一章 見果てぬ世界

脱出

 とても幸運なことが一つ、あった。丸一日ほどで都市の電力供給が止まった後も、人力発電で動く緊急用のライトが管理施設内のあちこちに転がっていたことだ。


 とても不幸なことが一つ、あった。管理施設内の警備システムの一部は、未だ予備電力で稼働を続けていたことだ。


 何台かの監視カメラ、何本かの赤外線センサー、そして、侵入者撃退用の武装警備機械が少なくとも一台。あれから一度逃げおおせたのは、ひとえに館内が暗く偶然にも障害物が多い場所を通り抜けてこられたからだった。


「ど、どう? やっぱり針金じゃ難しそう?」

「や……もうちょい……っくそ、なんでこんな場所にこんな旧文明の遺物がついてんだよっ……あー腕痺れてきた」

「僕の身長じゃそこ、届かないんだよね……まずいな、そろそろ見付かっちゃうよ」

「あっおいライト揺らすな! ちゃんと照らせ!」


 ハルキが南京錠の攻略に取り掛かってから、そろそろ十分が経つ。いい加減焦ってきたレイトは、さっき壁から引っこ抜いてきたライトでハルキの頭の周りをぐるぐると照らした。

 互いに、大声で怒鳴りたくなるのを必死にこらえている。緊張も、苛立ちも、ひとしおだった。

 

 地下都市中枢部、貨物列車の中央操車場に程近い偽天球管理区域。レイトにとって、扉の電子ロックは大した足止めにならなかった。

 拳銃型の携帯スタンガンなんてどこでも買える。センサー裏の回路の構造さえ知っていれば、網膜認証も静脈認証も指紋認証も全て同じ『機械』……何年も前に詰め込んだ知識がこんな所で役に立つとは、思ってもみなかった。しかし。


「通路の薄暗さといい、空気の淀みっぷりといい……嫌な予感はしてたんだよね」

「ま、確かにこう、明らかに長いこと使われてません感はあったけどな。それでも精々が旧式のパスワードロックだと思うじゃん? 何百年開いてないんだよこの扉」

「今じゃ南京錠なんて、廃棄物処理場の金網ぐらいでしか見ないもんね……」


 鉄製の南京錠に電気なんか流したら、一体どうなることか。

 こうなってしまうと、レイトは完全に無力だった。


 おまけに南京錠が設置されている場所は扉の上部、床面からの高さはおよそ二メートル十センチ。背伸びしてギリギリ届く、くらいのレイトがまともに鍵開けなどできるはずもない。


 したがって、こういう作業には不向きなハルキが鍵開けを行っているのだった。完全なデジタル社会において、アナログの地味な脅威は一層際立つ。


「本当にこの先にあるんだろうな……なんだっけ、通風孔?」

「兼、偽天球管理用の旧通路。僕、地上へ行く道はこれしか知らないから」

「俺は一個も知らない。ま、掘り進むよりは鍵開けの方がマシだよな」


 一度侵入者を発見したら、警備機械はそれを撃退・捕獲するまで警戒状態を維持しての捜索を続ける。通常のカメラこそ暗闇では使えないだろうが、そういうときのためにサーモグラフィーや音波検知などのセンサーが山盛りになっているはずだった。


 センサー頼りであるために、こんな細い通路の隅々までわざわざ足を運んで探しに来ることはないだろう。でも、この場所に隣接する広い通路まで来られたら終わりだ。分厚い壁が体温を遮ってくれても、鍵開けの音とライトの光は拾われてしまう。運よくこちらの方が先に気づけたとして、呼吸音まで拾うようなセンサーだったらお手上げだ。


 レイトは目を閉じ、できるだけ鍵開けの音を耳に入れないようにしながら鼓膜に神経を集中させる。心配性になって作業の手を止め続けていたら、そもそも脱出が不可能だ。

 微かに聞こえる機械の駆動音は、あの機械の車輪のものだろうか。さっき追いかけてきた時はあんなにうるさかったのに、この静けさは不気味だ。不気味すぎる。


――ガチリ。


「おっ」


 と、鍵開け作業の方が終わったようだった。針金を床に落とし、ハルキは両手で慎重に南京錠を回転させる。戒めの解かれた金具はすんなりとドアから外れ、鈍い音を立てて針金の上に落ちた。


「これ、もう開くよな? 実は向こう側から溶接されてました、とか嫌だぞ」

「隙間から空気漏れてるし大丈夫だと思うよ。でも、まあ慎重にね」


 言いながらライトを地面に置き、レイトは扉の横に膝をついた。床に落ちた金具から南京錠だけを抜き取り、鍵がかかってしまわないよう気を付けて鞄の底にしまう。持ち出した二人分の所持品以外にも何か道中で使える物を拾えるだろう、と容量の大きいリュックサックを選んだのは正解だったかもしれない。


 一時はどうなることかと思ったが、これでどうにか逃げ切れそうだ。レイトがそう安心したのも束の間、


「……開かねぇ」


 ハルキが、苦々しい表情でそう呟く。


「あ、開かない? もしかして、ドアノブが壊れてたりとか?」

「違う、ガッツリ錆びついてやがんだよ。思い切り蹴ればなんとかなるだろうけど、警備機械はどうなった?」


 ハルキの口調は、普段よりも数段荒々しかった。レイトは身体全体で振り返り目を凝らしたが、通路の暗闇の奥にまだそれらしき姿はない。


 が、駆動音は確実に大きくなっていた。距離だけでなく、方向と大体の位置まで分かるほどにだ。


 ならばどうする。このまま息を潜めていても、あれは必ずこの付近にまでやってくるだろう。センサー頼りだからなんていうのは所詮推測にすぎない。もしかしたら、この通路にまで入ってくるかもしれない。それが可能なサイズではあるのだから。


 それなら。賭けるなら、なるべく勝算のあるうちがいい。


「……近付いてきてる。蹴り開けるなら、むしろ今かも」

「了解。走る準備、しとけよ」


 ハルキの足が後方に振り上げられるのを見ながら、レイトは自分の選択が間違っていないことを祈るばかりだった。そして、


 ガァアン――と。


 扉どころか通路全体を震わせるような金属音が響き渡る。


 一瞬驚いて、それからすぐに恐怖が這い登って来て、レイトは思わず頭を抱えた。

 ああ駄目だ、予想以上の音量だ。これでは間違いなく、


 先程聞いたのと全く同じアラーム音が鳴った。つまりそういうことだ。


 車輪の激しく回転する音が、高速でこちらに向かって来た。更に最悪なことに、肝心の扉は十センチ程しか開いていない。


 ハルキが歯を食いしばり、続けざまに扉の中心を蹴る。


 直後、ひんやりと澄んだ空気が頬にかかった。地下都市のどの場所と比べても異質な、明らかに別世界のものと分かる風。


 三十センチ程の隙間を開けて、外開きの扉は擦れた金属音と共に静止した。


「ああくそ、限界だ! レイト、通れるか?」


 もう声を抑える必要はない。ハルキが張り上げた声が、余計に焦燥感を煽る。


「横向きでなら通れそうだけど……ハルキは? 僕の方が小柄なんだから、どっちかといえばハルキの方がヤバいんじゃない?」

「まあ、俺はほら、細いから。余裕余裕。たぶん……っな!」


 片頬を歪め、ハルキは扉の隙間に身体を滑り込ませた。胸のあたりで一瞬引っ掛かったものの、言葉通り特に難儀する様子もなく通り抜けてしまう。


「ほら、いけた! おまえも早く来いよ!」


 向こう側から聞こえてきた声は幾重にも反響していた。その反響音は遠く、扉の先が閉鎖的かつ広大な空間であることを示している。

 すなわち、レイトには最低限地図を正しく読む力が備わっていたということだった。


 一瞬だけ振り返れば、もう警備機械の点滅するランプが通路の奥に見えていて。レイトは先に鞄を押し込んでから、扉の縁を掴んで片足を外へ出す。次いで胴体、首、もう片方の足と慎重に隙間へ通していった。


 思うように速度が出ない。

 下からライトに照らされ、肝試しのようにぼんやりと白く光る警備機械が迫る。


 思考が滲む。ぼやける。


 呼吸が――浅く、なっていく。


 レイトの身体が完全に通り抜けた直後、追いかけてきた警備機械は扉の隙間に激突した。もし突破されたらどうしようと、跳び下がって地面に尻もちをついたままのレイトは無機質なカメラの一つ目から目を離せないままに硬直する。


 しかしそれは叶わなかったようで、警備機械は数回突進を試みた後に車輪の回転を止めた。続いてまた別の駆動音が響き、背面から何か黒い棒が伸びて来たかと思うとレイトの方を向いて――


「っおい、レイト! 何してんだ、危ねぇ!」


 レイトの背後から、ハルキが体当たりする。もろともに数回転し、扉近くの壁にぶつかって、顔を上げれば。


 先ほどまでレイトが座り込んでいた場所、その延長線上。壁から白煙が上がり、硬質な銃声が何度も反射を繰り返しながら上空へのぼっていった。


 二人が視界から外れたことで、警備機械はついに追跡不能と判断したらしい。少しの沈黙の後、通路を戻って遠ざかる車輪音が消えていく。


 知らぬ間に止めてしまっていた息を、二人は折り重なった姿勢のまま同時に吐き出した。出発直後からこれだなんて、この先大丈夫なのか心配になる。


 立ち上がって服の汚れを払い落とし、無事だった鞄を拾い上げて。それでようやく、レイトは落ち着いて周囲を観察することができた。

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