ラムネ味の海

柳路 ロモン

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 太陽が万物を焦がし、蒸すような空気が僕らを包む、四季の中で最も嫌いな季節のことだった。


 兄から何の連絡もなく突然小包が届いた。


 僕の兄は、実家から遠く離れた、溢れそうなほど緑豊かで、空気がしぃんと澄んだ場所で、のんびりと悠悠自適な独り暮らしを満喫している。


 ただ、それ以上のことはあまり知らない。


 父と母との仲もそこまで悪くはなかった。むしろ親しかったと思うのだが、至極普通に生きてきた僕には兄の考えがさっぱりわからない。連絡は今でも取り合っているらしく、時折母が僕にかけてくる電話では兄の話題が挙がったりする。


 届いた小包はどこにでもある小さな白色の段ボール箱だったが、配達員のお兄さんから小包を受け取ると、箱の大きさの割にはずしりと来た。段ボール箱は、うっかり蓋が開いて中身が溢れることがないように、茶色のガムテープでこれでもかというくらいに頑丈に固定され、「これを開けなければいけないのか」と思うと億劫な気持ちになった。


 段ボールの上面に糊付けされた伝票を見ると、品名には『お菓子(ゼリー)』と黒色のボールペンで書かれてあった。


 僕は兄の字をまじまじと見る機会がそこまでなかったのだが、今になって、彼もあまり字を書くのは得意ではないのだなと知った。


  ◯


 閉じ切ったカーテン。その向こう側に滲む太陽の光。照明の消えた薄暗い部屋。その薄暗がりの中でぼんやりと存在を示すデジタル時計の液晶。時刻は午前十一時三十四分。


 ピアノの旋律を奏でていたはずのCDプレイヤーは、いつの間にか口を閉ざしており、エアコンの吐き出すノイズだけが部屋に響いていた。そのCDプレイヤーの隣には、読みかけの文庫本が両手を大きく広げた格好で眠っていた。


 ベッドの上には布団や枕、脱ぎっぱなしのスウェットが散らかり、生活感とやらを色濃く放っていた。


 光あるところには影があるように、外の晴れ晴れとした空気とは真反対の、暗くほこりっぽい空気が、単身世帯向け集合住宅の六畳半に漂っていた。


 その真ん中に鎮座しているテーブルの上に小包を置き、引き出しからカッターナイフを取った。ほんのわずかに出した刃で、段ボール箱を縛り付けているガムテープを切り、丁寧にその蓋を開けた。


 そうしてまず最初に僕の目に飛び込んできたのは『青色の厚紙』だった。箱の中身いっぱいに広がるその青は、『海の青』だと直覚した。


 実際の海は濁った緑色だの、曇り空みたいな灰色だのと言われても「どうかこの色であってくれ」とつい願ってしまうような、純真無垢な子どもが真白な紙に描いた『海』のような、そういう青だった。


 その青色の厚紙の上に、真白で小さな長方形のメッセージカードが添えられていた。下にある海の青も相まって、その厚紙の白は、白波か、海上に浮かぶ雲のように見えた。


 そのメッセージカードには黒色のボールペンで、不思議な文章が書かれていた。兄が自分で書いたのか、字には特徴的な癖がよく見られた。そしてその字の書き方の癖は、僕のものとよく似ていた。


 メッセージカードの右下端を、右手の人差し指と親指でつまみ、

 

「……私はおまえにこんなものをやろうと思う。

 一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。

 色は海の青色で──御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる」


 書かれている文章をそっと呟いた。


 詩人気取りの兄のことが可笑しくて笑ったものの、それが梶井基次郎の「城のある町にて」という小説の一節だったことをすぐに思い出した。なんとなく、僕はその一節が好きだった。兄もこの部分が好きなのだろうか。


 中身を覆い隠していた青色の厚紙を箱から外すと、小包の中には、四角い保存容器が六つが入っていた。保存容器には不透明な白色の蓋がしてあって、上からでは中身が何なのかを詳しく知ることは難しかった。それでも、あの厚紙に書かれてある通りならば、この保存容器の中には『ゼリー』が入っているに違いない。


 その中から僕は、容器の蓋に貼られた白色のビニールテープの上に、『海のゼリー(さんご)』と黒色のマジックペンで書かれてあるものを手に取った。


 透明な容器の中に入っているゼリーは、海をそのまま切り出してゼラチンで固めたような青色をしていて、容器には珊瑚礁とその周りで暮らす魚たちの姿が描かれていて────。


 いや、そんな馬鹿な────。


 たった今目撃した、ひとつの事実がもたらした、くらりとくるほどに感動的なショックに突き動かされ、僕はそのゼリーの中身を覗覗き込んだ。食い入るように、視線でゼリーを焦げるのではないかと思うほどに。

 

  色は海の青色で──御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。


 僕がイラストだと思っていた魚たちは生きていた。ゼリーの中に沈んだ珊瑚礁の海を泳いでいる。


 青に呑まれない鮮やかな色を放つ珊瑚の周りを泳ぎ回る魚たち。ゼリーの容器の中でも窮屈しないように魚全員が小さくされているせいで、彼らの詳しい様子を見届けることは難しかったが、大まかな部分は見届けることが出来た。


 群れを作って泳ぐ者、ひとりで気ままに泳ぐ者。ゼリーの容器の底に沈んだ砂地に口を突っ込んで餌を探している者もいた。揺れるイソギンチャクの間に姿を隠したのはクマノミだろうか。ほとんどが名前のわからない魚ばかりだが、どれもこれも可愛らしかった。彼らは僕がどれだけ保存容器の水槽に顔を近づけても逃げる気配はなく、魚たちは僕の姿を認識できていないのではないかと推理した。


 もしやと思ってもうひとつゼリーを手に取ってみると、そのゼリーの中に広がる海の風景はまた別のものだった。蓋に貼られたテープには『海のゼリー(ジンベエ)』と書かれてあり、その名前の通りに、深い砂底の海を、ジンベイザメとその周りに群がる小魚の群れが優雅に泳いでいた。こんな小さな水槽の中に収まるように体を小さくされているとはいえ、それでもジンベイザメは巨大だった。


 また別のゼリーには、浅瀬に生えた海藻が潮の流れの中をゆらゆらと舞っており、その海藻を掻き分けながら泳ぐ魚の姿があった。


 六つのゼリーには、それぞれ海が広がっていた。果物や砂糖菓子などで作られた紛い物ではなく、本物の、生きている海があった。


 ◯


 「届いた」


 久しぶりに自分から兄に便りを送った。ゼリーの入った段ボール箱を背景に、珊瑚礁の風景を閉じ込めたゼリー、それからあの一節が書かれた厚紙を、大雑把に片付けたテーブルの上に並べた風景をスマートフォンで撮影し、その写真も一緒に送った。撮影のためだけに点けた照明は、その後すぐに消した。


 退屈なメッセージは、遅延なく彼の元へ無事に届いた。

 

「すぐにはダメにならないだろうけど、早めに食えよ」少し間を置いて「海が濁っちまうからな」

「これ本当に食べられるの?」

「ラムネ味」


 色々と訊きたいことは山ほどあるのだが、この不思議なゼリーが本当に食べ物であることが判明した。


 食ってしまいたくなるほどの風光明媚な景色がそのゼリーにはあるのだが、見ているだけでも楽しいこのゼリーを、本当に食ってしまうのは、なんだか名残惜しい気がした。


 出来ることなら、このままずっと飾っておきたいような、そういう気持ち。


「すごいねこれ」「魚が泳いでる」

「自分で作った」

「まじ?」「どうやって」

「秘密」少し間が空いて「強いて言うなら」「想いをこめた」


 僕が知らない間に、兄は魔法使いか何かにでもなってしまったのではないだろうか。


「父さんと母さんにも送った」「どんな反応してくれるか楽しみ」「届くまでは内緒で頼む」(不敵な笑みを浮かべながら、人差し指を口にあてがっているキャラクターのイラスト)

「わかった」


 一緒に送られてきたキャラクターのように、静かに僕も口角をにやりと持ち上げた。


 いくら歳を重ねても、兄弟の悪戯に両親は振り回される運命にあるらしい。遠く離れた場所で暮らしている兄と、気持ちがぴたと重なり合ったような心地がした。


 「父と母にはまだ内緒で」という約束事をした時に、幼少時代によくやった、あの『ゆびきりげんまん』を思い出した。


 最後にあれをやったのは、いつ、どこで、だれと、どんな約束をした時だったか。

 

「でも」「いきなりなんでこんなものを」

「あー」「なんていうか」「お前のこと、母さんから聞いてさ」「それでちょっと色々」


 僕の近況に対して使う言葉を必死に選んでいるのか、それともあえて言葉にしないでおいてくれたのか、そこでメッセージは途絶えた。


「元気か?」

「いちおう」

「よかった」


 少しばかり前のことだ。社会の波の中で生きることに疲れた僕は少しだけ気を病んだ。兄が暮らしている環境とは正反対の、緑は枯れ、空気も澱んだ環境で満足に暮らすのには、僕の心は少々、いや、だいぶ脆かったようだった。


 眠れぬ夜には酒を頼り、日々静かに迫る霧のような不安は音楽と読書で誤魔化し、気持ちの波に逆らわないために世間と自分との間に高壁を築き、精神を乱す悪き情報の類とは縁を切り────そういう生活をここしばらく続けている。もう三ヶ月は経っただろうか。


 母からは、一度実家に帰って療養してはどうかと勧められているのだが、はっきりとした決断を下せないままでいる。


 兄も母を通じて僕の事情くらいは知っていたと思うが、彼がここまで明確に、僕の生活の中に関わってくるのは初めてだった。


「今住んでる場所の近くに海があるんだよ」「すごい綺麗な海でさ」少し間を置いて「みんなにもいつか見せてやりたいよ」「ゼリーじゃなくて」「本物のやつをな」


 そのメッセージの後、兄は勢いを止めることなく近所にある海の魅力について語り始めた。


 朝一番に家を出て、まだ夜の冷たさを残した砂浜を散歩しながら、潮の香りがする風に当たっていると、眠気がスカッと覚めるのはもちろんだが、憂鬱な気分すらも全部吹き飛んでいくのだとか。


 疲れ切った体を引きずりながら夕暮れ時に浜へ下り、おもむろに砂の上に靴と靴下を放り投げ、ズボンの裾をまくり、寄せては返す波の中に裸足で踏み込むと、「真の自由」を感じるのだとか。


 なんとなく寝付けない夜には、温かな格好をして海に出かけ、砂浜に腰を下ろし、月の光を弾く波を見ながら、美味い地酒を飲むのだとか。


 スマートフォンの画面に表示されるだけの文章には、手書きの文字に匹敵するほどの、兄の自然に対する愛情深さや、自分が素敵だと思ったものを相手にも知ってもらいたいという情熱が込められていた。


 僕は次々と届くメッセージをじっと見つめながら、それらになんと返信しようかも考えずに、次のメッセージが届くのを待っていた。


「いつかこっちに遊びにこいよ」「住所は伝票を見ればわかると思うから」「いつでも大歓迎」


 兄にそう言われて段ボール箱の上面に貼られていた伝票を見る。県名にこそ覚えはあれど、その次に続く住所にはまるで心当たりがなく、なぜ兄はこんなところに住んでいるのか、なぜここに住もうと思ったのかという疑問がふつふつよ湧いてくるばかり。


 ただ、本人が「近所に海がある」と言っているのだから、海辺にあるのどかな場所なのだろうと言うことは、ふんわりと想像がついた。


 現代技術を持ってすれば、住所を検索欄に入力するだけで、兄の住んでいる場所の様子なんて簡単に、家を出ずとも眺めることができるのだが、僕はそうすることを嫌った。


「いつか行くよ」

「おう」「美味い飯と酒を用意して待ってる」(満面の笑みを浮かべながら、愉快そうに小躍りしている、ふくよかな体型をしたキャラクターのイラスト)


 ◯


  私はおまえにこんなものをやろうと思う。

  一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣をたてる。

  色は海の青色で──御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる


 兄が書いたメッセージカードを両手でしかと持ち、頭の中でその文章を何度も復唱した。


 兄は何を思って僕にこんなものをくれたのか。励ましのつもりか、それとも、安らぎを与えるためか、それとも、もっと別の理由か。呪文のようにその一節を唱えていたところで、その答えに辿り着くわけはなく、ついにはそのメッセージカードをテーブルの上にそっと置いた。


 このメッセージカードは絶対失くさないと決めた。「お守りにする」「宝物にする」と言うと子どもっぽく聞こえてしまうかもしれないが、僕にとって大切なものが増えたことは確かだ。また気が落ち込んだ時にはこのメッセージカードを見ることにしよう。


 兄のところへ行く予定はまだ決めていない。でも、可能であれば、この気持ちが残っているうちに──兄の言葉を借りるのであれば、そこに『濁り』が生まれる前に──、兄をああまで魅了した海を見てみたい。そして出来ることなら、兄がこのゼリーを作る過程を見届けてみたい。


 この気持ちを保つために、あのメッセージカードと、このゼリーは役立ってくれるような気がした。


 日差しを塞いでいたカーテンをほんの少しだけ開け、陽の光を部屋の中に取り入れる。すると床の上に一筋の光の道が生まれて、その光は部屋の奥へ奥へと突き進んでいった。


 その光の道の上に立ったまま、保存容器の蓋を開けると、ラムネの香りがふわりと溢れ出た。降り注ぐ冷房の風が、ラムネの香りをまとって、僕の頬を撫で、髪を少し揺らした。


 キッチンから持ってきた銀色のスプーンの先が、ほんの少しだけ『海』をえぐっても、魚たちは気にすることなく過ごしており、スプーンですくい取った部分の『海』にも小魚の群れが紛れ込んでいたが、慌てる様子一つ見せずに、隊列を乱すことなく平然としている。


 スプーンに乗せた『海』を陽に掲げてみると、きらきらと陽の光を反射し、海の青は一層鮮やかに輝いている。わずかな手の震えや空気の流れ繊細に感じ取り、ゼリーはぷるぷると柔らかく揺れる。


 やはり、それは食ってしまいたくなるほどの美しい景色ではあるものの、いさこれからその景色を食ってやろうと思うと、急にもったいなく感じてしまう。


 口の前まで持ってきた『海』を、僕はえいやと思い切って口に入れた。


 ゼリーはつるりと滑らかで、歯応えと呼べるほどの歯応えもなく、うっかりそのまま喉の奥に流れ落ちてしまいそうな気がしてならなかった。それでもゼリーを一噛み、二噛みとすると、ラムネの味がじんわりと溶け出してきた。


 細かくなったゼリーを舌で転がし、歯の裏側から、奥歯のさらに奥まで、ラムネの爽やかな甘味を口一杯に満遍なく広げる。しかし、「あっ」と思った時にはもう遅く、ゼリーは喉奥の谷底へ滑り落ちていった。


 口の中に残った甘みの余韻に浸りながら、また『海』をスプーンですくいとった。スプーンは大きく、豪快に、珊瑚礁ごと『海』を削る。


 大きく口を開けて、スプーンの上の『海』を僕は舌で受け止めた。


 何度かの咀嚼の後、僕はゼリーを口の中に溜めたまま、なんとなく、薄く汚れた窓ガラスを開けて、雲一つない青空を見上げた。


 瞼をほんの少しだけ下ろし、淡い青から深い青へのグラデーションを目で追っていると、そよ風が僕の前を通り過ぎていった。


 誰かの吐いた溜息がぎゅっと凝縮されて生まれたみたいな風だった。潮の香りなんてちっともしない。憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれるような清涼感もなければ、解放感もない。


 気を抜いてしまうと、兄から聞いた海の話や、舌の上にあるラムネ味すらも忘れてしまいそうな────。いや。そんなことはない。


 僕の心の中に芽生えた海への憧れは依然としてそこにあって、むしろ、都会の空気にさらされているほど、恋愛感情にもよく似たその想いは一層強くなる。


 ────だからこそ、なのかな。


 海の青とはまた違う青を見上げながら、ラムネ味の海を、ごくりと飲みこんだ。

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