第7話

 澤野さわのさんの言葉を理解するまでタイムラグがあった。


「えっ、どうして」


「とりあえず掃除終わるまで……待ちますね」


 澤野さわのさんはそれには答えず、廊下の窓際にもたれる。


 案外、強引なところがあるんだな。


「まあ、いいけど……」


 別にそこまで拒む理由もない。誰かと一緒にいるのは好きではないけれど、いきなり断るのもなんか違う。


「じゃあ、水濡らしてくるから」


 澤野さわのさんに声をかけて、雑巾を濡らしに行く。


 じめじめした空気は廊下にも広がっていて、なんとなく気だるい雰囲気が漂っている。晴れの日が陽キャの日だとしたら、雨の日は陰キャの日かな。ちなみにアタシはどちらでもないから、関係ない。


 廊下の奥を曲がったところの水場で、雑巾を濡らす。


 冷たい水が手を覆い、雑巾に染み込んでいく。水気と一緒に気だるさも吸い込んだ雑巾は、ずしりと重さを増した。それを思い切り絞り、流していく。排水溝にはどばっと水が落ちる。これですっきりかな。


 教室に戻る。ちらっと澤野さわのさんを伺うと、窓の外を眺めていた。


 ぼんやりと雨空を見るその横顔は、整って見えた。美人に入ると思う。さっきとは違って落ち着いているように見える。そのことも、彼女の輪郭をより洗練させているのかもしれない。


「さてと」


 水気みずけはらんだ雑巾を床に当てる。色とりどりのチョークの粉が吸い込まれて、後にはきれいな木目もくめが現れる。これをしばらく繰り返す。


 黙々と作業を続けるのは飽きていたので、澤野さわのさんに声をかけてみた。


「そういやさー」


「あっ、はい! 何でしょう」


 唐突に声をかけたからか驚かせてしまった。またあわあわした彼女が戻ってくる。


「一緒に帰りたいって言ってたけど、澤野さわのさんはどこから来てるの」


「あ、川を下ったとこの橋のあたりです」


 意外にも、同じ方向だった。学校を出てしばらく行くと川沿いの道が出てきて、途中に公園がある。それを下っていくと大きな橋があって、橋を渡るとしばらく住宅街が続いている。


 わりと大きな住宅街なので、一度も会ったことがない人もいるんじゃないかな。それに、橋を渡った後右に行くか、左に行くかでも大きく違う。まあ、とりあえず澤野さわのさんとは途中まで同じ帰り道ということが判明した。


「意外。アタシもそっち」


 途端に、澤野さわのさんの顔がぱあっと明るくなる。あまりにも分かりやすい変化だったから、思わず笑ってしまいそうになった。


「本当ですか! やったあ!」


「そんなにアタシと帰りたいの?」


「あっ、はい……そうです」


 またしぼんじゃった。


「ふうん」


 止まっていた手を動かす。澤野さわのさんはどのあたりに住んでいるんだろう。橋渡って右か左か。その奥かな。


 そう考えて、さっきから澤野さわのさんのことばかり考えている自分に気づく。このアタシが他人のことを考えるなんて。不思議だ。


 待たせてることだし、掃除はそろそろ切り上げようか。


「掃除、もうすぐ終わるから」


 澤野さわのさんに声をかけ、雑巾を洗いに行く。彼女は既に準備万端のようだ。ちょっと急ごう。水場に着いてふと外を見ると、雨はいつの間にか止んでいた。


 窓ガラスに残った雨粒が、差し込んできた夕日を閉じ込めようとしている。ぬくもりを感じる光が、シンクで反射し、アタシの顔をあたためようとする。けれどその光はあまりにも弱弱しくて、ぬくもりを感じる前に雲の影が覆ってしまった。


「まあいいや」


 何に対してなのか分からないけど、独り言が口から洩れた。さっと雑巾を洗い、絞る。チョークの粉は一応はきれいになった。


 教室前に戻りながら、思考を巡らせる。


 澤野さわのさんの様子を見ていると、なんというか、優しくなろうとしたくなる。こんなアタシに、人に優しくする資格なんてないと思うけど。人を傷つけて、傷ついてきたアタシだ。


 それをまた、彼女に繰り返したりしないだろうか。


 今はまだ、なんとも言えない。 

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