「んむ……血の味がしゅる」
口をむぐむぐと動かしながら、ハルキは眉をひそめる。どうやら毒で即死亡、なんて展開にはならなかったようだ。レイトの肩が一瞬の安堵に脱力して無意識にガクリと下がる。
「まあ、そりゃそうだろうね。鉄だもの」
「鉄ってしょっぱかったっけ?」
「え?」
指を口から抜いたハルキが不思議そうに首を傾げている。その通り、鉄に塩辛さはない。
であれば、論より証拠だろう。幸いというかなんというか、人体に直ちに影響がないことはハルキによって証明済みである。
「それにしてもハルキ、よくこんな分からないものを舐めてみる気になれるよねえ……」
今まさに自分もその仲間になっている、とレイトが気付いたのは舌先にじんわりと塩気が染み広がった時だった。金属特有の舌を圧迫するような風味と合わさり、確かに酸化して干乾びた血を舐めているかのようだ。
とはいえ。酸とアルカリが中和すれば塩になる、という知識はあるが……ウルトラクッキングマイスターでもあるまいし。舌で塩味を判別するなんて芸当、レイトには不可能である。
「うーん、でも……塩? ねえハルキ、塩って空気にも鉄にも含まれてな――」
「よぅし、じゃあ開けるぞ! せーのっ」
「え、もう興味失くした⁉」
開ける、と言ってもドアノブが無くなってしまったので力業だ。扉に向かって斜めに立ったハルキの膝は深く曲げられ、ひねった上半身は体当たりの姿勢を取っている。
しかし、体当たりに反動はつきもの。ほんの数メートル背後で深さ百メートル近い大穴がぽっかりと口を開けている自覚はあるのだろうか。
「――おらよっ‼」
そんなリスクもレイトの心配も、やはりハルキには何一つ影響を与えないらしい。尖った踵が力強く地面を蹴って、一見華奢な肩が凄まじい音と共に扉にぶち当たる。
破壊音。
次いで、扉がゆっくりと向こう側へ倒れていった。
「っとと……あっぶね。あと肩痛ぇ」
片足で数歩後ろにステップし、ハルキは背を反らせて上体の重心を取り戻す。だろうね、と冷めた返事を返し、レイトは少し離れた場所に置かれていた鞄を拾った。この鞄を肩に引っ掛けたまま事に及ばなかったのが、せめてもの理性か。
「それでハルキ、扉の向こう……」
言いながら振り向いて、ハルキの姿が消えていることに気付く。まさか大穴に飛び降りた訳じゃあるまい。一足先に扉の外へ出たということか。
「あーもう、一緒にって言ったのに……!」
膨れっ面でそうぼやいて、額縁のようになった扉に目を向ける。
もはや役目を果たさなくなった長方形の鉄枠の向こうでは、光に満たされた一面の青が輝いていた。きっと空が広がっているのだろう、だけどあまりにもキラキラと眩しくて、これは……見たことのない、この光は何だろうか。目を射るように鮮やかで、眼底をとめどなく跳ね回って……。
吸い込まれるようにフラフラと、レイトは扉に向かって歩いていく。
先ほど見た塩の結晶が、鉄枠にもこびりついていた。飛び散った破片が靴底の下でジャリ、と音を立て、踏み込んだ足裏が僅かに位置をずらす。バランスを崩しよろめいても、レイトの視線は扉の外に縫い留められたまま動かない。
光に少しずつ目が慣れ、先に立つハルキの背中が影になって見えてくる。
扉に近付くにつれ徐々に視界の占有面積を増していた地上の風景が、その境を乗り越えた瞬間、加速度的にレイトの頭上を越え、存在の全てを覆っていく。
「――――――――――」
はじめ、レイトは一切の声を発することができなかった。
太く、長い一本の道路が足元からまっすぐ伸びている。道路の両側に歩道は無く、白いペンキの剥げた柵が設置されているだけだった。先に瓦礫の集合体のようなものが見えるが、距離はかなり遠い。
その他には、背後に突き出した通風孔の出口以外何もなかった。いや、もちろん虚無の空間にぽっかりと浮かんでいるわけではない、周囲にはどこまでも続く空が上半分と、そして……もう半分は、海。
海というものは地上の八割を満たす塩水なのだと習った。昔に撮られたという海原の写真、波が呼吸のように上下する動画も図書館で閲覧した。だからレイトにも『海』という存在の判別はできるけれど、地下都市内に実際の海は存在していない。
そのためだろうか。今こうして目の当たりにした光景は、脳が情報過多で処理能力の限界を訴えてしまう程の衝撃をレイトに与えていた。
ホコリも砂も含まれていない清浄な空気。偽天球の映像には無かった、果てまで続く空の奥行き。波打つ水面で乱反射する日光の鋭さ。地平線の彼方で混じり合って溶ける、二つの青。
地下都市にあったどんな歓楽街のネオンサインも、どれだけ緻密に計算された幾何学模様も、この世界の美しさと並べればたちまちノイズに塗れて輪郭を不明瞭にしてしまうだろう。
「……あ、ハル……ハル、キ」
喉奥からレイトがやっとのことで声を絞り出すと、前に立っていたハルキの肩がピクリと小さく跳ねた。ハルキもまたレイトと同じように立ち尽くしていたのだと、振り向いたその目が赤裸々に語っている。
「レイト……すげぇな、これ。すげぇよ、なんか。なんかすげぇ」
「うん。今だけは、僕もハルキの語彙力に同意する」
馬鹿みたいな感想だが、本当にそれしか浮かんでこないのだ。とはいえそれでも伝わってしまうあたり、言葉で言い表せない人間の感情というのは時に厄介だけれど繊細で趣深い。
ひんやりと湿った風に乗って、少し生臭い香りが鼻腔を通り抜ける。これがいわゆる『潮の香り』というやつだろう。海に棲む植物性プランクトンの死骸から発生する成分で、雲を作る働きがあるのだとか。
自分と同じ高さにいるこの空気が、あんなに遠い空まで届く。なんだか嘘みたいだ。
レイトが柵に歩み寄って表面に触れると、フレーク状になった塩と錆の塊がボロボロと崩れ落ちた。金属製で高さもレイトの胸のあたりまであるが、下手に寄りかかると呆気なく折れてしまいそうだ。
柵に体重をかけすぎないよう注意しながら、レイトは道路の下側を覗き込む。水面に道路と、突き出した自分の頭が影になって落ちていた。推測するに、現在地は水面から十数メートルの高さ。何本かの支柱を頼りに空中を走るこういった道路は地下都市にもあって、ハイウェイと呼ばれていたのを覚えている。
「水は綺麗なのに底が見えない……波についても見た目以上の情報は持ってないし、ここから飛び込むのはまずやめておくべきかな」
「んー? 何ぶつぶつ言ってんだ?」
隣からハルキの頭がにゅっと現れる。レイトが海面を指さすと、ハルキは柵の上から上半身をほとんど乗り出して海の深さに感嘆の声をあげた。
「ここはハイウェイの終端みたいだね」顔を上げ、遠くの瓦礫を眺めてレイトは言う。「あそこ以外の陸地も見えない、世界の果て……とすると。進む方向はこの道をまっすぐ、でいいんだよね?」
「俺に訊かれてもなぁ……俺だって初めて来たんだし」ハルキも顔を上げ、ぐるりと周りを見回してから何度か頷いた。「まあ、でも、多分そうなんじゃねぇの? 廃墟とか自然とかいうくらいなんだから、少なくとも陸地ではあるだろ」
「それは確かに。じゃあ進むのはあっち方面で、廃墟エリアを目指して出発だね」
偽天球が太陽の移動をも正確に示してくれていたのなら、日没まではまだ時間があるはずだ。
所々穴の開いたアスファルトの上を、二人はどちらからともなく歩き始めた。
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